物語研究会1998年度 例会・大会記録


 
ホームへ戻る1999年度最新情報 1998年度 1996年度
1995年度 1994年度年間テーマ一覧  BOOKS

 

                   (1999.04.09更新)

【例会〈第244回〉・総会通知】

・とき  03月20日 13:30 Start

・ところ 日本大学文理学部H本館408教室 新宿京王線下高井戸駅下車徒歩10分 13:30 Start

【年間テーマ】〈物語学の限界〉−物語学の限界、さらには研究者個々人の研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

 光源氏と明石姫君−産養をめぐる史劇・つづき  小嶋菜温子 −本発表は延期になりました。− 

《合評会》新物語研究5(報告・今井俊哉・原豊二・稲田路子)

・98年度総会

○小森潔氏編 叢書・文化学の越境D『女と男のことばと文学─性差・言説・フィクション』(森話社、256頁、2600円+税、3月19日刊行)

○日向一雅氏『源氏物語の準拠と話型』(至文堂・\10000円)刊行。

○室城秀之氏編『うつほ物語の総合研究1・本文篇・語彙索引篇』(勉誠出版・\78800円)刊行なる。

○うつほ物語研究会編『「うつほ物語考証」の研究』(国文学研究資料館共同研究報告書・非売品)刊行なる。

○渡部泰明氏『中世和歌の生成』(若草書房・\12000円)刊行なる。

【1月例会通知(第243回)】

とき  1月30日(第5土曜日)13:45 Start 時間厳守 

ところ 白百合女子大学三号館3201教室 新宿京王線仙川駅下車徒歩10分 

・年間テーマ<物語学の限界> 

 物語学の限界、さらには研究者個々人の、研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

源氏物語における異性愛化の方法――正典化の一様相として 斉藤 昭子

・合評会 神野藤昭夫氏著『散逸した物語世界と物語史』  報告者・豊島秀範・下鳥朝代・安田真一 

・<発表要旨> 

源氏物語における異性愛化の方法――正典化の一様相として 斉藤 昭子

昨年『物語研究会会報二九』に、源氏物語が正典(カノン)化する過程の中で、「遺産」としてジェンダーの内的な核を演出する力を発揮することをごく短く述べました。今回は、そうしたジェンダー・アイデンティティが理解される際、しばしばそれとの連続性を想定されるヘテロセクシュアルなものを、源氏物語とそれをめぐる種々の言説が強化してきた(している)様相と、それがいかにして成功しているかを見てみたいと思っています。これは、異性愛者である(でしかない)私(しかし異性愛的なものに違和を感じずにはいられなくもある私)の場所から、異性愛体制を批判する方法の可能性と限界を問う試みになるはずです。

○室城秀之氏他校注『小町集・業平集・遍照集・素性集他』(和歌文学大系O・明治書院・\5800円)刊行なる。

○吉海直人氏の新著『百人一首への招待』(ちくま新書・216頁・\660円)刊行なる。

○研究会会員多数執筆になる秋山 虔・室伏信助氏編『源氏物語必携事典』(角川書店.\3300円)刊行なる。

******************************

【12月例会案内(第242回)】

とき  12月19日(第3土曜日)13:30 Start 

ところ 明治大学駿河台校舎、リバテイータワー1104教室、(新校舎、10階第4教室)、なお教室内は禁煙です

・年間テーマ<物語学の限界> 

 物語学の限界、さらには研究者個々人の、研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

光源氏の語りかた―物語(学)の臨界を探るために―    安藤 徹氏

・合評会 葛綿正一氏著『源氏物語のティマティスム』(笠間書院)

          報告者  宗雪修三・助川幸逸郎氏

【発表要旨】

光源氏の語りかた―物語(学)の臨界を探るために―安藤 徹

 「物語学の限界」という課題について、『源氏物語』の光源氏の語りかたを具体的な対象として考えてみたい。光源氏がいかに語るか、他の登場人物や語り手は光源氏をいかに語るか、そして読者・研究者は光源氏をいかに語るか……レベルの異なるはずの「光源氏の語りかた」を、その差異と同時に連続する側面をも視野に入れて分析したいと考えている。そのことで、物語というものの臨界、あるいは物語学の臨界を探るための手がかりの一端でも得ることができれば、本発表は成功したことになるはずである。ちなみに言う。臨界(critical)の物語学は批判的(critical)でなければならないと同時に、危機的(critical)かつ決定的(critical)なものでもある。「限界」ではなく「臨界」を問うのは、そのためである。(12.01受理)

