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物語研究会 1995

(1998年7月12日更新)

【1995年度活動記録】

【四月 例会】

 とき  一九九五年 四月十五日 日本大学文理学部本館 

【発   表】

  北山聖の独鈷伝授− 若紫巻の王権レガリアと伊勢物語  佐藤敬子氏

  機関誌合評会『物語−その転生と再生/新物語研究2』 報告者 金子明雄氏 阿部好臣氏

【五月 例会】

 とき  一九九五年 五月二〇日 清泉女子大学

【発   表】

  真名書と『源氏物語』               越野優子氏

  『源氏物語』「帚木の巻」をめぐって−比較文学的アプローチ 佐藤美弥子氏

                    *

  合評会 深沢徹『中世神話の煉丹術/大江匡房とその時代』(人文書院) 報告者 野村倫子・佐藤信一氏

  機関誌合評会『物語−その転生と再生/新物語研究2』 (有精堂)報告者 大内清司氏 斎藤正志氏

【六月 例会】

 とき  一九九五年 六月十七日 ところ 早稲田大学

【発   表】

    年間テーマ<性(セックス)

  うつほ物語における<性>と言説ー理念としての<好色>と表現としての<好色>− 齋藤正志氏 

  ある紫式部伝ー藤原香子という女の物語から−   上原作和氏

                    *

  合評会 岡部隆志『異類という物語/日本霊異記から現代を読む』(新曜社)報告者        高木史人氏

【七月 例会】

 とき  一九九五年 七月十五日 ところ 横浜市立大学

【発   表】

  光源氏の宿世ー高麗の相人の予言を起点としてー木村祐子氏

                    *

      年間テーマ<性(セックス)

  一条北の方の周辺   ー忠こそ物語の位相ー 大井田晴彦氏

【一九九五年度大会】

とき  一九九五年 八月二一日−八月二三日まで

ところ 長野県小諸市古城区中棚、中棚温泉・中棚荘

【発   表】

   @松浦宮物語と中世類書              久保田孝夫氏 

   A合評会 豊島秀範氏著『物語史研究』 神野藤昭夫氏・上原作和・斎藤昭子氏

   B伊勢物語作品論序説                    

     ーその生成と性格に関する試論ー        渡辺泰宏氏

   C異装と罪ー『今とりかへばや』再考ー        西本寮子氏

    シンポジューム・年間テーマ<性(セックス)

   D女の<性>を規定する

     ー『とりかへばや』四の君をめぐる人々ー    安田真一氏

   E会話の政治学ー『源氏物語』のエスノメソドロジー・序説ー安藤 徹氏   

   F源氏物語・柏木に於ける<性>ー解体と飛翔ー    阿部好臣氏

    シンポジューム・テーマ<性(セックス)> 総括討論

     ・事務局報告・編集委員会報告、その他

 

【十月例会・第二一三回】

とき 十月二八日 ところ早稲田大学

【発表題目】

  源氏物語の主題と言説                宗雪修三氏

  篝火巻の言説分析                  三谷邦明氏

                    *

  合評会 上原作和著『光源氏物語の思想史的変貌』 甘利忠彦氏 ・ 今井俊哉氏

 

【十一月例会・第二一四回】

とき 十一月二八日 ところ清泉女子大学

【発表題目】

  大君の希薄な<身体>ー物語文学における<性愛>はいかに論じられるべきかー 

 助川幸逸郎氏

                    *

  合評会 三田村雅子著『枕草子 表現の論理』 圷 美奈子氏・小嶋菜温子氏 ・小森 潔氏

 

【十二月例会・第二一五回】

とき 十二月十六日 ところ明治大学和泉校舎

【発表題目】

  「須磨」「明石」浄罪の表現           西本香子氏

    【年間テーマ・<性>】               

  『蜻蛉日記』の歌/衣/性             河添房江氏

                    *

  合評会 小嶋菜温子著『源氏物語批評』 松岡智之氏・宗雪修三氏 

 

【一月例会・第二一六回】   

とき 一月二〇日 ところ國學院大学

 【発表題目】

   『源氏物語』の子ども・性・文化         原岡文子氏

                    *

    【年間テーマ・<性>】               

   とりかへばや物語の<衣>と<身体>−異装・妊娠・出産−  三田村雅子氏 

 

