猫時間通信

2003年6月

 

■2003/06/19■ 朝日新聞・・・

朝日新聞、本日の朝刊、経済・産業欄に「マイクロソフト、IEのマック向け開発を中止」と出ていた(リンクはアサヒ・コムのもの、朝刊と同一記事)。

確かにマイクロソフトはInternetExplorerの開発を中止するんだけど、それについて他にいくつかきちんとコメントされた記事がある。

  インプレス「InternetWatch」

    6/16の記事(同社のWebニュースPCWatchからも辿れる)

  ZDnet「PCUpdate」

    6/14の報道記事

    6/18のアップルからのコメント報道(続報)

上記3つの記事を読むと、朝日新聞は肝心の点を伝えていないことがおわかりだろう。アップルはSafariという自社製Webブラウザを開発しており、むしろOffice製品やメッセンジャーなどに力を注いだほうがいいと判断した、という至極もっともなポイントである。

したがって、この記事の報道のポイントがどこにあるのか不明確になってしまう。マイクロソフトがアップルを見放し始めた、もう終わりだ、とでも言いたいのだろうか。そんなことをすれば、マイクロソフトは自分で自分の首を締めることになるのに(独占禁止法にひっかかってくる)。

数日遅れで、しかも何を言いたいのかわからない報道の意図は、いったい何だったんだろう?


Mac OS Xでの開発に慣れていない開発者が多く、フルにスピードを追及したアプリケーションが少ない。そこで、アップルが見本となるようなアプリケーションとして、WebブラウザSafariを供給することにした。よく言われる「マックはインターネットが遅い」を覆したかったというのもあったろうし、何よりブラウザは毎日使うからだ。

一方、IEはバージョン5以降は、決して悪くないブラウザに仕上がってきていた。Safariはこれから正式版が出荷されるところで(噂では今月と囁かれている)、まだ熟成とまではいかない。β版は問題点も多少ある(私も少しはアップルにフィードバックした)。ただ、使い心地はよいので、これから楽しみなのは確かだ。

IEを失って不便になりそうなことは、HTML閲覧ではない。Safariだけでなく、OmniWeb(Omni社の開発したWebブラウザ)なりがあるし、Operaも開発が継続されるそうだから、あまり心配はいらない。さらに、マイクロソフトの進めるネットサービスMSNもMac OS Xで対応している。失うのはおそらく、マイクロソフトが積極的に推し進めたがっている.NETサービスへの対応だろう。つまり、.NETで提供されるサービスを受けられない可能性が高くなるということだ。

AppleはSun MicrosystemsとともにJavaを強く推進している。そして、Javaは.NETと激しく競合している。この二つの技術は、インターネットを通じてICカード、携帯電話やPDAから、家電製品、パソコン、サーバなどをシームレスかつ安全に接続してサービス構築するための技術であり、目標はほとんど同じなのに、実現技術と政治思想が異なっている。一言でいうなら、JavaはSunが中心ではあるけどオープンを指向し、.NETはマイクロソフトがコントロールする代わりに責任も持つ、とでも言えばいいか(めちゃくちゃに大ざっぱだけど)。

マイクロソフトはおそらく、Officeのようなある程度儲けのある製品はMac版を継続するだろうが、Mac版Officeも.NETには積極的に対応しないだろう。UNIXベースであるMac OS Xは、Javaを標準開発環境の一つに選んでいるからね。マイクロソフトとしては、政治的には「Java側で.NETに接続できるようにしてください」と言い放てばよいだろうし。つまり、おそらく.NETを優位に進めるためなんじゃないかと勘ぐりたくなるような側面があるんだよな。

ただ、見方を変えれば「OSと、ネットワーク周辺を支えるミドルウェアを全部アップルが握っている中で、.NET用ミドルウェアを出すのはたいへんだし、アプリケーション開発で稼がせてもらいます、無料ソフトはアップルがやってください」とも言えるのだけどね。

ただ、今後のネットワークを介した機種連携サービスがJava中心になるのか(現在はそういう方向)、着々と巻き返している.NETが覇権を握るのか(否定できない)、両者がっぷり組んで譲らないので相互に楽に接続させる方向になるのか、このあたりは実は大きな問題・・・というのは先走りが過ぎたけど、しかし、もうちょっとポイントをついた記事にしてほしかったねぇ。


