猫時間通信

2003年2月

 

■2003/02/27■ 花粉爆裂?

外は暴風。昨日までのぐずついた天候と違って一気に晴れたので、とりあえず早朝に洗濯物を干す。ベランダでくしゃみ2連発。花粉、大爆裂のようだ。

所用のついでに、明治神宮へ。風は冷たいが、光は1月よりはるかに強く、澄んだ高い空に風を受けた葉がきらきら光って、踊る。寒いけど、春は間近い。

こういう日って、神社のように土の多いところのほうがむしろ花粉に関しては楽だ。多分舗装道路が一番花粉を巻き上げる。ただ、強い日差しでここ数日の暖かさを保とうとする力と、今日の冷たい空気とがせめぎあって、大極図のような気の渦、しかし拝殿近辺は台風の目のように静か。空いているのはいいが、そこそこにして出る。

やはり土と緑の中を歩くと、身体の周りにまとわりついているモヤモヤが落ちる。多少鼻水が出ようが目が痒くなろうが、舗装道路よりはだいぶマシだし、得るもののほうが大きい。と言える私は、花粉症歴が長くて、最近は症状が落ち着いているからかもしれないけどね。


 

■2003/02/26■ 久々にアフタヌーンの話

久々にアフタヌーンの話、4月号。「なるたる」は、一番の謎と思われる事柄に向けて、いよいよ本格的な展開か、これからが話の本番だろう、期待大。「ヨコハマ買い出し紀行」は、先月までの予告と違うけど、ターポンは好きだし、満足。「神戸在住」、今月はファンでもあり目標でもあったイラストレーター日和さんの訃報に接する主人公の、淡くも重い話。「あぁっ女神さまっ」、「無限の住人」はじめ、長い連載は安定しているけど、最近は入れ替えが増えてきて(後述)、雑誌の空気がかなり変わってきている。アキバ系の熱気がひたひたと入っている感じかな。

というのは、いま一番ホットなのが、昨年絶好調モードに突入した「げんしけん」。現代視覚研究会という大学サークルの省略形がタイトルになっているが、漫研ともアニメ研とも違う、ぬるい(けど確かに)オタクの集まりに、勇気をもって飛び込んだ1年生、笹原。美形でまったくオタクに見えない男の子、高坂の、あまりに爽やかに軽やかなオタクっぷりに誘われて、入部。彼ねらいの、オタク苦手の咲ちゃんが、高坂にひっついてきて、動いて騒いで部室を引っ掻き回してって、とまぁ、なんつーか、あんまりなさそうだけど、あったら多分こうなるだろうなぁと強引に思わせる、不思議な展開。

作者はそれまで痛い恋愛漫画を書いていたが、同じ痛さでも、オタクになりきれない、しかしかかわらざるを得ない人々に焦点を絞って、しかも彼らを軽蔑する人々などからオタク世界相関図も背後に抱えつつ、なかなか精巧に描きこんでいく。笑えば笑うほどイタい、でも笑っちゃう漫画は、かな〜り面白い。先月、ちょっとパワーダウンかと思ったが、今月は復旧。

入れ替えが多いのは、別冊が休刊して移行してきたから。岡田芽恵「ニライカナイ」は終了して、同じ作者の「SHADOW SKILL」がやってきたが、私はそう積極的に好きでもないか。「もっけ」、「蟲師」、「ラブやん」、「ななはん」などがあるが、もののけのお話が2本(「もっけ」「蟲師」)もある。両方とも面白い(特に「蟲師」)けど、もののけの話がこうも多いのはなぜ? 「ななはん」の作者、ももせたまみは、ヤング・アニマルの4コマで人気が出た。ここでも不動のパターン。本格的新連載としては岩明均「ヒストリエ」に期待か、でもまだ始まったばかり(第2回)だが、予感はある(もっと最近の「ヘウレーカ」のような短期集中連載よりもはるかに息が長くなりそうでもあるが)。