【三月例会・第二一七回・一九九六年度総会】   

とき  三月十六日 ところ 日本大学文理学部

【発表題目】

   薫・匂宮と中将そして浮舟           光安誠司郎氏

    【年間テーマ・<性>】               

   高群逸枝の婚姻女性史像について         栗原 弘氏 

                    *

   総会(活動報告・会計報告・機関誌編集委員会より、その他)

   

【発表要旨】

  北山聖の独鈷伝授− 若紫巻の王権レガリアと伊勢物語       佐藤敬子

 若紫巻の光源氏は、色ごのみに対しても、王権に対しても、必ずしも統一された存在として描かれているわけではない。色ごのみについては、一方では幼女や老尼をかいまみるという色ごのみとは程遠い行為をし、他方では藤壷と密通するという色好みを越えた行為をしている。また、王権については、源氏ゆえに即位できない立場を、伊勢物語の惟喬親王章段を引用することによって強調する反面、河添房江氏の唱えるように僧都が聖徳太子伝来の数珠を光源氏に与えることによって、光源氏の王権は確立されることになる。

 そこで、僧都の数珠伝授以前に、聖が独鈷を光源氏に伝授していることに注目したい。

つまり、即位できなかった聖徳太子伝来の数珠の継承よりも、北山の聖による独鈷伝授こそ、「即位潅頂」との関連によって、より確かに、光源氏王権の確立を意味するのである。

 

  真名書と『源氏物語』             越野優子

 漢学が男性の学問だった時代に、漢学の宝庫である『源氏物語』を執筆したことにはどんな意味があったのか。『紫式部日記』の中で「なでふ女か真名書は読む」と式部は女房に批判されたが、一方で、『源氏物語』は女性たちの憧れの読み物であった。読むことと書くことに開きがあったのだろうか。真名書を読むことが非難されたならば真名書を土台に物語を書くこととはどうだったのか、発表ではこれを切り口に『源氏物語』を考えたい。

          (上智大学「国文学論集」一九九五・三所収)

 

  『源氏物語』「帚木の巻」をめぐって−比較文学的アプローチ 佐藤美弥子

 帚木の巻が、方法や文体の上で、桐壷の巻と異質であることは、先学の指摘の通りである。更に帚木の巻では、『伊勢物語』『蜻蛉日記』『落窪物語』あるいは『交野少将物語』など多ジャンルに及ぶ作品の数々が、パロディーの技法で解体されてしまう。つまり、

帚木の巻は、桐壷の巻をも含めた前本文(プレ・テクスト)と訣別すべく造形され、ここに『源氏物語』は新たなる出発を果たしたといえよう。

 ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』でも、作品中の転換点で酷似した現象が見られる。全十八挿話中の第十二話で、膨大な数にのぼる既存のジャンルと文体がパロデー化されるのだが、この挿話を境に『ユリシーズ』はそれまでになかった小説として立ち現れる。

 新しい秩序を見い出そうとする時、人は始原の混沌を喚起するのであろうか。帚木の巻の持つ意味を比較文学的に考察したい。

 

  ある紫式部伝ー藤原香子という女の物語からー     上原作和

 昨今、日記もしくは日記的テクストを論ずるときに拠り所としがちな、いわゆる通説とは何かをものけんに問いたい。通説とはメディアによって作られ、その発信源である研究者の知見そのものは自らの属した学統、あるいは謦咳に接し得た泰斗との距離によって形成されることが多く、あくまで定説とも俗説とも認定し得ないものであるということを、『権記』長徳三年八月十九日「.....戌剋奏定文、....并故大膳太夫紀時文後家藤原香子申事等也」とある一条から、紀貫之男にして梨壷の五人のひとり時文の、その妻でもあった香子という女の伝記について、今日現在の私の視座から再構築を試みる。

 

 うつほ物語における<性>と言説 ー理念としての<好色>と表現としての<好色>ー 齋藤正志

  物語において、<性>に関する言説は、どのような意義を与えられ得るのか。うつほ物語の第三巻「忠こそ」において、<性>の言説を、<好色>という観点に限定して考えてみたい。