 

■2003/06/16■ iTunes4の心地よい音

iTunes4にしてから時々、いままでためたMP3のファイルを捨てて、CDから取り込み直すことがある。コーデックをMP3からAACに変えるため。もともとはAACのほうがファイルサイズが小さいのが理由だった。取り込んだファイルが増えていくに連れて、面白いことに気づいた。

実は5月2日、iTunes4にした直後、それまでのMP3ライブラリを聞くと「音が悪くなった」と書いた。音に伸びがなくなり、それまで必要なかった「サウンド拡張」オプションをオンにしないと、張りも艶も感じられなくなった。このことは、今でもそう思っている。

ところが、AACで取り込み直すと、それまでより心地よく響くCDがある。ジャズ、クラシック、雅楽など、ダイナミックレンジが広いアコースティックサウンドばかり。特に、日本の雅楽、西洋の古楽など、現代の楽器よりも倍音成分が複雑で繊細な音ほど顕著。古楽の弦、雅楽の太鼓などは、元のCDより劣るとしても、MP3より遥かにまともな楽音に聞こえる。一番低いエンコーディングレートの128Kで取り込んだものでさえ! 音が割れまくったMP3の頃とはだいぶ違う。2月23日に触れた、雅楽の音がMP3でひどく聞き苦しい、という現象も目立たなくなった。

逆にAACにしてもあまり変わらないのは、ポップス系、それもリズミックなナンバーを電子音で固めた楽曲。こういう曲はアレンジやサウンド作りの段階で、音を再生装置にあわせて作り込んでいる。また、聞きやすい中音域にピークをあわせてもいる。だから、MP3にしても違和感が少なく、AACにすると「いくらか音がよくなったか」と思える程度。

どうも、iTunes4はAACで心地よく聞ける方向に特化したような印象を持っているが、どうなんだろう。ただ、MP3もエンコーディング・エンジンによってだいぶ音が変わるから、アップルはあまりMP3には力を入れず、AACでいくということなのだろう。iPodをWindowsで使う場合などは、音のいいエンコーディング・エンジンを見つければいいことになる(iPodをWindowsで使う場合、AACはサポートされていない)。

音がそういいわけではないPC環境で、音質を云々するのは少々滑稽な面もあるが、悪いよりは良いほうが気持ち良いに決まってる。iTunes4はAACが一番、ということがわかってよかった、よかった。


夕方、用事を終えて、カフェで一息ついていた。斜め前、仕事帰りに誰かと待ちあわせているらしいOLらしき女性がいる。入社したてか、2〜3年目というところか、きれいな格好をしているのに、待ちあわせ相手と携帯電話で話している時、落ち着かないように身体を動かしまくって、なんだかとても妙。身体をねじり、右足を椅子の右足に、左足を椅子の左足に、それぞれ絡ませる(好意を抱いている男性相手なのかな)。電話を切ると落ち着きを取り戻して、自然に電話以前の姿勢に戻ったようだ。待ちあわせ相手が来たら、背筋が伸びていた(やって来たのはこぎれいな男性、同い年か少し年上か)。

携帯電話をかけると急にそこが外ではなくなり、家でごろごろしながら電話している時と似た心境になるのだろうか。その女性の場合も、話し声は大きくなく、そのあたりのマナーはしっかりしていた。ただ、心境やそれに応じた姿勢などはなかなか意識できない。私も人のことは言えないんだろうけどね。


 

■2003/06/15■ 拍子

京都ページ観光篇に3件、追加。


某所で雅楽の演奏会。前半はレクチャー形式で、拍子についての解説。後半は解説を踏まえた、太食調の曲を4曲。

拍子については、実はあまり資料がない(というか、調べ始めた分野で、まだ情報への勘が働かずにうまく見つけられないのかもしれないのだが)。調子(西洋の長調・短調といった概念よりは、ギリシャ旋法や教会旋法に近い)に関してはよく入門書にも書かれている。音高に関する経験があれば、調子や音名はすぐに覚えられる。ところが、拍子はなんだか漠然としていた。

レクチャーを通じて、拍子の示す内容と、音とを聞き比べると「なるほど!」と合点のいくところ、多数。もっとも、西洋音楽の拍節とはだいぶ概念が異なるし、まだわかったとは言えないのだが、少なくともとっかかりは出来た。よく注意してみよう。(まだわかっていないので、解説めいたことは書けない、あしからず。)


