弓削皇子
ゆげのみこ
- 生没年 ?〜699(文武3)
- 系譜など 天武第9皇子(続紀には第6皇子とある)。母は大江皇女(天智天皇の皇女)。同母兄に長皇子がいる。
- 略伝 693(持統7)年1.2、兄長皇子と共に浄広弐に叙せられる。持統10年、皇太子の高市皇子が薨じ、持統帝は王公卿士を禁中に召して立太子の件を諮る。葛野王(大友皇子の子)は「我が国家の法と為る、神代より以来、子孫相承けて天位を襲げり」と、兄弟相続は争いの種だとして、暗に持統の孫軽王子を推す。この時弓削皇子は何か意見しようとしたが葛野王に叱止されたという(『懐風藻』)。699(文武3)年7.21、薨ず。この時も浄広弐。大石王らを派遣して喪事監護する。同年12月には母の大江皇女も薨じている。
万葉には8首、「吉野の宮に幸しし時、弓削皇子の額田王に贈与ふる歌」(02/0111)、「弓削皇子の紀皇女を思ふ御歌四首」(02/0119〜0122。紀皇女は弓削皇子の異母姉妹)、「弓削皇子の吉野に遊しし時の御歌」(03/0242)、巻八の2首(08/1467・1608)がある。また「長皇子の皇弟に与ふる歌」(02/0130)の「皇弟(いろとのみこorすめいろと)」は弓削皇子を指すと見て間違いない。ほかに柿本人麻呂歌集歌の「弓削皇子に獻る歌」(09/1701〜1703・1709)がある。
関連サイト:弓削皇子の歌(やまとうた)
系図へ