個人的には五十嵐大介の「リトル・フォレスト」も結構好き。

桜玉吉「なげやり」(「なぁゲームをやろうじゃないか」の省略・・・)は休載されて長いが、復活するかなぁ。


最後に一言。CD-ROMがついてるのはいいけど、Macintoshにも正式対応してくれ


 

■2003/02/23■ iTunesで割れる音とは

人の背丈くらいの紅梅を見ていたら、緑の小さな丸いかたまりが目の前に飛んできた。ふっくら丸く、細い嘴、眼の周りに白い縁。メジロである。踊るように身をかがめ、梅の花にキスをする、もとい、蜜を吸う。人が目前で見ていても気にしない。チッ、チッと小さく甲高い声で尾を振り、今度は離れた椿に移っていった。緑のシルエットがかわいく踊る様子が目に焼き付いて、ちょっと得した気分。


iTunesに取り込んだ音楽ライブラリから聞かない曲を少し整理した。さらに、高目のビットレート(256kbps)で取り込んだ曲を、普通の高音質(160kbps)に取り込み直して、ディスク容量を稼いだ。無駄に大きなファイルがたくさんあったので、気になっていたのだ。Macを使わない時にちょいとやってみると、結構容量があいた。それで、前から取り込もうと思っていた雅楽のCDを取り込んでみた。

もともとMP3の音は割合のっぺりした、面白みの少ない音になりやすい。CDとあまり変わらないと感じられる方々も多いそうだが、とんでもない。まったく違った音だ。気持ち良く聴けるのは、主としてヴォーカル中心のポピュラーか。人の声を中心にした周波数帯域なら、AMラジオよりずっとよく、FMラジオより少し悪い程度にはなる。クラシックやジャズのように、周波数帯域の広い音はかなりきつい。それでもまぁ、コンピュータの出すハードディスクやファンなどの音から逃れるくらいの目的は果たしてくれる。

で、雅楽の場合はどうか。まず、龍笛の音などは、びっくりするくらいつまらない音になる。西洋のフルートは雑音を除いて正弦波に近い矩形波で鳴る。龍笛は息の音も含めて非常に複雑かつ重厚、周波数成分が驚くほど広い。コンピュータに取り込んだ絵を拡大すると、ぎざぎざが目立ってきて「ジャギーが出た」などと言うが、MP3にした龍笛の音は「ジャギーの出た音」になる。みっちりとした中音域の篳篥(西洋にあえてたとえればオーボエ)はそこまでひどい損失を感じないが、他に笙の音色も大きく損なわれるし、太鼓や鉦鼓はまるで別になる。

となると、岡野玲子のコミック「陰陽師」で有名になった雅楽曲「蘭陵王」などは、笛と打楽器が中心になるため、ひどく聴きづらい。というより、音が割れてしまう!・・・ビットレートを上げればいいのだろうが、それでバカでかいファイルをいくつも増やしたくない。雅楽、他にも民族音楽などは、よほどよい録音でないとMP3にした際、元のCDとは似ても似つかぬ音になったりする。それは西欧の古楽でも同じで、ガット弦の美しくもゾリッとした感触はまずCDでも再現されず、MP3にすると悲しいくらい貧弱になる。19世紀以降の楽音は、言ってみれば都市社会の音で、人間の声だけでなく、楽器の音も自然の中に含まれる様々な高調波成分がかなり抜け落ちている。古楽器とはだいぶ音の周波数成分が違う。都市社会の構成音を中心にした音は、現在の人にはむしろ安心する音でもあるのだろうけど。たとえばカラヤンの成功は、録音にあった美しい音をオーケストラから引き出したことにあるわけだし・・・などと思っていても、はじまらない。


