「CONTENTS CATEGORY TITLE-4」タイトル
ホームへもどる
メール送信ボタン
おしらせ 話題
あらまし 概要
こども  児童
しらべる 研究
けいけん 実験

しらべる 001p  研究        開始日 平成14年1月21日

          資料室

ことがら 「本宿小学校の本宿とは何ですか?」(NEW)

調査は、先ずインターネットで様々な検索をかけ、また西荻窪と吉祥寺の図書館で調べましたが、満足のいく答えは見つかりませんでした。国内に小学校や駅の名前になっているところがかなりありましたが、由来について触れているものはありません。

「地名から歴史を読む方法」武光誠・河出書房新書という本を見ると、184ページに”宿場の中心地は本宿の地名が、宿場が発展して新しく開けたところには加宿の地名が出来る。”とあり、これが唯一の発見です。

小島工の予感では、街道沿いにある地名であり、特に吉祥寺の場合「本田」という検地の時に対象となった耕作地であることと重なって、五日市街道の重要な場所であったのではないか、と思われます。

ここまできて思い付いたのは甲州街道では日本橋宿の次が高井戸宿でしたが、15キロ余もあるので中間の宿の要望が出て「内藤新宿」が出来たという経緯のことです。五日市街道では、大体同じ距離のところにあるのが「本宿」となります。
http://www.tunahachi.co.jp/about/column.html

本宿小学校のある土地の名前は、(大字)吉祥寺(字)本田北(小字)本宿となっています。(字)と
(小字)の順序は逆かも知れません。太平洋戦争中にあった隣組の名前は、本田北町会といいましたが現在は解散してしまっています。今は第三中学校の南に本田北公園があります。

このことについて、問い合わせていたところ回答が来ました。

佐藤 美知男

 本宿と本田について、はっきり書かれたものは見つかりませんでしたが調べた結果をお知らせします。
だいたいはご想像のとおりです。吉祥寺村は五日市街道を軸に、南北に短冊型に農地を区分けしました。中心は四軒寺付近のようです。1664年(寛文4年)に検地を受けて独立した村になりました。

 その後1703年(元禄16)に今の三鷹駅の東北あたり、通称「八丁」付近が新田開発され、吉祥寺新田となり、吉祥寺本村と区別されました。本田は本村創立の当時、検地の上制定した田畑及び屋敷のことを言います。ですから本村=本田の北が本田北、南が本田南になるのでしょう。

 昭和5年ころの地形図を見ますと、五日市街道に沿って上本宿(四軒寺のあたり)、中本宿(東町一丁目あたり)、下本宿(南町五丁目あたり)と3つの本宿があります。これは推定ですが、本村=本田の意味が、街道の「宿」の機能とかさなって、本宿の名前が生じたのではないでしょうか。宿といっても東海道五十三次の宿場のような立派なものではなく、街道沿いに人家が集まっている程度の規模だったと思います。

 この上中下の本宿の内、事情はわかりませんが、下本宿だけ残って「本宿」の地名のなったのでしょうか。あるいは上・中の本宿の名残もどこかにあるのでしょうか。なお私が持っている昭和7年の地形図には下本宿だけ載っています。

参考資料
「武蔵野市史」同市 昭和45年
「武蔵野の集落」矢嶋仁吉 昭和29年初版
「武蔵野歴史地理 第三冊」高橋源一郎編 昭和5年


 

 

  Copyright (C) 2003 Kojima-Net.Com. All rights reserved.