大友皇子
おおとものみこ
- 生没年 648(大化4)〜672(天武1)
- 系譜など 天智天皇の皇子。母は伊賀采女宅子娘(やかこのいらつめ)。伊賀皇子とも称された。天武天皇と額田女王(ぬかたのひめみこ)の間の子十市皇女(とおちのひめみこ)を妃とし、皇女との間に葛野王をもうけた。『新撰姓氏録』は淡海真人の祖とする。
- 略伝 671(天智10)年10月、太政大臣に任じられる。同年12月、天智天皇は崩じ、翌年、吉野から東国に脱出した大海人皇子との間で内乱が勃発(壬申の乱)、近江国瀬田の決戦に大敗し、山前の地で自ら命を絶った。皇子の首級は吉野側の将軍大伴吹負の手で不破行宮に届けられたという。
『懐風藻』巻頭に2首を残す。同書の小伝によれば、淡海帝の長子で、体格・容貌共にすぐれ、博学で文武の才に長じていた。藤原内大臣(鎌足)の息女を妾とし、親愛した。弱冠の年(20才)、太政大臣に拝され、23才の時皇太子となった。沙宅紹明ら帰化人学者を招いて賓客とした、などとある。
1870(明治3)年、即位を認められて弘文天皇と追諡された。
関連サイト:自害峰の三本杉(西濃の歴史)
弘文天皇御陵候補地(同上)
園城寺(三井寺) 大友皇子の遺子与多王の創建と伝えられる
系図へ