闘病通信


前書き、という名の後書き


■後になって前書き・・・■

 前書きといいつつも、実は内容自体は後書きです。つまり、直ってだいぶ経ってから、あの頃のことを書いているものです。時間をおいたのは、客観化できるからとかいった立派な理由からではないです。もともとこの闘病通信は、会社のアカウントを使えた頃に、倒れてしまった自分の状況を、主に社内の人が読むことを念頭に書いていました。闘病通信も、猫時間通信という自分の不定期日記の変形です。もちろん元のページは、退社とともに消し去りました。しかし、一部で役立っていたこともあったらしいことを、後々に知りました。それならばと、以前の会社でのコンテンツをasahi-netの個人ページに合流させる時に、そのまま貼り付けたのでした。そのまま貼ったのは、当時の記録という意味合いもありますが、むしろ編集したり、後書きをつけたりする時間がなかったこともあります。

 ですが、そのままにしておいたためか、後々読み返すと、どう直ったのか、結局あの病は何だったのかがないまま、当時の病状経過だけが放置された印象になります。というか、直ったかどうかさえもはっきりしないままです。その後の猫時間通信は、病について触れていないですから。

 どうにかしないと、と長いこと思っていましたが、自分で期限を決めてえいやっ!と書かないと進まないと、というわけで書いたのが、これです。

■もともとの病は■

 どういう病だったかといえば、「自律神経失調症」です。自律神経とは、血液循環、体温、呼吸、内臓器官といった普段まったく意識せずとも自動的に動いている器官に対して、大脳・間脳・小脳・延髄とを取り持っている神経系。これがうまく動かなくなる症状は皆、自律神経失調症となります。私はこれに加えて強度の眼精疲労も重なりました。

 具体的にどうなるかは、人によって違ってきますが、自律器官が複数同時に変調をきたすのが普通です。私の場合は、不眠か浅い睡眠、腹部違和感(胃や腸が気持ち悪い)、循環器の制御が効かない(低血圧、それも上下差がなく、補うために心拍数が走行時並に上がってドキドキする)、目が痛い、動くものを見るとふらふらするのでテレビもだめ、細かいものを見ると吐きそうになるので新聞もだめ、といった状況でした。初期症状を風邪と勘違いして放っておいたため、ひどく悪化していました。

 気持ち悪くて食べられないために、体力が落ちる。眠れないから、いつも半分寝ているような状態が続く。免疫力がなくなる。こういう状態が続いたために、たとえば、力が出なくなります。視覚系も機能しにくくなっているから、すたすた歩けない。素早く振り向くと、血液がついてこなくてくらーっとなり、倒れてしまう。食べないから、胃腸が痛みやすい。ほんのちょっとした風邪でも発熱が大きく、胃腸炎を併発する(免疫力の低下。生まれて初めて点滴を受けた)。眼精疲労から慢性化した肩凝りがひどく、それも気分を不快にする。いくつもの症状が連鎖して起き、健康ってなんだっけ、忘れちゃったかも、と思えるくらい不調の連日になりました。まぁ、寝てるか、じっと寝てると身体が凝るので姿勢を変えたり起きてぼーっとしたりするしかないわけです。

 病がいちばんひどかったころは、このような症状になります。が、そこまでひどくない時でも、心臓のドキドキ、食欲不振、浅い睡眠、ふらつきのどれか(あるいは2〜3)が自覚されて、健常ならば何でもないことが、出来なくなる。「不定愁訴多数」というやつです。

■最初の経過と状況■

 1997年の11月頃にはもう発病していたようですが、我慢して風邪薬を飲みながら仕事をしていました。風邪だと思っていたんです、その頃は。1998年年明けとともに症状が大爆発、そのまま3月まではほとんど「寝て、起きて、軽く歩いて、時々食べて排泄する以外は何もできない」状態と言えました。心療内科の診断を受けつつ様子を見ましたが、2月は診断書発行から休職。この間、導眠剤、胃腸の状態を整える薬、神経系に作用して血圧を制御する薬などで、身体のリズムを思い出す処方を受けました。3月は、会社に出るけど、ほとんどリハビリ(いま思うと、よく許してくれたもんだ。10年働いて、中間管理職も経験し、やっと仕事の売り上げも上がってきたからだろうか)。そういう状態なので、管理職は解かれた形。

 4月から新しい仕事をしましたが、この直前に上司と「思いきって半年くらい休むか」という話をしました。ただ、早く回復して何かをしないと落ち着かないという焦りもあって、それまでのソフトウェア開発の仕事から、他の人が開発したソフトを営業する仕事に移ったのです。加えて、私はマニュアルやドキュメンテーションならやれると話していたため、そういう仕事もあればやろう、という話になりました。

 このあたりの経過が、こちらになります。

■一度復職■

 これは、後で思えば失敗でした。心機一転できればいいけど、営業は人と会いつつ、相手に売り込んで食い込む仕事です。復帰に向かうには、私はまだ不健康でした。その上、私が心の底から興味を持てる分野ではありませんでした。多少不調でも、興味深くやれれば話は別ですが、まったくそうではない。チュートリアルマニュアルを書く仕事はまだよかったですが、このまま続けば「もっとがんがん売らなければ話にならん、やる気あるのか」とつるし上げを食うことは必定でした。この間、私はいきなりそのソフトのチームに入るというより、前の部長の管轄のもとで、営業とマニュアルの仕事を引き受ける形でした。つまり、人事的には前の部に所属している形でした。

