[はじめに]現代社会に日本舞踊の占める役割があるだろうか?。単なる無形文化財の古典芸能と同じなのだろうか。舞踊家は生産者でもなく労働者でもない。 人々の余暇に娯楽を提供する諸々のうちの一つが日本舞踊であって、今の社会に存在する必要性は薄弱だ。 然し人々の余暇が増していく現代には、いかにその余暇を有意義に過ごすかが社会的問題に成るだろう。 また働くことや生活を営む事のほかに、真剣な生きがいを見つけることが社会的な課題として求められるかも知れない。 その視点から将来の日本舞踊の在り方を考えられるかも知れない。 趣味として日本舞踊を嗜むという範疇を越え、日本舞踊の稽古や公演を通じて人間を学び修業し 生きがいとなるものがあるかも知れない。 日本舞踊そのものには、それだけの奥行がある。 だがそれならばこそ、今の日本舞踊を伝え教える者達の姿勢が問い直されるのも事実だろう。 日本舞踊の創作は、日本舞踊と呼ばれるものの未来を見つめて考えられるべきだ。 古典も新作も、日本人の心を伝えるものであるからこそ、人はその中に自然や人間そのものを感じ、感動するのであろう。 たかが舞踊、されど舞踊。 踊りに携わるものが、驕ることなく、貪ぼることなく、真摯に道を励むことが、日本舞踊の未来に必要とされるのだ。 [舞踊の定義]魅せられるように胸はずみ、体おどる舞踊とは一体何なのだろうか、略史を辿って探っておきたい。文明がようやく陽の出に染まるころには、舞踊は既に人間にとって馴染み深いものになっていた。 おそらく両の手が歩行に使用されなくなって、初めて文化と呼べるものが登場したとすれば、 それは舞踊ではなかったろうか。 舞踊の発生起源には二つの説がある。 「身体のリズム(鼓動・脈動)に合わせた生理的律動運動が快感を伴い、繰り返し行われるときに起因する。」とする説。 また「自然現象(木の葉の散る様、風の吹き行く様など)や動物の動きを模倣する時に起因する。」とする説である。 また舞踊は、その舞踊目的の種類によって「踊るものが楽しむ舞踊」「自己・他己を高める教育的舞踊」 「芸術的鑑賞の対象としての舞踊」「踊ること以外に実利的な目的を持った舞踊」に分類されている。 原始時代における舞踊は、毎日のようにその集団全員が実利的な目的を持って踊られ、生活の重要な位置を占めていた。 文明の発達にともない、生活単位の部落が都市国家へと成長すると、集団の舞踊が少数の支配的な人々による 呪術的な宗教儀式へと発展した。 都市国家が古代国家として成長する文化黎明の頃には、 亜細亜大陸の東西に「ダンス」と「舞踊」という注目すべき違いが生じていた。 西洋の「ダンス」は[古代フランス語]の、「あちらこちらに動く」という意味をもつ [dintjan]より造られた言葉である。 躍動するステップを中心に、踊ること自体を楽しむ踊りが発達してきた。 其の一因として、中世のキリスト教会が、それまで行われてきた宗教的な舞踊を禁止し、 更に異端の宗教・魔術を排するため、感情や意思、出来事を伝達する舞踊を弾圧したためである。 東洋の「舞踊」は、長い飾りのついた袂を振って、回転している様を表す「舞」と、 足で地面を突き跳ねる様を表す「踊」からなる。 上半身を動かして、足を踏み鳴らし、種々の姿を演じるものであった。 そのため感情や意思、出来事を表現し伝達することが可能となり、西洋に較べて3千年早く、 いわゆる総合舞台芸術(絵画・音楽・肉体表現を総合した舞台芸術・・・本来は演劇の事を意味する)となった。 「舞踊」とは、東洋の「舞踊」のことであろうか、西洋の「ダンス」もまた優れた「舞踊」ではなかろうか。 「舞踊」とは一体どういうものなのであろうか。 仮にこう定義できないだろうか、 「舞踊とは、人間と係わる世界を表現する、人間の身体運動が継続している間だけ存在する芸術である」と。 [西欧 近世 舞踊革命]古典バレエと日本舞踊には、幾つかの共通点が見つけられる。独特固有の足使い、伝承された数々の型、一人立ちか二人立ちの踊りが主で、 演劇の幕間に装飾的に演じられて発達してきたことである。しかし基本的に全く異なる点もある。 東洋の伝統的舞踊思想を受け継ぐ日本舞踊は、感情や意思や状況を表現し、 事件や事実の伝達を目的として、その上に華やかな美しさを求めた。 一方古典バレエは、身体運動の美学的な見地から作られ、意味ある動きや表現の伝達よりも、 アクロバットのような形の身体の美しさを追い求めた。 古典バレエは、その芸術性を職人的技術の巧緻性と同一視した所に問題がある。 そのため近代に入ってから「芸術舞踊とは創作されたものであり、 観客とのコミュニケーションが行われなければならない。」とする芸術思潮が高まった。 「舞踊は創作される芸術でなくてはならない。固定したステップや型を模倣することから解放されて、 自由に創造し表現する芸術とならなければならない。」とするのである。 これが西欧における近代舞踊革命の根幹である。 日本舞踊に携わるものも、この言葉を吟味しなければならない。 日本舞踊の場合も、定められた足使い、動き、型があるため、この言葉に影響を受け易い。 しかしここに注意すべき点がある。 古典バレエの場合はあくまで肉体の動きが、一定のステップ、 一定の型とならなければ美しいと評価されないのである。 日本舞踊の場合は、演者の工夫によって定められている振りを微妙に変化させ、 より深みの有るその演者独自の舞踊として踊ることが認められるのである。 古典バレエのように一定の型や足捌きに定められた究極の美というものが無いためである。 言い換えれば日本舞踊は、古典バレエに対するモダンバレエとでも言えるかも知れない。 舞踊によって、人間の感情や意思、情景を表現し伝達するということは、当時の西欧人にとって革命的な事であった。 この近代舞踊革命は、古代ギリシャに発達した身体文化……肉体の美しさは心の美しさを表す(裸体彫刻の人間讃歌)…… が創りだした心身一元論を基にしている。 それは、「心と体は分離することの出来無い一つのものであって、それがすなわち人間である。」と言うものである。 この心身一元論が唱えられる迄、西欧では、中世キリスト教会が提唱した心身二元論に支配されていた。 心身二元論とは「肉体とは、人間のあらゆる欲望の源であり、肉体と精神を分離し肉体を鎮め精神の清浄を保たねばならない。」 とするものであって、そのために非人間的な形を取り入れた古典バレエが、美学的に美しいと尊重されたのである。 心身一元論は、19世紀に入って人間性の解放を唱えた。 身体と心の解放を叫び、肉体の尊重を訴え、人間の基本条件として、肉体美・精神美と健康の一致した状態を示したのである。 これはまた、近代体育の成因ともなった。 古典バレエは、コルセットやトウシューズなどによる身体の奇形化を招き、ステップや形によって、 身体の生理的な運動を制約していた。 さらに、その舞踊の本質が人間の感情や意思を表現することに適さないとして、近代舞踊革命によって否定された。 しかし、古典バレエの制約を離れた西欧舞踊界が、自然運動・自由運動と名ずけられた自由気ままな生理的運動を、 最新の舞踊思想・舞踊技術だとして熱狂的に迎えたため、多くの困難な問題が続出したことも事実であった。 ★古典バレエ以外の、舞踊と称するものならどんな動きであっても、新しい芸術・舞踊して認めたこと。 ★芸術としての舞踊形式を持たない即興的な舞踊の続出 ★舞踊訓練や素養の欠如した素人の舞踊界進出 ★自然美と芸術美の混同 ★主観的自然運動と客観的自然運動の混乱 ★身体訓練についての無知と欠如 前記のような問題の解決がつかないままに、どの踊りを見ても何度違う踊りを見ても同じような踊りに見えてしまう為、 観客が少なくなっていった。 