結局、篳篥中心の名アルバム「喜瑞」で一段落。録音が極上で、MP3にしてもなんとか聴ける。あぁ、よかった。

このアルバムは、篳篥の名手にして宮内庁の楽長、東儀兼彦氏を中心に、龍笛の名手にして伶楽舎音楽監督の芝祐靖氏、笙の名手にして宮内庁の豊英秋氏の三名手が一同に集った名盤。天王寺(大阪)、南都(奈良)、京都の楽家を継ぐ名手が揃い、唐楽(中国経由)と高麗楽(朝鮮半島経由)の名曲などを録音している。教育的な配慮も大きいようで、雅楽の調子、基本楽曲の唱歌(練習の際にこれを歌って覚える)二曲が入っているので、雅楽とはどんな音の体系を持つのかが、二枚のアルバムで導入程度のことは概観できるようにもなっている。何より、演奏も録音もすばらしい。余裕たっぷりの三人が、優雅な横綱相撲をスローモーションで展開する様が本当にすてき。私は高麗楽はちょっと耳慣れなかったのだが、このアルバムの篳篥の音で、やっと耳が開けた。高麗楽からほとんど現代音楽まで連想されてしまう(とっぴな連想ではあるけど)。

とにかくお勧め。


 

■2003/02/22■ 電脳古雑誌の行方

暖かかったり寒かったり、かなり忙しい気温の変動。木蓮のつぼみが徐々にふっくらしてくる。晴れて暖かい日に、雀が数羽さえずっていると、ほんとうに今にも咲き出しそうだ。


先週、部屋の整理をして、もう読み返しそうにない本少しと、大量の古いコンピュータの雑誌を古本屋に持ち出した。段ボールに入れ、紐で縛り、キャリアに乗っける。徒歩で10分弱の古本屋へ。坂の上り下りで腕がちぎれそうになる(車を使えって? 免許はとったけど、運転しても酔うくらいで、もってないんだってば)。

やっと辿り着くと「すみません、コンピュータ関係の雑誌はお引き取り出来ないんです」。

そりゃそうか・・・3年ほど前までは、コンピュータや通信関係の雑誌は2年以内なら読み返す可能性が非常に高かった。今や、半年前でも読み返すことが減っている。2000年あたりから、コンピュータ関係者だけでなく、一般向きの記事まで Dog Year(インターネットが時間活用を加速させるため、人の世界が犬の速度で動いてしまって、時間が極度に圧縮されること)になってきたか。しかし、1年前のコンピュータやパソコンが「めちゃくちゃ古いからもう買い替えてくださいよぉ」などということが本当に幸せなのか。コンピュータに関係することで飯を食っていた身分ではあるが、心底考えてしまう。コンピュータのプロは、意外にハードウェアを買い替えない。むしろ、コンピュータを利用している一般の方々で、コンピュータが結構好きな方のほうがよく買い替える。じゃぁどうするのかと言えば、枯れて安定したものを組み合わせ、それで堅実に仕事を続け、必要以上に重い処理をさせない。そうは言っても、OSの頻繁なアップグレード、それに伴って重くなる動作に、昨今はいやでも買い替えないわけにはいかない状況が出来上がってしまっている。それが果たして、本当に経済効果か?

帰り道、重さは3倍に感じられた。仕方なく、資源ゴミの日に処分・・・一部、もったいないので残したけどね。


インフルエンザが下火になったと思ったら、別の目的でマスクをする人が増えてきた。そう、花粉症。

種々のアレルギー症では、私は長い症暦を誇っている(ん?)。小学校低学年の頃、やたらと鼻がぐずついて、耳鼻科に非常によくお世話になっていたのだが、そこで「まだ日本ではあまり言われていないが、これは花粉や粉塵のアレルギーですな」と医者に言われた。まだそんな症状など一般に認知されにくかった頃だったので、学校や知人には「気合いで直せ」などと言われてしまうくらい。もっともあの頃は、喘息に対して「気合いで咳くらい押し込め」と非常識なことを言う先生もいた時代だがな。

高校くらいから眼も痒くなる。大学生になった頃には、眼の周囲の皮膚を掻き破るくらい。このころから社会人になって数年が一番ひどかったように思う。まだいい薬もなかった(飲むとぼんやりして学習や作業の妨げになった)。それ以降、症状とのつきあい方を考えるようになり、よい薬があれば時々服用したりもした。最近は、整体や呼吸法のためか、以前より若干軽減しているように思う。