 そこで、「忠こそ」巻の<一条の北方恋物語>が、勢語六三段のいわゆる「九十九髪物語」と連関されて読まれていることを前提として、橘忠君(忠こそ)を主役とする当該巻を、<一条の北方恋物語>によって捉え直し、この<恋物語>が、首巻「俊蔭」の<俊蔭娘物語>と第二巻「藤原の君」の<三奇人物語>とを反転させて生成された物語であると見傚して、考察してみるつもりである。

 なお、先行論文としては、竹原崇雄「『宇津保物語』の構造と性表現」(国語国文研究二一号/一九八六・二)もあるので、それを参考としながら、年間テーマに沿った論が立てられたなら、と思っている。

 

  光源氏の宿世ー高麗の相人の予言を起点として 木村祐子

 相人の予言の達成は源氏が隠れた「帝の父」となったこと、それによって准太上天皇位を得たことと解せられるが、予言そのものはそれだけではなく、もっと豊かな内容ー光源氏の宿世ーを含んでいたと考えられる。本論はそれについての考察である。

 ポイントは政治的現実に阻まれて登極しえない帝王相とはどのように捉えられたらよいのか、予言後半部分を「臣下では終わらない」とのみ捉えることは問題がある、ここに『聖徳太子伝暦』が引用されていると思われるが、太子像とこの物語の接点をどのように考えたらよいのか、の三点である。

 光源氏の宿世が孕み持つ持つ超越性と危険性に注目し、立体的な論としたいと考えている。        (「王朝」一九九五・九所収)

 

  一条北の方の周辺   ー忠こそ物語の位相ー大井田晴彦

 『うつほ物語』第三巻「忠こそ」は、崩壊する「家」の物語だと言うことができる。その「家」を破滅に導くものとして、好色な老女一条北の方の存在は大きい。本発表では、老女のもつ巫女的な呪力というものについて、『伊勢物語』のつくも髪、『源氏物語』の源典侍などとの関連を通して考えてみたい。

 しかしながら、一条北の方という人物のみを取り出し、考察を加えてみても、あまり意味のあることとは思えない。本発表では、忠こそ物語の再検討からはじめたい。従来、俊蔭系や正頼系の物語とは別個の、独立した短篇と見なされてきたこの物語を、積極的に長篇の中に位置づけてみることによって、新しい展望が開かれてくるように思われる。そして、それは一条北の方の存在の重みを改めて証し立てることにもなるはずである。

    (「国語と国文学」一九九五・七所収)(『物語研究会会報」一九九五・八所収)

 

  松浦宮物語と中世類書               久保田孝夫 

 

 中国への渡来を語る物語は、宇津保物語を始めいくつかの物語の中に現れる。そこでは作者の漢籍知識の披瀝の場であるかのような様相を呈した一面が窺える。当然、中国を語るに必要な漢才が、物語の背後を支えるのであるが、今回は松浦宮物語を中心に、この物語が拠り所とした漢籍類を探ることから始め、中世類書(管蠡抄(かんれいしょう)・玉函秘抄・明文抄など)の世界と、類書の物語への引用とその活用について考えてみたい。

 たどり着くことが出来るなら、一つの挿話を渡唐物語史の中で松浦宮物語から遡及的に認めることが出来たらとも思っているが、それほど明確に出来そうもないのが気がかりである。

  伊勢物語作品論序説 ーその生成と性格に関する試論ー渡辺泰宏 

 

 近年の文学研究においては、どうも成立論や作者の意図などというものは否定される傾向にあるようである。が、作品によってはこれも有効な方法になるのではないかと思っている。実は伊勢物語がそのような作品であると思われるのだが、ともかく今回はそのような成立論や作者の意図などというものを基礎としながら、現存の伊勢物語という作品を論じるということをしてみたいと思う。

 

  異装と罪ー『今とりかへばや』再考ー         西本寮子

 