創造的な手法を確立し得なかった舞踊家は、若く新鮮であった情熱を消耗して、創作能力さえ衰え去っていく。 時代は、新しい舞踊の方法論・舞踊美の形式を必要とした。 そこに近代舞踊革命の精神を受け継ぎ発展させていく、ドイツのバウハウスを中心とする人々が登場した。 ルドルフ=ラバン等である。 ラバンは語った。『舞踊は人間の身体の動きを通して、魂を表現する芸術である』 現代のモダンダンス(現代芸術舞踊)の基礎となっている幾つかの舞踊形式は、この頃考案された。 ★同時性シンメトリー・異時性シンメトリー ★ア.シンメトリー.コントラスト ★バランス・四単位形式・六単位形式 ★ロンド形式・カノン形式 ラバン等はまた、主人公を持たない群舞による芸術舞踊を企し、群舞の合唱と呼んだのである。 [日本における創作舞踊の足跡]江戸時代は、日本舞踊の創作活動にとって、質的にも量的にも大進歩の時代と呼ばなければならない。江戸時代のそのエネルギーが、引き続き明治・大正・昭和初期の創作活動を可能とさせたのだろう。 明治は、西洋の舞踊文化が流入し、様々な大混乱期であった。 「ワルツ」「ポルカ」といった社交ダンスが、西洋文化の吸収のため西洋模倣の一端として広められた。 芸術的な西欧舞踊は、大正時代にG.Vロッシーが古典バレエを紹介したのに始まる。 門下に石井漠・伊藤道郎・高田雅夫、せい子らがいた。 古典バレエは、当時の日本人にとって新鮮で前衛的でさえあった。 さらに近代舞踊革命以後のモダンダンスなどが紹介されるに至ると、 日本の舞踊界は二世紀におよぶ歴史的経過を一挙に受けとめることとなった。 古典バレエ・モダンダンス、どちらも日本にとっては最新の前衛舞踊であり、政治的にも積極的に受け入れられた。 そのため今日に至るまで、西欧の新旧舞踊が日本の各舞踊界へ与えた功罪は多大なものとなった。 大正時代・昭和初期の日本舞踊界の創作活動に見られる混乱は、 優秀な指導的舞踊家の登場によって徐々に一つの方向を見い出す。 しかしそれも束の間、第二次世界大戦の戦前・戦中における民族主義の台頭によって西欧文化が否定され、 戦後の舞踊思潮を大正昭和初期の混乱へと再び突き落としていった。 戦後、貴重な戦前の遺産を引き継ぐことの出来なかった舞踊界は、試行錯誤を繰り返すこととなった。 日本舞踊そのものを研究するいとまもなく、西洋の戦争前後二十年に渡るより進歩した舞踊文化の流入によって、 戦前とは比較にならないほど混乱し、戦前の指導者層との思想的経験的差を補うことも出来ず、 日本舞踊としての創作の確固たる基盤を創り得なかった。 それゆえ今日もなお、創作上の思想的矛盾混乱、方法論の混迷が見られる。 現代は、個々の舞踊家が雑多な方向性をもつ芸術舞踊創造の発展を担う形となった。 [戦後の日本舞踊界]古典バレエや近代舞踊の影響を受けて、変貌した日本舞踊の創作活動も、群舞や西洋楽曲の使用などで行き詰まると、古典作品の新演出による復活再演、古典手法の踏襲などが行われるようになった。 社会的な現象として、芸術創造の活力が失われると古典回帰へと主な思潮が変化してゆくのである。 まるで岸に打ちよせる波のごとく、今一度の前進のために寄せ返して力を蓄えているようなものだ。 また、末枝に入り込んだ創造の流れを、本幹へと返すようなものでもある。 第二次世界大戦前後の暗黒時代を乗り越えた舞踊界は、戦前の指導的人々の足跡を、再び辿らなければならなかった。 更に欧米の舞踊思潮を、是非もなく受け入れた戦後の混乱は、西欧における近代舞踊革命時よりもなお支離滅裂であった。 欧米の文化思想の吸収に焦って、日本舞踊が何を表現し得るかと言う根本問題に目を閉じていたためである。 