 

■2003/06/14■ 梅雨入り

よみもの」に、お話を一つ追加しました。


絵に描いたような梅雨入り。昨日から今日にかけて、暑い、いや、蒸し暑い。最近はいつ梅雨に入って、いつ終わったのかよくわからない年が続いていたが、こう典型的なのも相当に珍しいかも。


有事法はやはりあっさり参議院でも可決した。今度はイラク新法の是非である。

一方で、地震が多発している。5月末、東北。その後、東京近郊でも(茨城や千葉で)数度揺れている。長野や北海道もそうだし、2度連続で起きた台湾もある。地震をニュースクリッピングしていると、あまり地震の起きない月などもかなり見かけるが、今の頻度は明らかに高い。しかも、広い範囲で頻繁に起きている。戦争の前に、足下のことが大事なはずだが・・・。

3月27日に書いたことだが、神社の勧請と、Webのリンクはよく似ている。そっくりにも見える。この勧請という仕組みが、国土の安定と鎮護にもし貢献していたとすれば、そして、それをずたずたにした開発や発掘で日本の地盤が緩んでいるとすれば・・・いやまぁ、妄想ではあるけど、どうもあながちまったく根拠のないことにも感じられないんだよね。


 

■2003/06/09■ 「博士の愛した数式」

鼻のムズムズはおさまってきた。心当たりはといえば、まったくはっきりしない。うーむ。


今月7日発売の「新潮」に掲載されている小川洋子「博士の愛した数式」。

話は、博士が主人公の息子に出会い、頭の形が似ているからと、ルートと名付けるシーンから始まる。家政婦を生業にしている女性(家政婦の派遣会社に所属している)が、難物と噂される数学博士の家へ派遣される。母屋に住む義理の姉が雇い主であり、離れに住む老学者のためにハウスキーピングをするのが業務である。老いた数学者は実は、事故の損傷により事故以前の記憶は保持できても、それ以降の出来事は80分以上の記憶を一切維持できない。彼は数学以外には無頓着で、数学の美と、静けさとを愛し、それさえ乱さなければ特に問題はない、そう、彼女が作る夕食もほとんど上の空で流し込んでいる。ただし、事故によりもはや数学者としての生命はなく、彼は数学学会誌の懸賞問題を解いて時々賞金を得る生活をしている。

やがて、彼女に息子がいることに触れた途端、博士は態度を一変する。子供は親から離れた場所にいてはいけないといい、かぎっ子である息子を一緒に連れてきなさいと言ってきかない。やってきた息子に対して、すばらしい信頼と情熱を込めて庇護者たらんとする博士、それは彼女の前では見せたことのない姿だった。息子をルートと名付け、ルートと博士は阪神ファンということで話題が一致する。宿題をやる息子の面倒を、博士がみる。どんなに数学のことを考えていても、ルートが呼んだ時には即座に中断して話をする。

・・・このような、特殊能力を持つものが事故にあって、というシチュエーションは、映画などで時々見るものかもしれない。しかし、小川洋子氏がパターンに陥ることはない。美しい日本語の散文が、博士が示す数の美と相まって素晴らしいリズムを形作り、読者はその美に導かれてルートと博士が結ばれる信頼の数々を見て、聞いて、その感触まで味わう。登場人物の造形は極めてデリケート、そして伏線は極めて用心深く張られていき、日本の描写なのに、ヨーロッパの良質の映画のような空気感さえある。なんという幸福感、そしてそれゆえに迫る静かで哀しい波。モーツァルトの音楽を思わせるそれは、必ずそうなるべき終止形をラストにきちんと奏でて終える。

このラストを、でき過ぎというなかれ。一遍の音楽なのだから、バスと終止和音は自然に導き出されてくる、そう思えばむしろ約束された和音をもっとも美しく奏でてくれたと言えないだろうか。

どれもすてきなシーンだが、息子のルートが、博士に全幅の信頼を置こうとしなかった自分の母親を責めるシーンの力強さ。こういう子供の悔しさって、忘れてしまうこともあるが、ひょんな瞬間に思い出して全身の血が逆流するほど驚くことがある。このシーンは、穏やかな書きっぷりながら、まさにそれだ。