今年は、1月30日くらいからちょっと頬が紅くなってきて、そろそろきたかと思うが、まだそれほどでもない(もちろん薬も服用していない)。3月、どうなるかね。気候が、スイッチを押したように変わるからなぁ。


気候で思いだした。マヤ人の残した天文学の知識を元にして「地球が太陽の周りを1周する間に、月は地球の周りを13周する」法則から、「13の月の暦」を提唱しているホセ・アグエイアスという方がいる。365日の太陽暦の周期を、13月に分割することで、現在西欧圏を中心に使われるグレゴリオ暦に接合しやすく配慮されている。一方で、太陽暦の年単位とは違う、260日周期の農業歴をベースにした巡りもあり、こちらでも心身のリズムなどを感じたりする。二つの暦を組み合わせつつ、流れや巡りが一つでないことを味わう、とでも言えばいいかな。今日は、260日周期の最後の日、明日から新しい260日の周期。ここ1週間ほど、次のサイクルへの準備のような感覚を、心身全体で味わっていた。(そういえば、16日の夜、昼間の雨が上がって、びっくりするほど美しい満月と木星が見えたね。)

この暦に関しては、日本でも翻訳書が出ているし、日本人の手になる解説書やカレンダーもある。使っていると面白いのだが、仕事でも私生活でも相手があっての事は、相手がグレゴリオ暦(太陽のみによる暦)であり、自分の中でもなかなかうまく運用できずにいた。昨年くらいからやっと「おや、これはなかなか使える」と感じる瞬間が出てきた。仕事やイベントについて、13の月の暦を見ながら「どんなに皆が無理を言っても、上がるのはこのあたりだよな」と思っていると、本当にそうなる、といった感じ。やはり、流れとしか言い様がないものだが、そういうものがふと感じられる。数年間使って、やっと。いかに根強く自分がグレゴリオ暦のサイクルに無理やり合わせ込んでいたかがわかってくる(現在進行形だけど)。

昨年、急に旧暦の本が売れ出した。太陰太陽暦だった旧暦の場合、太陽暦の二十四節気に対して、月は文字通り空の月の巡りを考えるから、うるう月などが必要になり、私が小学校の頃は「そういう不合理なものを昔の人は使っていた」と教わった。しかし、この体系が少しずつ改訂されつつも長らく使われてきたのは、農業に向いているから、という。農業ということは、植物のリズムを見るのに向いている。農業そのものでなくても、季節や気の巡りの感覚にはずっと合いそうだという連想はすぐに出てくる。それで売れたのだろう。種々のアレルギー、窓が開かず外気に触れない暮らし、夜でも明るい都会では、むしろこうやって時や季節の巡りを実感しようと考える人が増えているのかもしれない。

自分のリズムが、必ずある。それはやはり、大切にしないといかん。そういう当たり前のことに、異種の暦を持ってくると気づくことが多い。どれがいいというより、各自で試してみるといいのだ。安上がりで楽しい、時間の冒険です。


 

■2003/02/13■ そこにいつもいるはずが、いなくなること

いつもの帰り道、空にぽっかり月が浮かび、そろそろ満月に向かって明るいと思いながら歩いていた。猫だまりと我が家で呼んでいるあたりにさしかかり、視線は自然にその中心にある家の門の根元に下がる。我が家で勝手に「声かけ君」(なんども書くけど、名付け後に雌猫であることが判明)と呼ぶ子が、そこのあたりによくいる。この冬は、この子がよくいる家の前の方が、猫小屋も提供していた[1/16参照]。

いつもあるはずの猫の小屋が、ない。小屋自体がなく、花や小皿が置いてある。あ、と思った瞬間、張り紙に気づいた。ここ2〜3日元気がなかったのだが、本日の午前中、猫の小屋の中で永眠していたそうだ。(張り紙によれば、きちんと本名があったようだが、ここでは明かさないでおく。)