○小林正明氏の『村上春樹・塔と海の彼方に』(森話社・253頁・\2400円)11.30刊行、物語研究会会員特価販売(会員価格 \2016+送料\210)があります。森話社(FAX.03-3292-2636)に会員であることを明記してご注文ください。

○吉海直人氏の編著『住吉物語』(和泉書院・167頁・\1700円)11.25刊行。

○12月19日臨時総会報告@日本学術会議への物語研究会の学術団体登録は投票の結果承認されました。登録に関する準備委員を1月例会で発表します。A古代文学会との合同研究会の件。(略)B次期事務局の件。プロジェクトを編成して協議します。Cその他。古代文学研究会との合同大会再開の要望が提案されました。

○三谷邦明・三田村雅子氏の初の共著『源氏物語絵巻の謎を読み解く』(角川書店・300頁・\1800円)12.18日刊行。

******************************

【11月例会通知(第241回)】】

とき  11月21日(第三土曜日)13:30 Start 

ところ 日本大学文理学部本館H409教室

『土佐日記』仮名表記文学論  神田龍身氏

・年間テーマ<物語学の限界> 

 物語学の限界、さらには研究者個々人の、研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

ジェンダー美術論の功罪    河添房江氏

合評会 小森 潔氏著『枕草子 逸脱のまなざし』(笠間書院)

          報告者  津島知明・原岡文子氏

○発表要旨

『土佐日記』仮名表記文学論  神田龍身

 以前、「シニフィアンとしての海面」という副題で、『土佐日記』についての短文をものしたことがある。(「平安朝文学研究」復刊六号、平成九年十二月)。今回の発表では、この原稿を拡大再生産するところからはじめ、さらにはそのこととこの日記の仮名表記の方法との不即不離の関係を考えてみることにしたい。当日、前稿は配ります。また青谿書屋本をそのままおこした『土佐日記』も用意します。

  ジェンダー美術論の功罪              河添房江

 昨秋の東大国語国文学会の「文学と絵画」のシンポジウムで話した「『源氏物語』と絵画−−最近の研究動向から」をさらに発展させて、流行りのジェンダー日本美術史論への批判(もちろん評価も)を展開したい。千野香織「日本美術のジェンダー」の起爆力は、物研でも九四年から二年間、年間テーマがジェンダーになるなど大きく、ここ一年をとっても、千野香織編『美術とジェンダー』(ブリュッケ)、池田忍『日本絵画の女性像』(筑摩書房)などの成果がある。フェミニズム美術論からは、その微温性が批判されるジェンダー美術論だが、私からすれば、ジェンダー美術論は、依然として男女の性差の非対称性という分析の枠組みに囚われているように思われる。むしろジェンダー美術論は、そうであるがゆえに、中世のように、男女の非対称性が平安期よりも際だつ時代において、有効性を発揮するのではないか。今回のジェンダー美術論の功罪についての分析は、近著『性と文化の源氏物語−−書く女の誕生』(筑摩書房)で積み残した課題でもある。

○河添房江氏の新著『性と文化の源氏物語−−書く女の誕生』(筑摩書房 ・\2800円)刊行。

○兵藤裕己氏のサントリー学芸賞受賞後初の新著『平家物語−<語り>のテクスト』(ちくま新書・¥660円)刊行。

******************************

【9月例会通知(第240回)】】

とき  9月19日(第三土曜日)14:00 Start 

ところ 國學院大學本館101教室・中庭奥のキャッシュディスペンサーが目印、百周年記念館東

・年間テーマ<物語学の限界> 

 物語学の限界、さらには研究者個々人の、研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

  絶望の言説−限界の竹取学、文献学と物語世界の臨界線   上原作和

・合評会・ 久富木原玲氏書『源氏物語 歌と呪性』 

                        報告者・渡部泰明氏 井野葉子氏

○テーマ発表要旨。

  絶望の言説−限界の竹取学、文献学と物語世界の臨界線    上原作和

 僕の卒業論文は『竹取物語の研究』(1986)でした。数年後書いた修士論文もやはり『竹取物語の研究』(1990)で、古本本文(新井本)を底本に、伝後光厳院宸翰の古筆切本文数葉・『風葉集』所引の和歌本文・『海道記』本文等を以て本文批判を実施し、流布本に対置する古本系の 物語本文の宗本(アーキタイプ)を復原しようと企図したものです。その間、漢文体『竹取』先行説やら『斑竹姑娘』原本説などにも寄り道したりして、その頃の思考の残骸が『研究講座竹取物語の視界』(1998)に再録されてしまいました(初出1989)。今、あの頃の感慨を吐露すれば、文献学理論を厳密に突き詰めると、やはり『竹取物語』を以てしても、院政期はおろか、伝本状況の比較的良好な『風葉集』所引の和歌本文以前には遡れないのだ(もちろん大島本『源氏物語』絵合巻所引本文にも先行して)、と言う絶望感がありました。そして、そこから逃避しようとして、慣れない作品世界へと迷い込んだのが、先の論文だったのです。