 『今とりかへばや』は、基本的構造に置いて、<かぐや姫の物語>と同じ枠組みをもっている。<かぐや姫の物語>が意識される以上流離する女君自身の罪の所在が問題となるはずであるが、物語のなかでは、異装は父親が犯した罪を原因とするものであり、その罪が贖なわれたとき無事解除されたと謎解きがなされるだけである。流離する女君自身の罪はどこにあるのか、またその罪はどのようなものなのか、考えてみたい。              (『物語<女と男>』一九九五・十一所収)

 女の<性>を規定する ー『とりかへばや』四の君をめぐる人々ー     安田真一

 

去年の年間テーマはジェンダーであり、今年は<性>がテーマとなっている。この<性>の意味を明確にしておかなくてはならないのではないかと思う。男/女関係において<性>はよりセクシュアルな意味を浮上させる。セックス・ジエンダー・セクシュアリティーの問題は、互いに絡み合わせながら、それぞれを別の次元で考えなくてはならないはずだ。

 『とりかへばや』において、女の<性>は、行為としての<性>として、どう位置づけられるのか。四の君を中心に、制度・規範を絡ませながら考えてみたい。   (『物語<女と男>』一九九五・十一所収) (「古代文学研究第二次」一九九五・十所収)

 

  会話の政治学ー『源氏物語』のエスノメソドロジー・序説ー 安藤 徹    

 本発表では、『源氏物語』、特に玉鬘十帖における光源氏と六条院の女たちの会話と、宇治十帖における「問−答形式」の会話を主な対象とし、男と女(女と男)の会話から読みとることのできる「性の政治学」の一端を報告する。その際の概念的あるいは方法的な支えとして、<エスノメソドロジー>を導入するつもりでいる。そしてそうした社会学における「会話分析」の発想を物語内会話と対峙させることで、(私に言う)<物語社会学>構築への一歩としたい。    (『源氏研究』一九九六・四所収)

 

  源氏物語・柏木に於ける<性>ー解体と飛翔ー      阿部好臣 

「女にて見奉らまほしい」光源氏には両性具有的な様相がある。そして、『源氏物語』という、作品に対し<女>の物語といった主題を読もうとする見解も根深いものがある。この報告は、何とかその見解を打破したいという、あるいは些かの抵抗の為のものである。その突破口を、柏木に求めてみる。基本線は、柏木は<女>になり、<物の怪>に成っていったという所にある。そして、その<物の怪>といったものが、<物語>といったモノを突き動かす、或いは、その情念こそが<物語>の鍵なのではといった思いを、何とか形を整えるべく、思考中である。その際、柏木物語との連関が言われる『宇津保物語』の仲澄なども射程に入れるつもりでいる。また、「泣く」こと、「命」などの言葉にもこだわってみたい。何分、暗中模索ながら、自分なりの<物語>を確認したいし、自分なりの原点をも見つめ直したい。そんな思いだけが、取り敢えずある。実際、五里霧中な今を露呈するしかないのだが、様々な議論の中で何かが見える事だけを期待している状況。   (『物語<女と男>』一九九五・十一所収)

 

    源氏物語の主題と言説          宗雪修三

 物語、特に源氏物語には、従来から指摘にされているように、さまざまな<語り>の特徴が存在しているが、そのような形式上の特質は物語の主題とどのように関わるのであろうか。それは<語り>の方法が物語をどのように規制し、さらにその物語言説が物語内容と関わる中でどのように主題を形成してゆくのかと言い替えてもよいだろう。

 言語行為論的視点から、日記文学の言説の特徴と物語文学のそれとを比較し、比喩的な言い方をすれば、実体的な語り手が平らになるような平面、すなわちテクストの成立する平面において、主題が生成してゆく様相をたどってみたい。

 具体的には松風の巻の敬語のあり方を、分析の対象にしたいと考えている。

 

    篝火巻の言説分析            三谷邦明

   全集本五ページに満たない篝火巻を、克明に言説分類しながら、この巻の抱える諸問題を分析してゆく。      (「横浜市立大論叢」一九九六・三所収)

                   

