新しい卒業の条件「労働単位制」の導入
学園故、「単位」という言葉を使っていますが、「学園への貢献ポイント」と言い換えることが出来る性格のものです。
生徒の生徒による学園の維持運営を実践するため、「授業の単位」とは別に学園生徒として、いかに学園の為に貢献したかの度合を単位に換算し、一定の値の単位の取得をもって卒業を可能とします。
各委員会内の活動や、生産系クラブの活動。生徒会から随時発表される学園保持の為の活動を行うことにより「単位」の取得が可能です。
学園生徒が、活動内容を申請し、その活動を完了、申告することにより単位が与えられます。同じ委員会やクラブの活動でも、その内容、業務の重軽、人気、不人気、などにより「単位」数は変動します。(申請時に「単位」数と活動期限が告知されます) ただし、申請者は、一人では困難なものならば数人で協力して行ったり、人を雇って行動をしても単位を得ることができます。
授業での必要単位とは、完全な別枠、管轄も教授連や授業委員会ではなく別の委員会の管轄になる性質のものです。
授業正常化計画って何だったの? これだけ大騒ぎして出てきたものは何? 結局は一部生徒の勘違いを増幅させただけじゃないの?
「教師」は何が偉いのかって云えば、教壇に立つことが偉いんじゃない。これは当然の話。まさかこれを否定する人はいないでしょ。じゃ、何かって云えば、それは結局は「伝えるべき何か」を持っているかどうか、それを他人に伝える技術を持っているか、と云うことに還元されると思う。そこのところが本当にわかっているのだろうか、と思うんだよね。「授業正常化」のフロントに立っている人たちは。何だか自分たちの既得権を守るためだけの発言に終始している人の多いこと。
醜いよ、それって。
この学園が存在している、これだけの問題を抱えながらもそれでも存在していられるのは教育システムが優れているからじゃない。環境が優れているからじゃない。通常の教育システムが取りこぼしてきた別の「教育現場」が実質的に存在しているから、学園そのものも存続していられるんじゃないの。それを忘れているんじゃない?
どうして教育というものを通常の教室の中に閉じ込めようとするわけ? それで何か新しいものが生まれてくるとでも云うわけ? そんな幻想はとっとと捨ててしまわなければならないんじゃないのかな。
もう今の教室は何物も生み出していないのは明らかなのだから。
何遍も云ってるけど、この学園では本当の「授業」は教室で行われてなんかいないんだ。「授業」がなんのために存在するのか、それを忘れている人たちはこういう考え方に頭から拒否反応を示すけど、実際の「授業」は学園の「教室以外のところ」で行われているのだし、「授業」を行っているのは「教師」という学園がおしつける権威でなく(もちろん学園が認めた「教師」個人は当然含むのだけど)何か「教えるべきもの」でなく「伝えたいこと」を持っている個人なのだということをいい加減わかってほしいものだわ。
寺山修司を気取るわけじゃない。「書を捨てよ」と云いきることもできない。「なんでも見てやろう」という意気込みも大事だけど見るだけじゃ何もならない。やっぱり何かを「伝えたい!」と云う勁い意志を持った人が自然に行うものこそが授業の原初的形態なのだし、それこそが授業というものの本来の在り方なのだと思う。何でも教室で管理して中央で締め上げる、そんな時代遅れのテーラーイズムのしっぽを、この学園はさっさと捨てるべきなんだ。
もう一度云うよ。
授業は教室の中にあるものだけを云うんじゃないんだ。教室の中にもある。
学園生活すべての中に「授業」はあるんだ。
「授業」を「教室」という名前の檻、もっとはっきり云おうか、牢獄の中に閉じ込めてしまおうとする現在の態勢では「授業」は窒息するだけだし、学園も再生できない。
自分を新しい革袋だと思うなら、カビの生えた考え方はやめて柔軟にものを見ようよ。
公約その1 | 島衆共存っ |
公約その2 | 授業改革っ |
公約その3 | 国民は誰? |
公約その4 | 脱小米主義 |
公約その5 | *** |