暖かかった10日には、この家の方が出されたらしい座布団が小屋の前にあり、そこに座っていた。背後に猫小屋、下には座布団、前には水と餌の皿、そしてほどよい気温にやさしい日差し。ゆったり眼を瞑っていた。これを至福といわずして、何と言おう。11日に天候が崩れて、昨日の12日は一転してひどく寒かった、これがこたえたのだろう。この冬は確かに動作もゆったりしてきて、おそらく相当の年齢だったとも思われる。

夜、用事があって、もう一度通る。花、お線香、好きだったらしいカニ蒲鉾。よく人に声をかけて、撫でられるのが大好きだった。両手がふさがっていても、足にまとわりついたりする。もう見慣れた小屋はなく、あの子の猫撫で声も聞こえない。

先月書いた満開の木蓮の下、地にまき散らされたクリーム色の花びらの中で、日なたぼっこをする至福の姿。今年も楽しみにしていたが、もう見られない。


家のすぐ近くでよく姿を見かけたが、いつのまにか姿が見えなくなった「傷ねこ君」は、数年前。足にまとわりつく子が、また去っていった。交通事故のような不慮の形でなく、小屋の中で静かに寿命を迎えた。通りかかる皆によくかわいがられていた子だっただけに(地域猫だったと言える)、哀悼を祈る人々も多いと思われる。お礼もこめて、合掌。


 

■2003/02/10■ 私家版「コミックFantasy」

急に暖かくなり、身体が驚いている・・・汗腺を開ききっていいのか戸惑っている様子。整体では、頭に血が上りすぎて身体が冷え、抵抗力が落ちている、放っておくと風邪に至るゆえ、暖かくしてオンとオフのリズムを分けましょう、と。確かにその通りでございます。


2月某日、漫画家紺野キタ氏のページを久方ぶり(2003年に入って初めて)見に行ったら、「コミックFantasy」のホームページがオープンした、とある。「コミックMoe」から発展し、ますむらひろし、森雅之、イタガキノブオ、大雪師走(「ハムスターの研究レポート」が元祖ハムスター漫画[2/11、誤記訂正])、紺野キタ(「ひみつの階段」シリーズ)などに加えて、須藤真澄やめるへんめーかーらも執筆していた、文字通り「不思議な」味わいのあった雑誌(敬称略)。しかも雑誌コードをとらず、ISBNコードで書籍扱いの配本にしていたため、バックナンバーを取り寄せることも出来た。惜しくも1998年に休刊。いまごろなんで?・・・

あけてびっくり、なんとそこには、かつての編集長が、連載陣のかなりに依頼して立ち上げた、新創刊の「コミックFantasy」があった。私家版ゆえに、まだ流通経路にのっていない。私、本日、申し込んで参りました。こういう心意気あるものは、うれしいなぁ。到着が楽しみ。


 

■2003/02/04■ 節があけた

節分なり。太陽の軌道、黄経の315度を、本日通過していった。

群青色の空、西にクレッセントムーン。湿った空気に、甘く貼りつく細い白。(おいしそうだって?)


夜、アップルのホームページに、新iMacの表示。これで、1月のExpoでのPowerBook新機種2系統、1月末のPowerMacマイナーチェンジ+20inchシネマディスプレイに加えて、iMacのマイナーチェンジまでやってきた。全体に価格改定も行われていて、なんとか値ごろ感を出そうとしているか。PowerBook 15inchと、iBookはまだだが、これも行われていくのだろうか。

AirMac Extreme(要するに無線LAN規格IEEE801.11gの暫定版採用)、Bluetooth内蔵可能といった無線ソリューション向上が一つ。液晶ディスプレイを買いやすくする点もある。デスクトップ主要機種では、ほとんどDDRメモリに対応したこともあるか(いまさらという感じは大いにするが)。PowerBookも、小型機種(12inch)と超大型機種(17inch)を追加して、シリーズ化した。