 つまり、現存の『竹取翁物語』は、どの本でも平安時代の言説として語る資格を有しません。しかし、これらのテクストを、世界文学に冠たる物語言説であると称揚するしかないことにこそ、欺瞞に満ちた、我々「物語研究者」の宿業であることを、直視・確認しつつ、それでも、そこから僕の物語学の臨界線を見つめ直したいと思っています。(8.31稿)

******************************

【物語研究会大会】   

とき  8月17日(第三月曜日) より 19日 まで

ところ 長野県南安曇郡白馬村みそら野 ペンション・ブラウニー 

【発表題目】

・自由発表17日・18日午前

 「夜見の嶋」をめぐって---『源氏物語』の古代にむけて          原 豊二

 浮舟の言説空間への試み                     徳江純子

 物語言説の成立−パスティーシュあるいは竹取物語の冒頭場面を読む  三谷邦明

・シンポジューム、年間テーマ<物語学の限界> 18日午後、19日総合討論

 物語学の限界、さらには研究者個々人の、研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

                              司会 齊藤昭子

  文学史叙述の方法                      松岡智之

  消費される色好み                       立石和弘

   山城国「山崎」の文学史                    久保田孝夫

                         ディスカッサント  安藤 徹

  事務局報告 

○大会自由発表要旨。

  浮舟の言説空間への試み                    徳江純子

 源氏物語宇治十帖における浮舟には、さまざまな言説が用いられています。その言説は絶えず浮舟の存在とずらされながらも、浮舟という「疎外」された人物を中心とすることで、物語が「疎外」自体を抱え込む領域に踏み込んだ、ということを次第に明るみにしていきます。今回はこの点に向けるひとつの試みとして、「手紙」(消息文・文)をクローズアップし、そこにどのような圧力関係が発生しているのかを見ていきたいと思います。(8.01受理)

  物語言説の成立−パスティーシュあるいは竹取物語の冒頭場面を読む 三谷邦明

 <異議申し立ての物語学>の立場から、竹取物語の冒頭場面を、克明に言説分析しながら、物語文学の言説が、中国文(漢文)・漢文訓読文・口承伝承の言説などをパスティーシュ(PASTICHE)しながら成立してくることを明晰化したいと思っています。すでにペーパー(研究発表原稿・五十枚程度)はできているのですが、今回は大会で配布することにしました。ただし、大会前に必要な方は、電話などで連絡してください。送付します。発表では、竹取物語の文学史的位相を、従来以上に明確化できたらと考えています。活発な批判・批評的な発言を期待しています。(7.29受理)

  「夜見の嶋」をめぐって---『源氏物語』の古代にむけて          原 豊二

 米子西部と境港市を指す地域、今、それは弓ヶ浜と呼ばれ、『風土記』の時代には「夜見の嶋」と呼ばれた。本発表では、まず「夜見の嶋」そのものを概観した後で、「夜見」と「黄泉」の関連を考える。また、「夜見の嶋」に隣接する「粟嶋」の問題に触れ、新編日本古典文学全集『日本書紀』などの頭注を批判する。さらに、『源氏物語』などに表わされる「ヨミ」を考察することとする。

以下、結論。

1/「黄泉」と「夜見」は地誌的に強く結び付く。

2/「粟嶋」は単一の島。大系本、新編全集の記述は不適切。

3/上代において具体的、可視的であった「黄泉(夜見)」は、中古においては抽象的、観念的な語に変容した。

4/時代が下るにつれて、人の死を仏教の論理で解くのが一般的になり、「ヨミ」という神道的な論理で解くことはなくなっていった。であるから、中古での「ヨミ」の記述は神話の論理が残されているのであり、着目すべき所であろう。(7.28受理)