電車に乗ると、私は割合立っていることが多い。座るとかえって疲れることも多いからだが、たまたま腰が弱っていたし空いていたので、着座した。少しぼうっとしていると、背がひょろりと高く、腰の位置もびっくりするほど上にある女性が歩いてきた。と、私の隣に座り、ヘッドフォンを取り出し、聞き始めた。

聞き慣れた音にびっくりした。ブラームスの交響曲第2番、第4楽章(フィナーレ)の終結部。盛大に全ての楽器が、音階を駆け巡っては堰き止められ、その都度、驀進し直す。はっきりと漏れ聞こえる。地下鉄も音楽に負けずに進む。この騒音の中でクラシックを聞くかぁ、と思っていると、テーマがラッパで盛大に鳴り、分厚いニ長調の和音が伸びて、終わった。続いて何が鳴るかと思っていたが、どうも大音響の曲ではないらしく、彼女が降りるまでついに次の曲は聞こえてこなかった。

いや、それだけなんだけど、あまりにでかい音で聞いていて、インパクトがあったもんでつい書いちまった。これで声をかけたらあやしいオッサンだが、そういえばまだ学生だったころ、上野の大ホール前で「マーラー、お好きですよね」といきなり声をかけられたことがあるな。びっくりしたし、特別にマーラーが趣味というわけじゃないんで話もしなかったけど、そういう人が世にいるのも、年くってみるとわからんでもない。やらないだろうけどさ。


 

■2003/06/05■ なんか鼻が・・・、PalmがHandspringを買収

5月に五月晴れがほとんど拝めなかったが、今ごろになってからりと晴れた。洗濯物が乾いたのはいいが、夜はなんだか少し湿っぽい。

ところで、ここ数日、鼻がムズムズする。鼻水が出て、何度も鼻をかみ、時には目が痒くなる。なんだろう? 特に花粉の季節でもないし(確かに近所で花を咲かせている家は多いのだけど)。


猫をみかけない。野良猫が幸せかといえば決してそうとばかりもいえないと思う。だが、きれいな家と人と庭犬ばかりがいて、猫は室内猫がどこかの窓から見えるのみというのも、ちょっと妙な話。

でも、いるところにはいるようだ。久々に見た猫は、ちょっと三毛猫っぽい柄。ひょ〜い、ひょ〜いとリズムをとって跳ねていく。後ろ足で大きく蹴って滑空時間が長いから、このリズムになる。前脚がよくないのかと見るが、跳びにくいところではすたすた普通に小走りになる。成猫にはやや小さいからだろうか、ひょ〜いと跳ねること自体が楽しそうで、首を持ち上げて誇らしげに進む。

湿っぽい空気の中で、急に乾いた風が流れる瞬間をつかまえて、その先を追いながら愛おしむように走り抜けていく。くしゃみをしても気にすることなく猫は跳ね、どこぞの庭に潜り込んでいった。

たったそれだけのことが、なんでこんなに胸に残るんだろうね。


PDAという分野を飛躍させたPalm, Inc.は、同じPalmOSのデバイスを開発しているHandspringを合併吸収するという。

AppleのNewtonは動きが鈍すぎてなかなか普及しなかったが、きびきび動くPalmはじわじわと人気を上げていった。Newtonの生産・開発中止が発表されてからしばらく、世界のPDAはPalmを中心に動いていたとさえ言える。面白いのは、この会社を立ち上げたメンバーがスピンアウトして、Visorを設立したことだ。OSは以前自分たちが作ったものをPalm社からライセンスしてもらう。PDAと周辺機器を接続する機構に独自の技術を開発、独自ブランドのPDA "Visor" を開発・販売していた。

ここにSONYが加わってきた。あっという間に日本市場を席巻。ついでに世界もとりに出た。売れ続けるPalm、実はその間、PalmOSの高機能化の要求があったが、シンプルがとりえのPalmは高機能化にゆっくり取り組む。今度はMicrosoftがWindowsCE・PocketPCを開発、東芝やHewlettPackardがPDAに搭載して販売。インターネット接続や音楽・動画再生に優れるPocketPCに対してPalmは後手に回り始め、その上在庫管理を読み誤った時期もあり、一時は会社がつぶれるのではないかという噂も流れたこともある。なんとか危機を切り抜けて、やっと辿り着いた新機種は(本来売りたいはずの)高機能版がやや不調、おまけに今後期待されている電話機との統合でも、必ずしもうまくいっているとは言えない。