    大君の希薄な<身体> ー物語文学における<性愛>はいかに論じられるべきかー  助川幸逸郎氏

 「源氏物語」の宇治大君は、「痩せ痩せ」で肉感性に乏しい人物として造形されている。そして、女三宮を形容する語の一部が、大君に対するそれと類似していることから、薫の大君思慕にマザーコンプレックスを見る説もある。しかし、大君と女三宮とでは、「痩せていること」の意味が明確に違っている。本発表では、そのそれぞれについて明らかにしながら、「物語文学において<性愛>はいかに論じられるべきか」を考えてみたい。

 

  「須磨」「明石」浄罪の表現            西本香子

 源氏・藤壷の密通は、「仏教的」「儒教的」など様々な罪として把握される一方で、二人の間には罪の意識はほとんど無いとする立場もあり、両極端な見方が生じている。

 しかし、二人の密通が実は皇統侵犯を招く重大な犯しであったことは疑いがない。それなのに、二人の罪は多様に表現され、時には罪が無いかのように語られさえする。そして、皇権侵犯に関してだけは決して罪として表現されることはない。語られないままに、冷泉即位として罪の結実を見るのである。本発表では、皇統侵犯を可能にする物語のあり方を、主に「須磨」「明石」巻の表現を検討することによって検討したい。

                   

  『蜻蛉日記』の歌/衣/性               河添房江

 『蜻蛉日記』については、最近書く機会がありましたが、(「『蜻蛉日記』、女歌の世界『論集平安文学』第三集、「平安女性と文学」岩波『講座 日本文学史』第二巻)、性の問題について、肝心なことは不完全燃焼のままに終わっています。コミュニケーション論や、ジェンダーの呪縛と解放という視点から、歌や衣装、町の小路の女の位置づけなど再考してみたいと思います。          (「日本文学」一九九六・五所収)           

  『源氏物語』の子ども・性・文化            原岡文子

 『源氏物語』には、子ども、とりわけ女の子をどのように描いているのか。かつて『日本文学』(平六・六)、『むらさき』(平七・十二)誌上等で触れた問題を、更に「女」の子という「性」の側から捉え直してみたいと思う。紫の上と明石の姫君とに焦点を当てることになるが、中で特に明石の姫君をめぐる光源氏の教育、管理という側面 を掘り下げられたら……と考える。        (『源氏研究』一九九六・四所収)

 

   とりかへばや物語の<衣>と<身体> −異装・妊娠・出産−  三田村雅子   

 

 とりかへばや物語が男女の性役割の交替を衣装の交換で表す異装の物語であることは、余りにも明らかであるが、それ以外の局面においても、この物語は衣装と<身体>の喩的な関係を繰り返し取り上げている。とりかへばや物語において<身体>と衣はどのような関係にあるのか。性という制度は、どのようにその衣装に関わっているのかを考えながら、人目を気にし、人目を欺くことに終始緊張し続けるこの物語において、秘密を 蔽い隠す表層の衣の持つ意味を読み取っていきたいと思っている。

 できれば、物語史における衣と<身体>の関わりについても、俯瞰してみたい。

 

   薫・匂宮と中将そして浮舟     光安誠司郎(みつやすせいしろう)

 

  薫と匂宮との間を彷徨う浮舟は、どの様な人物として描かれたか。物語の結末部分の浮舟の態度は、どう考えるべきなのか。小野に引き取られた浮舟に接近し、ついには、出家にまで追い詰めてしまう中将は、浮舟にどの様な影響を与えたのだろうか。

  源氏物語の最終場面に関わる三人の男と一人の女の閉幕に向けての動きをたどる。

 

   高群逸枝の婚姻女性史像について        栗原 弘(くりはら  ひろむ)  

 

  高群逸枝の代表的著作『招婿婚の研究』は、女性史・婚姻史の代表的書物であり、国文学にも多大な影響を与えている。高群学説は平安中期は夫が妻へ生涯すむ形態(妻方 居住婚)が一般的であったとし、この見解を中心に全歴史像が体系づけられている。と ころが、この学説は史実から生まれた歴史ではなく、彼女の理想像から創作されたもの である。今回の発表で、創作の内容と彼女が創作しなければならなかった理由を明らか にしたい。

  参考文献 高群逸枝『招婿婚の研究』(理論社・一九七一)

       栗原 弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』(高科書店・一九九四)


 
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