○大会シンポジューム<物語学の限界>要旨。

  文学史叙述の方法                松岡智之

 ある物事を理解するためのひとつの方法として、その事柄の歴史を知るというやり方がある。日本文学を理解するために、日本文学史があるわけだ。そして、歴史は叙述によって生まれる以上、文学史をいかに書くのかという方法が問われることになる。

 芳賀矢一は『国文学史十講』で、作者や作品を並べるだけでは文学史にならない、そのあいだに十分な関係をつけることが必要だといい、また、人物と時代は相互に関連していなくてはならないとのべた。作者・作品の羅列ではダメだということは、近代国文学成立当初から、文学史叙述に課せられた問題であったのである。そうした観点から、西郷信綱『日本古代文学史』における達成も評価できるだろう。いわゆる歴史社会学派の方法は、文学の歴史を記述する有力なやり方であった。一方でそうした記述法では見えてこない文学の歴史があり、そこから「表現史」の構想も出てくるのであろう。安易に歴史社会の側から説明しないことで、表現の変遷を緻密にとらえる方法が生まれてくるはずだ。しかし、歴史社会の側からの解釈を完全に手放してしまえば、文学史叙述は非常に貧しいものとなる。分析・記述の概念が緻密になるに従って、現象指摘の羅列となる可能性がある。それでは、文学の歴史を知るという欲求に十分答えられまい。

 限られた紙幅での文学史叙述には、常に大いなる断念がつきまとう。文学史叙述の方法を見出すことは、妥当な断念の場所を探すことでもあろう。そのためには、種々の方法の可能性・不可能性を見定める必要がある。今回は、西郷の著作を軸に、藤岡作太郎・五十嵐力・風巻景次郎、また小西甚一その他の人々の文学史がどのようにして、文学史という歴史を記述によって作りあげているのか、文学史像をいかに成り立たせているのかを検討し、さらに、そうした文学史像が物語文学研究に与えた影響についても考えられるところを報告したい。(8.02受理)

   消費される色好み                立石和弘

 例えば高校の教壇に立って、「源氏物語屈指の名場面」とされる車争いを、教材として扱う時の怖さ。「愛人が正妻に駆逐される惨め」さなるものを、多様な家庭環境に身を置く生徒に語る。源氏物語は教育の現場で、抑圧的な言説を再生産する装置ともなる。問われるべきは、物語を語るわれわれの「物語」と、その「物語」がいかなる権力を産出しながら、どのように流通し消費されていくかである。今回は、誰が、誰に、何のために語るのかという視座を欠落させたまま、複雑な力にからめ取られ効力を堅持する「いろごのみ論(という物語)」を問題とし、できるだけ複数の視点から、物語学の現在を規制する状況と枠組みを対象化したい。(8.01受理)

  山城国「山崎」の文学史           久保田 孝夫

 山城の国の国府(国庁)が、淀川沿いで摂津の国と接する「山崎」に移されてあったことは、それほど文学史上留意されることは少なかった。

 山崎の宝積寺(通称「宝寺」)の縁起絵が、和泉市久保惣美術館蔵に残る『山崎架橋図』であり、また、行基によって、この山崎に橋が架けられた話もある。(『今昔』巻一六・四〇)、そしてこの山崎は嵯峨・淳和天皇の遊猟の地であり、そこが「山崎離宮」(『類聚国史』弘仁五<814>二・一七)と呼ばれ、「河陽宮」と呼ばれるようになる(『類聚国史』弘仁一〇<819>・二・二一)。

 この建物を国府の国衙(国庁)として活用する旨のことが『三代実録』貞観三年<861>六・七に見える。

 『文華秀麗集』では仲雄王の「河陽橋」や嵯峨天皇の「河陽駅」を題にしたものが残されている。

 そして、伊勢物語の惟喬親王の水無瀬離宮は「山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。」(こちらは国境を越えて摂津の国に入ったところ)、土佐日記では、承平五年<935>二月一一〜一六の山崎の相応寺のたもとに停泊している。『明月記』からは、後鳥羽上皇の「水無瀬離宮」(こちらも摂津の国)など、この地のことが散見される。山城国と摂津国の境界としての山崎を読み解いてみたい。それは、交通と文学のあわいをながめてみることになるのかもしれない。

(7.27受理)

○ 98 夏の大会ディスカッサント総括報告・安藤徹氏「語られざる部分を読むということ」掲載。

大会写真集七月例会写真集はここをクリック!!

