東京湾に面する鶴見区域では、昔から生麦が漁場として栄えてきました。その起こりについては徳川家康が江戸城に入って江戸が大きな消費地になったからだといわれています。江戸城の御菜御魚(鮮魚)を定期的に献上するほか、幕府の御用船の曳舟などの船役をつとめる見返りとして、東京湾(当時は内海と呼ぶ)の漁業権が認められていたからです。
 大正十四年以降、工業地帯の埋め立て工事が開始され、翌年には生麦漁場の大半は埋め立てられてしまい、地元の漁場を失った漁師たちは本牧沖に新しい漁を求めるようになりました。しかし、昭和四十六年には、湾内漁業も終止符が打たれ、漁業補償を受けてから、この浜には、完全に漁師さんの姿が消えてしまったのです。
「鶴見に歴史と人々の暮らし』 
鶴見の歴史と人々の暮らし編集委員会 発行 より引用
 今、生麦魚河岸などといっていますが、昔からあったわけではなく、これは戦後の闇市の名残なんです。
 現在、JR国道駅から400m程続く魚河岸通りに80軒ほどの店があり、午前8時〜11時まで朝市が開かれ、威勢のいい声が響いています。朝市は水曜日、日曜日が休み。
「古老が語る鶴見の百話」 
鶴見区役所 福祉部市民課 発行 より引用


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