今回の買収による合併は、この通信機市場での地位強化もあるだろう。Visorは、電話機との統合で成功した機種 "Treo" を持っている。また、Palm本体の創業者Jeff Hawkinsが再び戻ってくることで、注目度が上がり、求心力が戻ってくることも考えられる。そして、うまくPalm OS 6を着陸させて、モダンな高機能OSをベースに、シンプルで高機能でスマートな環境に移行したいというところだろう。

この流れ、どっかで聞いたことありませんか? そう、創業者が辞めて、再び戻ってきたApple社みたい。実際、Palm関係者はApple出身者も少なくない。ただ、違う点は、SONYという強力な援軍がいること。SONYがいなかったら、Palmはもっと地位が低下していた可能性もある。逆に地位を大きく伸ばしたPocketPCも、Microsoftやメーカが期待するほどには売れていない。

この市場、小型化したPCと取り合っているのかもしれない。実は私、TabletPCが少し気になっている(まだほしいとまでは思っていないけど)。ペンで描いたラフなメモをたくさん保存して持ち歩けるのは意外によくないか? ただ、電池が持たないのは困り者。それにこういう分野こそAppleにまた取り組んでもらえないかとも思ったりする。むしろPalmとAppleがもっと積極的に協力しあってくれないかなぁ。


 

■2003/06/03■ 5月末に柴田氏講演会聴講

5月末はじめじめした気候が続いて、しかも夕方になると急に爽やかになるのに、翌朝にはまた湿っていた。なんというか、気持ちのいい五月はほとんど感じられないまま、6月へ。しかも5月最後の日は台風(温帯低気圧に変わったけれど)。


その5月最後の日、柴田元幸氏の講演会を聴講。「サロン・ドット・コム」(研究社刊)の監訳者としての講演かと思いきや、全く違うテーマ。えほんとまんがを扱うということで、急遽申し込んで聴講してきた。(「サロン・ドット・コム」は、米文学ガイド。)

柴田氏は言わずとしれた、ポール・オースターをはじめとする多くの米英文学の紹介者として有名な方だが、近年エドワード・ゴーリーの訳を手がけてもいる。また、ご自身の著書にはきたむらさとし氏のしゃれたイラストも入っており、かねてからこの分野に関心の深い方と思っていたので、期待して聞きに行った。

期待を上回る話題の豊富さもさながら、未訳出の絵本をプロジェクターに写しながら朗読していくのが素晴らしかった。きたむらさとし「Lily Takes a Walk」の紹介、エドワード・ゴーリー「Cautionary Tales for Chldren」の1話分を丸々翻訳。実に楽しい一時となった。特に最後、ピーター・シス(Peter Sis、チェコ生まれの絵本作家)の「The Three Golden Keys」、これは圧巻。会の最後を飾るにふさわしい格調を含みつつ、軽みとしっとりした味わいが同居していて、まさに幻想・夢・記憶を歩む。筋など紹介しても仕方ない。ぜひとも翻訳が出て、多くの人々の目に触れてほしいものだった。

話題として面白かったのは、アメリカで「コミックス」と呼ばれる分野から少し距離を置いた、Graphical novelsと呼ばれる「純文学的まんが」についての紹介。日本で言えば「ガロ」掲載のまんがにあたる。Penguinから出ている雑誌「RAW」がまさしくそうなのだが、この中にカフカ「異邦人」とピーナッツ・ブックス(チャーリー・ブラウンとスヌーピーです)を下敷きにして、グレゴリー・ブラウンが朝起きると虫になっている話があることを初めて知った。つげ義春を英訳紹介した雑誌としてはかなり有名だったが、それ以上に妙でおもしろい作品が山積みだった。

というより、こういうところまできちんと目が向いてしまう方だからこそ、あの豊かな翻訳文になるのだろうな。


ちなみに、講演会の終盤、抽選会があったのだが、私はハズレ(残念)。というか、関係者が当たっては辞退するシーンもありましたが、やはり無欲だからなの?(苦笑)


 


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