******************************

【7月例会(第239回)】   

とき  7月18日(第三土曜日) 午後一時三〇分より。

ところ 横浜市立大学 文科系研究棟五階小会議室 京浜急行金沢八景駅下車。

【発表題目】

「如是我聞」を結ぶべき辞(ことば)−「き」あるいは「り」−       齋藤正志

        年間テーマ<物語学の限界>

      物語学の限界、さらには研究者個々人の、研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

〈物語〉への誘惑――枕草子「日記的章段」を読むということ      津島知明

事務局報告 

【発表要旨】            

「如是我聞」を結ぶべき辞(ことば)−「き」あるいは「り」−      齋藤正志

 海外の私立大学に一年半勤め(この先いつまで続くか不明)、そこで行う日本語教育において媒介語を使えない私は、いわゆる直接法を真似ながら、日本の中高で学び且つ教えた国語文法をそのままで利用できない為に、文法の解説を行うことなく過ごしている。というのも、私は、日本語教育における文法的知識が皆無なのである。そればかりか、テンス・アスペクト・ムードという日本語文法の術語の区別さえ出来ないのである。そういう私が、前回(一九九八年六月)の例会後、突然、自由発表担当者として指名された。そこで、この機会を利用して、以前に疑問に思いながら、放置してきた事柄について考えることとしたい。それは次のような事柄である。漢訳仏典の記述に見られる「如是我聞」の終結表現には、どのような言葉が適切なのであろうか。岩波文庫『浄土三部経』の「無量寿経」では、「われかくのごとく聞けり」と書き下され、「観無量寿経」・「阿弥陀経」では「かくのごとくわれ聞けり」と書き下される。また、岩波文庫『法華経』の序品においては、「かくの如く、われ、聞けり」と書き下されている。両書の注釈者は、異なっており、どのような関係にあるのか不明だが、「われ」の位置が異なるものの、終結表現は、「聞けり」と統一されている。その一方で岩波文庫『浄土三部経』の「阿弥陀経」の「註」には、

 浄土宗では、「かくのごとくをわれ聞きき」とし、真宗では延べ書き本に基づいて「かくのごとくわれききたまへき」とする。

と説明されている。つまり、「如是我聞」の終結表現には、二種あることになる。

 もちろん、漢訳仏典を理解する場合には、古典中国語によるのが理想的ではあろうけれども、日本では、それを訓読することによって理解してきたはずである。訓読の際に行われる補読には、色々な流儀のあるものと思われるが、最終的には読者の判断に委ねられるものでないだろうか。

 そこで、今回の発表では「如是我聞」を、古典助動詞「き」で理解するべきか、それとも「り」で理解するべきか、という点を検討することにしたい。ただし、この発表は、仏教思想に踏み込むつもりはなく、あくまでも古典日本語文法における妥当な選択の在り方について考察するものである。どうか会員諸氏の御教示を賜りたい。(7.01受理)

〈物語〉への誘惑――枕草子「日記的章段」を読むということ

津島知明

枕草子、特に「日記的」と呼ばれる章段は、その性格上〈史実〉なる過去言明を常に読みの現場に引き寄せてきました。ただそれは往々にして、「明るい」作品世界に対する「悲惨な現実」という図式を呼び込むことでもあったようです。事実か虚構かの二元論を乗り越えようと苦闘してきた先人たちに敬意を払いつつ、しかしそれでもなぜ、枕草子を読むことが一方で「悲惨な現実」なるものの再認につながるのかを考えています。私自身の足元はいまだおぼつきませんが、今回はそうした迷いの中からも、何か展望のようなものを探ることができればと思います。具体例として、作中の「女院」描写(特に角川文庫124段=集成122段を中心に)を取り上げる予定です。(6.28受理)

【新刊 案内】                     

西本寮子氏他『中世王朝物語全集12とりかへばや物語』(笠間書院・5145円)

******************************

【6月例会(第238回)】   

とき  6月20日(第三土曜日) 

