「坂の街」函館2

   函館の街へ / 函館の坂その1へ / 函館の坂番外編へ / あいの里へ


         【写真をクリックすると大きくなります。】
9.チャチャ登り
 ハリストス正教会と、聖ヨハネ教会の建物の間にあるのが、チャチャ登りの坂である。おじいさんを指すアイヌ語の「チャチャ」が坂の命名の由来であるが、おじいさんのように背中を丸めなければ登れないほどの急な坂なので、「チャチャ」登りの名が付いた。
 以前は、普通の道幅が狭い急な坂であったが、現在は石ただみの綺麗な坂に整備され、観光スポットとなっている。坂の上の方は、けっこう奥まで坂が続いており、以外と知られていないが見晴らしも良く、観光の隠れた穴場である。
10.八 幡 坂
 今は、谷地頭温泉の奥にある函館八幡宮が、現在の函館西高の下にあったことから「八幡の坂」と呼ばれていた。当時の坂は、もっと海に向かって左側に曲がっていたようであるが、函館大火の区画整備で、現在の姿になったようだ。 この坂は、コマーシャルに何度も使われ、函館の坂の中ではもっとも「有名人」の坂となっている。そのためか、いつ訪れても、記念写真を撮る観光客であふれている。
 以前は、この坂の脇に、「白百合高校」の体育館があり、坂の上から窓越しに見える「あこがれ」の白百合生に心を動かされたものである。
11.日 和 坂
 以前船の出入り等を眺めるための「日和山」と言われる小さな山があったため、この名前が付いたらしい。明治の大火による市街地整備のため日和山は姿を消し、現在のような姿となった。
 坂の下には映画やテレビのロケによく使用されている「旧西警察署」や、「北海道第一歩」の地の桟橋などあり、また、坂の上には北海道で一番古いと言われている「船魂神社」が函館港を守っている。
12.基   坂
 函館の坂の中で、まさに「基礎」となっている坂である。坂の上には「公会堂」や「旧箱舘奉行所」などの当時の函館の行政機関が集中しており、「函館の霞ヶ関」状態となっていた地域である。
 区画整備や道路を作るときの距離を測る「基石」が置かれていたのが、坂の由来となっている。
 坂は石畳て゜よく整備され、観光スポットとなっているが、坂の途中にある市立病院が五稜郭に移転後は、少々寂しくなるのではないか心配される。
13.東   坂
 以前は、坂の下は「浄玄寺坂」と呼ばれ、浄玄寺を挟んで坂の上は「白鳥坂」と呼ばれていた。明治12年の函館大火後の都市整理の際に「浄玄寺坂」と「白鳥坂」が結ばれ一本の坂となった。
 「白鳥坂」は浄玄寺の東側にあり、通称「東の坂」と呼ばれていたため、坂が一つになった後、「東坂」と呼ばれるようになった。
14.弥 生 坂
 この坂も、ほかの坂と同様に、函館の大火後に整備されたもので、春を意味する「弥生」に、大火後の坂周辺の繁栄の願いを込めたものだと言われている。
 大火の以前には実行寺、称名寺という二つのお寺があったため「寺坂」と呼ばれていたらしい。
 最近、坂の上に教会をかたどった結婚式場も出来て、以前よりは賑やかになっている。坂の上の方は、道幅が狭くなっているものの、江戸時代の武士の別宅の後等「いにしえの箱舘」を偲ぶ史跡も残っている。細い坂は、まるで何処までも続くように、うねうねと函館山の斜面に向かって延びていて、「異空間」への入り口のようだ。
15.常 盤 坂
 江戸時代にこの坂の上にあった屋敷の中に奥州平泉の銘木「源 義経腰掛けの松」から取った種から育ったと伝えられる松の大木があり、そのため松などの常緑針葉樹の総称である「常盤」からこの名前が付いたとされている。個人的には、坂の由来についてはどうも釈然としないところもあり、現在継続調査中である。
 昔、この周辺にはたくさんの遊郭があり、遊郭から帰る客が、今まで一緒に過ごした遊女のことを思い、思わず振り返ったことから「みかえり坂」とも呼ばれていたらしい。常盤坂より「みかえり坂」の方が情緒があっていいと思うのは、私だけであろうか。
16.姿 見 坂
 常盤坂とも関連するが、当時この付近には遊郭が多く、艶やかな遊女の姿が見られたので姿見坂と呼ばれたのが坂の由来である。最盛期には20数件遊郭に350人ほどの遊女が居たらしく、当時の箱舘の栄華が偲ばれる。明治のはじめに遊郭から出火した火が、大火となり、遊郭は宝来町付近に移転された。
 函館西部地区は、度重なる「大火」によって多大な被害を受けているが、これにより逆に常に「スクラップ&ビルド」が繰り返えされ、現在の魅力的な函館の形成に大きな役割を果たしていると言えるのではないだろうか。
17.幸  坂
今は、内部が公開されていなく、たいへん残念な「旧ロシア領事館」が坂の上にあるのが、この幸坂である。明治の大火の前は、坂の途中に「神明宮」と呼ばれていた山上大明神があったため、坂の名前も「神明坂」と呼ばれていたようである。
 大火の後、今は名前が消えてしまった幸町が新しく誕生し、縁起を担いで、坂の名称も「幸坂」に改められた。
 海岸から上ってくると、距離も長く、傾斜もかなりきついため、すっかり疲れてしまうが、旧ロシア領事館の先の山上大明神からの眺めは、素晴らしく、一気に疲れを吹き吹き飛ばしてくれる。
18.千 歳 坂

 やはりこの坂も、明治の大火の後に整備され、誕生した「新しい」?坂である。以前は、隣の幸坂にあった、神明宮の神楽殿の名前から「神楽坂」と呼ばれ、坂の位置も、今とは異なっていたようである。
 肝心の坂の由来は、神明宮の神楽殿の「千歳」の松にちなんで付けられたそうだが、常盤坂と同じように「松」がらみで、どうも釈然としない。
 ここも「千歳坂」より、粋な「神楽坂」の方が良いと思うのだが...
19.船 見 坂

ここも、大火前は、坂の上にある「称名寺」の名前から、「称名寺の坂」と呼ばれていたが、大火後の区画整理の際に誕生した船見町の町名から「船見坂」の名称になったらしい。
 街の名前のとおり、函館湾を良く見渡せるが、正面に見える「函館どっく」の紅白に塗り分けられた、二つの巨大クレーンが、今は全く使用されておらず、朽ち果てるのを待つばかりであるらしいのが、何とも寂しい。
20.魚 見 坂

 函館の坂の中で、まさに「トリ」を勤めるのがこの「魚見坂」である。この坂の周辺は古い寺や、市街地が続き、「古き箱舘」の面影を色濃く残している。
 坂の上には、函館の市民なら最後に必ず「お世話」になる火葬場や、カトリック、ロシア正教会、中華小乗仏教、禅宗etc....の墓地が海に果てるまで続く。
 ここは、函館市民にとっても人生の「トリ」の場所となっている。坂の、両側には、お墓参り用の花を売る店も多い。

           

 函館の街へ / 函館の坂その1へ / 函館の坂番外編へ / あいの里へ