 結局、この暫定的な状態のうちに結論を出さないと会社にも自分にも迷惑をかけることは明白でした(というか、そういう結論を出した時点で迷惑になるのはわかっていたが、仕事が本格化する前のほうが被害が少ないからまだマシ、本格化してからは言えない)。医者も長引く症状に心配し、診断書の再発行を宣言され、上司と相談してもうその営業は続けられないと決めました(営業職の経験自体も、新人研修を除けば生まれて初めてだった)。そして、営業の仕事を辞めて、長めの休職をとることにしました。

 ここまでの経過が、こちらになります。

■長い休職と復職■

 休職は、会社の規定で半年。医者は内規が許せば少し長めのほうがいいかもしれないと言っていましたが、内規がきっちりあったため、半年としました。1998年10月〜1999年3月です。

 休み始めた前半は、そう悪くない状態で推移しました。年末から年明けにかけて、今度は同居人の体調が落ち、自分も巻き込まれて、よくなるはずが低空飛行維持となります。そのまま3月がやってきました。この3月に、暖かくなると同時にやっと「おや、少しよくなってきたかな」と思える状態が来ました。

 上司と相談もしましたが、はかばかしく完全に復調していないこと、戻るとしてもどう戻るか(つまり、一時は管理職にあった者が、かつての部下の元に戻る形もあり得るわけで、双方やりにくくなる、そのあたりをどうするか)などを考える必要もあり、もう少し相談して延ばしてもいい、ということになりました。これは実は特別措置で、その点はありがたかったです。

 実はこの最初の時点では、もう前の仕事には戻れないのではないかと考え、退職も考えていました。そのことをにじませる発言を、上司にもしました。ただ、4月の下旬に、かなり回復してきたため、戻ろうと決意しました。いきなりまったく未知の職場で元気にやっていけるかというと、これは非常に危険な賭けになります。戻れるならば、一度戻ってからのほうが、働く際の心理的なクッションも大きいという判断もありました。また、ここまで迷惑をかけて、逃げるように辞めるのは悔しいという気持ちもありました。

 このため、逆に会社の上層部がどう扱うかを検討しなければならなくなり、医師による復職が可能かどうかの所見を記した診断書を要求されました(会社としては万が一のことがあるから請求したくなるだろう)。少し待たされてから、6月1日より出社、いきなりフルタイム勤務、以前の仕事にそのまま戻る(管理職の地位は解かれたまま)という条件で、戻りました。(もともと管理職に戻れるとも、戻りたいとも思ってはいなかった。)

 その間の経過は、こちらになります。

■復職と転職■

 さて、復職後は以前の部に戻り、ソフトウェアの開発とドキュメンテーションを中心にやりましたが、一応大過なく働けました。一応というのは、復帰直後はC言語のコーディングの勘、ドキュメンテーションの肝などを思い出すのに使ってしまったからです。

 1999年6月に復職、7月末から8月上旬にかけて夏休み(この会社は夏休みが長かった)。なんとか仕事を思い出し、まぁなんとかなりそうかと思った頃に夏休み。明けてからは、以前の勘も取り戻し始め、調子が上がってきました。特にプロジェクトがひどく忙しい状態に入り、そのこぼれそうな部分を守備陣として壁になってこぼさないようにする、ということに徹していきました。

 そうは言っても、まだ「どこまで頑張れるか」を自分なりに試しながら業務を進める面があったことは、否定しません。やはり、少しずつ仕事のプレッシャーを増やしていきましたし、一応それが許される状況だったのはありがたかったです(もちろん、これくらいはやれるだろうという仕事は、絶対にとりこぼさないようにすることは当然で、それがあってこそです)。

 また、休み明けから人材バンクからの紹介などもあって、いくつか採用面接に足を運んだりしてもいました。このまま続けるより、とりあえず一度開発直接から離れて、ドキュメント関連の仕事がないか、そちらのほうがずっと自信が持てると考えたからでした。

 結局、ソフトハウスの専属マニュアルライターとして、組み込みJavaの開発者向けマニュアルを執筆する仕事を見つけ、転職を決めました。これは9月に決まり、10月から引き継ぎをして、11月に転職先で働き始めることになりました。転職に当たっての休みはなく、土日の休日を挟んでいきなり働き始める形。

■転職後の経過■

 1999年11月。入ってみて、次の会社は激烈に働く会社であることを、改めて実感しました。そういう会社らしいなと思ってはいたが、自分の業務がきっちり上がればそれでいいはずだし、自分の仕事のスタイルを崩す気はもともとなかった。ところが、入ってみて、それどころじゃないことがわかりました。なにしろ、普通にやってたら絶対に終わらない仕事が転がっているから、自分の分が終わっても、他人の様子を見ながらやれることをやって、さらに仕事の質を上げないといけない。

 この会社は、いまはだいぶ人数も増えて、前よりはいいポジションにいるでしょうが、当時はすごかったですな。私はマニュアルという、処理系やAPIがある程度定まった後の、出荷前の最終工程にいました。エンジニアの作業が終わらないと出荷が出来ない、それでは私の首が締まる・・・結局、私は工程管理や品質管理に近いことにも手を染め始め、気がついたら入社2ヶ月後には管理職になり、品質管理的な仕事はマネージャを雇い入れたりして、けっこうなボリュームで働きましたね。

 かなりきつい日も正直に言えばありました。しかし、医者に時々相談して、薬を少し処方してもらうくらいで、もうぶっ倒れっることはなかったです。また、先の経験から、周囲に早めに判断したり相談したりして、抱え込まないような配慮もするようになりました。(それでも、業務があまりに激しくて血尿が出たときは驚いたけど、それも相談の上で大事にならず解決。)

 つまり、転職後は闘病通信というものはない状態でしたね。


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