弓削皇子 ゆげのみこ 生年未詳〜文武三(699) 略伝

天武天皇の第九皇子(続日本紀には第六皇子とある)。母は大江皇女(天智天皇の皇女)。同母兄に長皇子がいる。
 
持統七年(693)年、兄長皇子と共に浄広弐に叙せられる。文武三年(699)七月二十一日、薨ず。万葉集に八首の歌を残す。吉野宮行幸の際、額田王に贈った歌(巻2-111)、異母姉妹の紀皇女を思った歌四首(2-/119〜122)などがある。

吉野の宮に(いでま) す時、弓削皇子の額田王贈与(おく)る歌一首

いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)御井(みゐ)の上より鳴き渡りゆく(万2-111)

【通釈】過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡ってゆきます。

【補記】「鳥」はほととぎす。「弓絃葉の御井」は吉野離宮近くにあった水汲み場。ほとりに弓絃葉が茂っていたための呼称か。額田王の和した歌は「古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾が思へるごと」。いつの吉野行幸とも知れないが、仮に持統七年(693)とすれば、弓削皇子二十代、額田王六十代半ばの贈答。

弓削皇子の御歌一首

霍公鳥(ほととぎす)無かる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも(万8-1467)

【通釈】ほととぎすのいない国があるなら行きたいものだ。その鳴き声を聞くと辛くて耐え難い。

【補記】夏雑歌。上記2-111に見えるように霍公鳥は「いにしへに恋ふる」、追想を促す鳥とされた。しかし過去へ戻ることは不可能である。それゆえにその声を聞くと「苦し」と言ったものだろう。

弓削皇子、紀皇女を(しの)ふ御歌四首

吉野川行く瀬の速みしましくも淀むことなくありこせぬかも(万2-119)

【通釈】吉野川の早瀬のように、私たちの仲も、ほんのしばらくの間でも、淀むことなくあってくれないものか。

【補記】紀皇女は天武天皇の皇女で、弓削皇子の異母姉妹。石田王の妻であったらしい(万3-424〜425)。

 

吾妹子(わぎもこ)に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花ならましを(万2-120)

【通釈】あの子に恋い焦がれてばかりいずに、いっそのこと、咲いてはすぐ散ってしまう秋萩の花であったらよかったのに。

 

夕さらば潮満ち来なむ住吉(すみのえ)の浅香の浦に玉藻刈りてな(万2-121)

【通釈】夕方になれば潮が満ちて来るだろう。住吉の浅香の浦で、今のうちに藻を刈ってしまいたい。

【補記】世間の噂にならないうちに恋人を自分のものにしたい、ということ。浅香の地名に「朝」を掛けて「夕」と対比するか。

【主な派生歌】
玉藻かるかたやいづくぞ霞たつあさかの浦の春の明ぼの(冷泉為相[新千載])

 

大船の()つる(とま)りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の子故に(万2-122)

【通釈】大船が碇泊する港に波がたゆたっているように、私の心もひどく揺れ、思い悩んで痩せてしまった。あの子は人妻であるゆえに。

【補記】「人能兒(ヒトノコ)は、多く他妻をいへり」(万葉集古義)。

弓削皇子の御歌一首

秋萩の上に置きたる白露の()かもしなまし恋ひつつあらずは(万8-1608)

【通釈】秋萩の花の上に置いた白露のように、はかなくこの世から消えてしまったほうがましだ。こんなに恋しがって苦しんでいるよりは。

【補記】秋相聞。万葉集巻十に「寄露」の題で重出。

弓削皇子、吉野に(いでま)す時の御歌一首

滝の上の三船の山にゐる雲の常にあらむと我が思はなくに(万3-242)

【通釈】吉野川の激流の上の、三船山にかかっている雲のように、いつまでもこの世にあろうと私は思わない。

【補記】春日王がこの歌に「王(おほきみ)は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」と和している。春日王の没年は文武三年(699)六月二十七日なので、それ以前の作。新勅撰集に入集。

【主な派生歌】
月かげにみがきておつる滝のうへのみふねの山は雲もかからず(伏見院)
五月雨ににごりておつる滝の上の御船の山は雲ぞかかれる(洞院公泰[新葉])


最終更新日:平成15年08月23日