そして、これほどのハードウェアのリプレイスは、MacOS 9からの起動をサポートしないことを背景にしている。私個人は、MacOS 9以前にことさらの思い入れもなく、Mac OS Xへの移行を喜んでいるが(安定性の高さや、ネットワーク、ディスクのI/Oの向上がどれほどうれしかったか)、表示系の速度だけはもうちょっとどうにかならんかと思う・・・PowerBook G3 400MHzを使っているからというのもあるが、店頭で触れる最新機種にも、もう一歩きびきび動く感じがほしいなぁ。

ともあれ、iMac 1GHzかぁ・・・店頭で触れる機種では、1GHzに到達していると、他より明らかに速く感じられる。触れてみないとわからないけど、さすがにちょっとうらやましい(iMacは設置面積が結構あるんだよなぁ)。

知人でMacを買うか迷っている人で、PCにいってしまうケースは少なくない。最終的には値段もあるが、値段に見合うことが出来るかどうかが購入のポイントになる。あたりまえだ。同じことができればPCにいってしまうし、そういうもんだと思って使っていれば別に困りもしない。ただ、Mac OS Xでの高品位なフォント表示や、抑えた色遣いって、やっぱり長く見ていると、ラク(Windowsマシンも所有して使っているだけに)。使わないとわからない感触に、いいところが結構あるんだよなぁ。PCならこれがいいよ、と言ってはあげるけど、本音を言えばちとさびしいのも事実。


 

■2003/02/02■ 林正子のCD「祈り」

きりきりとからっ風が吹き、筋肉を締め上げる中、泉谷典彦氏の写真展のオープニングイベントへ。泉谷氏の写真とスライド、覚和歌子(作詞家)氏による詩の朗読、中村香奈子氏の音楽(笛)のコラボレーション。時刻ぎりぎりに辿り着き、写真展を観る前に、いきなりイベントからになる。

龍笛の音(古楽乱声)で始まり、物語のような叙事詩「雪解け」の朗読、続いて雅楽演奏で「平調音取」と「春庭花」。最後に、泉谷氏の写真をスライドで映し出して、朗読「ハナコさんの赤い指輪」(このイベントのための詩)を、笛(正倉院御物の横笛、はいしょう)が彩っていく。ストーリー性をやや抑えて、絵のイメージと音の余白を利用した、淡い光の連続は、安らぐものだった。

終演後、泉谷氏の写真を観る。モノクロ。コントラストや色みの強さより、素直さが全面に出ている。犬や猫の写真がポストカードになっていて、おそらくお好きなのだと思うが、道を何気なくとったショット、あるいは逆光などのほうがよかった。日本の湿度ある空気感が伝わってくる。よい写真のイメージって、どうも欧米の写真のような乾いてピンと張ったものを連想するが、こういうのもありかもしれない。


先日触れたソプラノ歌手、林正子氏のCDが届いた。「祈り」と題した、近現代の6曲、新作6曲。新作は笠松泰洋氏の手によるもの。笠松氏は蜷川氏のギリシャ悲劇集大成「グリークス」で音楽を担当するなど、クラシック以外でも活躍されている作曲家。林氏と笠松氏は以前からコラボレーションを企画しており、林氏が自身で6曲選んで、その対となる曲の作曲を依頼したのだライナーノートにある(考えてみると、ものすごい企画である・・・)。

林氏の選んだ6曲の歌詞を、新作のためにまず翻訳する。詩人の岩切正一郎氏が行った。それはよい詩であったのだが、歌詞としてメロディにのるかが微妙で、詩人の許可を得て、さらにコピーライター工藤千夏氏に歌詞としての改作を依頼するという念の入りよう。ピアノは作曲家でもある土田英介氏。