ところ 清泉女子大学 一号館二階一二三教室

発表題目】

        年間テーマ<物語学の限界>

      物語学の限界、さらには研究者個々人の、研究への立脚点と、その限界点とを見定める。

   <救済>は誰のためにー浮舟物語をめぐって      助川幸逸郎氏

        合評会

 長谷川政春著『物語史の風景ー伊勢物語・源氏物語とその展開』報告者・井上眞弓氏・三村友希氏

  事務局報告 

【発表要旨】            

   <救済>は誰のためにー浮舟物語をめぐって        助川幸逸郎

『源氏物語』末尾に位置する浮舟物語は、“自身の幻想を浮舟に投影させるばかりで、<浮舟そのもの>を見ようとしない周囲の人々”と、“周囲の誤読に懲りて、何事も意味すまいと努める浮舟”という構図から成り立っています。そこにおいて問われているのは、『意味とはどのように生成されるのか』・『意味を解釈するとはどのようなことなのか』という、言語行為の根源に関わる問題です。そして、この問いに向き合う読者は、『源氏物語』という言葉で書かれたテクストを解釈し、時にはその解釈を書き記しさえする存在なのですから、意味生成の基盤である浮舟よりも、彼女に意味を与え、彼女から意味を読み取る、薫や小野の妹尼に近いはずです。にもかかわらず、浮舟物語を読む読者は、ほとんどが<浮舟の同伴者>として、物語を解釈していきます。

 このような事態が生じるのは、無論、浮舟との同調へと読者を誘う、<語りのメカニズム>が存在するからです。本発表では、その<メカニズム>を解明すると共に、このような<メカニズム>に順応して解釈を営むことの、可能性と限界を問いたいと思います。 

【新刊 案内】                     

小田切文洋氏著『渡宋した天台僧達−日中文化交流史一斑』(翰林書房・一八〇〇円)

******************************

【5月例会(第237回)】   

とき  5月16日(第三土曜日) 午後1時30分より。

ところ 明治大学駿河台校舎 五号館五二一教室

発表題目】

  「呪われた実存 −帚木・空蝉巻における光源氏、あるいは企図しない/する時間−」                                   三谷邦明氏

                    ***

       年間テーマ<物語学の限界>

  『地神経』と<五郎王子譚>の伝播     増尾伸一郎氏

  事務局報告(大会会場他)

【発表要旨】            

   「呪われた実存 −帚木・空蝉巻における光源氏あるいは企図しない/する時間−−」                                   三谷邦明

 物研の大会で、発表した光源氏の実存分析の更なる展開で、帚木・空蝉巻を対象として発表します。その場合、鍵語となるのは意図/企図/計画といった言葉です。人間は稔りを期待して種を撒きます。来るべき到達の時間を意図/企図して行動するのが、生産の論理なのです。光源氏はこの生産の論理から追放された呪われた人物なのです。空蝉と偶発的に出会うことができても、逢瀬を企図すると逃げられてしまい、軒端の荻と偶発的に関係します。こうした非生産的な実存である光源氏の姿を克明に分析して行くつもりです。

  『地神経』と<五郎王子譚>の伝播              増尾伸一郎

 九州を中心とする西日本各地の盲僧が語った『地神( ・)経』は、朝鮮の盲覡(経巫、読経師)が読経した『地心(・)経』と、ほぼ同一の疑偽経典であるが、日本では土佐のいざなぎ流の大土公祭文や、各地の土公祭、神楽の祭文に見られるように、その釈文は<五郎王子譚>として広く流布した。今回の報告では『注好選』や『沙石集』などの説話との関連に注目しながら、古代祭文の形成と展開をめぐって、若干の考察を試みたい。

【新刊 案内】                     

鈴木日出男氏著『源氏物語への道』(小学館)他、至文堂編著書など出版物多数。

三田村・河添・松井氏編『源氏研究』(翰林書房・二四〇〇円)。

室城秀之氏編著『白百合女子大学図書館蔵「住吉物語」本文と注釈』(白百合女子大学)

******************************

【4月例会(第236回)】   

とき  4月18日(第三土曜日) 午後1時45分より。

ところ 日本大学文理学部 本館H四〇七教室  

      新宿京王線下高井戸駅下車日大通り直進徒歩一五分

発表題目】

    狭衣の自画像を探る−−ドキュメンテーションの視座から 井上眞弓氏

       <合評会>

    増尾伸一郎氏著『万葉歌人と中国思想』(吉川弘文館)報告者 太田善之氏・松岡智之氏

   事務局報告

【発表要旨】            

  狭衣の自画像を探る−−ドキュメンテーションの視座から−− 井上眞弓

「書物」という年間テーマをずらして、どきゅめんてーしょん(文書・記録等)という視座からの「読み」を試みる。狭衣の自己認識のあり様や『狭衣物語』の日記文学性については、新物語研究『書物と語り』で述べた。今回は、その延長で、ひきさかれた自画像とドキュメンテーションを無化喪失させていくものとをつないでみたい。

******************************


 
ホームへ戻る1999年度最新情報 1998年度 1996年度
1995年度 1994年度年間テーマ一覧  BOOKS