この実害を解決し、世界の舞踊の進歩を担う、未来の日本舞踊を創造するためには、日本舞踊独自の特性を研究し、 古典作品の創作手法から今日の舞踊創作手法に至るまでを学び、芸術形式の再確認を行い、創作手法の基礎を築くことが急務である。 「創作手法の研究」「1.日本舞踊の姿」日本舞踊独自の、特徴的な面を列挙して、まず古典作品の創作手法を探ってみたい。日本舞踊を語るのに、演劇的な側面を見逃すことができない。 その演劇的要素とは、一般に独特な省略を用いた物真似、しぐさに代表されると言う。 しかしそればかりではなく一曲の舞踊を首尾一貫して踊り抜くときにも、踊り手に演劇的な表現力が必要とされる。 単純な一挙手にも、唄や旋律で表される曲の前後の意味合から、様々な事柄を表現しなければならない。 振りとして残されていくものは、単に小手をかざすだけなのに、受け継ぐ踊り手は、目線・肩等四肢五体を総動員して、 曲の意味合を表現しなければならない。 曲全体を貫く主題、節ごと段ごとに変わる趣、踊る役柄など、演劇的な解釈と表現力を抜きにして、 日本舞踊を語ることはできない。 日本舞踊はまた、踊る者の年頃に代表される様々な特性に影響される。 年齢による色香があり、年齢による踊りの解釈があって、様々な個々に備わる特性が、 踊りそのものの味わいを深めているのである。 花伝書“年来稽古条々”に曰く、時分の花というものがあると示されている。 『十二才〜十三才の頃と言えば、一心懸命に踊っているだけで可愛らしく、妙になまめかしいものである。 見栄や驕りが技を曇らせることもなく、上手下手を越えて、師匠に言われた通りそのままに踊っている様が、 何とも言えず清々しくほほえましい。 また素直な踊りゆえに、生得の個性が踊りに自然と現れて一種の含味をかもしだしてもいるのである。 唯々一つひとつの動きをたくまずに踊ることによって、にじみでる十二才〜十三才の年頃の色香風情である。』 一方、日本舞踊を構成する類型的な動きや型は、その動きが創造された時代には、 ボディ言語の役割(ノンバーバルコミュニケーション)を果たしていたのではないだろうか。 当時の日本の美意識は、寺社建築に見られる様式美のように、華麗荘厳と質実純朴の両極に存在するらしい。 日本舞踊にも、絢爛たる心のときめきを秘めた、厳しい純朴さがある。 世阿弥の残した「風姿」という言葉のように、舞踊の心とからだの動きは、風の吹き寄せるごとく、 息づくような調べを持つものであり、無駄の入り込む余地の無いものである。 ボディ言語としての類型的な動きや型を美しい風姿にするため、常に寒風に身をおくような厳しい美意識があった。 日本舞踊の類型的な動きや型が、生き生きとした「心理表現」や「情況表現」を可能とするのは、 踊り手の年齢や演技的な肉付け、張り詰めた美意識、個性の賜物である。 言い換えれば日本舞踊とは、古典・新作に係わらず、一回一回、踊り手によって新たに創作されるものであるといえる。 「2.創作法」伝達手段としての身振り・動作現代の言葉は、沢山の語彙を抱えて、過去のどの時代よりも言語的に豊かな時代と言える。従来の言葉で表現できないものでも、専門語や外来語から一般名詞を産み出している。 舞踊もまた、一種のボディ言語であるならば、豊富な現代言葉に追い付いているのだろうか。 日本舞踊の場合過去50年に渡って、ボディ言語としての振りや型が、増えているとは言い難い。 現代を描く日本舞踊の創作法としては、まず自分自身の語彙を創り出す事から考えなければならない。 現代人の多様な行動(感情・感覚・習慣)をシンボル化して、創作のための基礎を造らねばならないだろう。 新しい振り・所作の創造には、「心理的身振り」(ミハイル=チエホフ著)を取り上げてみよう。 彼は、『人は自分の感情を直接的なやり方で支配することは出来ない。しかし、ある間接的なやり方によっては、 自分の感情を誘発したり刺激したり、思いのままに誘い出したりすることが出来る。』