シューベルト「Ave Maria」、フォーレ「En Priere」。名曲2曲に続いて、新作「耳をすませば」が始まる。抑制されたピアノが冷たい水音をたて、声が乗る。発音も抑制気味だ。それは徐々に沸騰し、クライマックスでは最高温域の願いになり、上っていく。ほとんど器楽的に聞こえるこのフレーズはおそらく、祈りということについて、簡単に癒されれば済むような問題じゃないんだと言うために選んだ、あえて暴力的なフレーズにも聞こえる。

続いてグノー「Pitie Pour Mes Larmes」。棺の前で母を思うこの曲の歌詞に対応して、新作「母を恋う歌」では一転して切々と叙情的なメロディで歌い上げる(コンサートの際、林氏が「涙なしで歌えない」と告白していた)。ラヴェルでは「ヘブライ語の二つのメロディー」より「カディッシュ」。ユダヤ教の朗唱を、西洋の耳で換骨奪胎した不思議に天才的な歌曲。林氏の咽のコントロールが素晴らしい。新作「永遠の国へ」は、平静ながら器楽的なメロディにあえて肉声をのせ、日本語ながらどこでもない国へ連れてゆこうとする。

モンポウの「Hoy la tierra y los cielos me sonrien」では、現代の健康な響きの中に、鏡を合わせて無限に続くような微妙に不安なグラデーションが、声にもピアノにも立ち現れる。それに対応する新作「太陽が私にほほえむ今日」は、速く高く跳躍するメロディに、調性にはまらない和音の積み重ねが付き添って、狂気を持つほうが激しく健康である現代の逆説にまで辿り着いてしまう。

バーバー(映画「プラトーン」の静かなエンディング曲は、彼の有名な弦楽四重奏曲からとったもの)の「St. Ita's Vision」を経て、笠松氏の新作が2曲続く。「子守歌」(これは岩切氏の詩)と「ワンダフルライフのレクイエム」。「ワンダフルライフ」は是枝監督の名画であり、その音楽を担当された笠松氏のレクイエムを歌ってから(レクイエムだからラテン語の典礼のまま)、今回書かれた日本語の歌詞に至る。レクイエムだから・・・死ぬ前に考えること、やることが、歌詞にも音楽にも込められている。これがヒーリング? いや、世間の「リラックスして何となく癒された気分になって」などというイメージとはほど遠い、人間のすべての感情を背負って、真の祈りへ切り込もうという音楽。

最初の2曲はいかにも優しい風情で始まるが、どれも緊張を湛えた音楽である。それは、グランドオペラやドイツ・レクイエムなどの大曲を海外で歌いこなしてきた林氏の歌唱力があってこそ。いわゆる「癒し」のイメージも含めた上で、それに寄り掛かることなどなく、ただひたすら様々な祈りの、その広い振幅が、詩と音楽に結実する。一人の作曲家と、一人の歌手が、限界まで広がっていく様は、聞いていて素晴らしく心が高ぶる。たいへん充実し、聞き応えがあるCDです。

ここまですてきなものに対して、さらにもっと多くを望んでしまうなら・・・何度も演奏を重ねてから、もう一度録音してみてほしい!

というのは、非常に多くの言語(ラテン語、フランス語、英語、日本語、ヘブライ語など)が入り交じる、この豊かな響きは、まだ多くの可能性を秘めているように感じるからだ。最後、アンコールにうたわれたプッチーニのオペラ「ジャンニ・スキッキ」にあるアリア「私のお父さん」が響いた瞬間、イタリア語がいかにベルカントに向いているかをしみじみと感じ入ってしまう。それまでの緊張が解けた瞬間の、この生理的な心地よさは何なのか。ここにすべてが収束してしまうのではない形で、もう一度聞いてみたい。こうして様々な言語が一同に並べられ、その間を縫うのが日本語であることを活かした発音と発声を、もっと掘り下げられる時が来るのではないかと思ったりしてしまう。(林氏は間違いなく、この曲集を歌い込みながら、もっと広げていくように思えるので。)


コラボレーションに浸った日だった。そういえば、H・R・カオスももうすぐなんだなぁ・・・


 


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