と言う。彼はまた、 『ある一つの動作は、明確なそれに相応しい欲望を目覚めさせ、その動作の特質によって感情が自然に誘いだされる』 此の特殊な動作を『心理的身振り』と呼ぶ。 安定した身体の状態は安定した心の状態を表している。 身体のバランスが崩れたとき、心の安定も損なわれ、心理的な影響力を持ち得る状態となる。 このような心の動きである感情や状況の変化による肉体の反応を観察し、 その肉体の動きを再現することで体験された感情や状況の再生を行うような試みが、新しい振り・所作の創造の糧となる。 また音楽や歌詞による観客への情報伝達能力の見直しと、 音楽や歌詞が踊り手へどのような影響を及ぼすかも研究しなければならない。 照明黙阿弥の作に岩戸だんまりという狂言がある。「景清が、太陽に例えた小烏丸という刀に、月に例えた兎の血を塗って、江ノ島の崖に隠れたため 鎌倉の天地が暗くなり、そこで使者が天の岩戸になぞって岩を引く」と言う粗筋。 その狂言の中で、景清が現れて刀を抜くとき、ト書きに(両窓蓋を開きて、舞台を明るくす)とあり、 また刀を鞘へ納めると(蓋を閉め)と言う指定がある。 薪能の川と、かがり火の工夫からも、昔から明かりが舞台効果にいかに大切であったか、知ることが出来る。 現代の照明設備は照明だけで舞台装置を必要としない舞台が作れるほどである。 悪戯に進んだ照明設備に頼るのは考えものだが、舞踊家として何を表現するか・何を踊るかをはっきりと自覚して、 舞台を作り上げると言う意味でも照明など日進月歩の技術を知る必要があるだろう。 衣装着物は日本の民族衣装と言うだけでなく、日本舞踊にとって象徴的な表現方法を産み、 日本舞踊の表現そのものを支えていると言っても過言ではない。 着物の基本構造は、人体の曲線を覆い幾何学的な美しさを作り、身体の動きを制約しない機能性を備え、 手足の軌跡を線の変化から面の変化として具現することが出来る。 創作上古典様式の踏襲であると言って、安易に着物を否定せず、 創作作品にふさわしい衣装を選択することが肝要である。 世界に通用する舞踊をと言っても、唯欧米のスタイルを模倣すれば良いわけではない。 何を表現したいのか、舞踊家の芸術創造の意思が、全ての表現手段を決定するのである。 「踊る者へ贈る言葉」演劇が人間と言うものを追及するに当たって、間接的に人間の内宇宙(感情や感覚、思想や精神世界の諸々)を描くとしたら、舞踊は直接的に人間の内宇宙を描くものであるといえるだろう。 舞踊的なあらゆる舞台芸術は、人間の内宇宙における様々な欲望や可能性を具現化し、直接観客へ突きつけているに相違無い。 しかし内宇宙に入るには、それなりの儀式が必要だ。 つまり客観的な状況を通過しなければ、狙い定めた主観の世界、人間の内宇宙へと観客を導けないのである。 舞台上の世界は彼岸である。 観客は此岸である。しかし舞台上の舞踊もまた、その踊りの中で此岸から彼岸へと渡らなければ、舞踊の本義は成就しない。 此岸である客観的状況つまり舞踊の主題とその踊りが必然的に生じるに至る、未だ何事も起きていない準備された世界。 それはあくまでも観客に理解されていなければならない世界である。 舞踊は、人間の内宇宙の断面を直接表現出来る芸術の数少ない一つである。 しかし他の芸術のように総括することはできない。 あくまで瞬間瞬間の一面である。 瞬間瞬間の変化、人間の内宇宙の激変、舞踊は人間の精神世界の巨大な様と驚異的な複雑さを知らねばならない。 そこから想うに、舞踊家の本当の仕事は、自分自身の探究と解放なのかもしれない。 自分の感情世界を見極め、創造的に解放することなのであろう。 |
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