後水尾院 ごみずのおのいん(ごみのお-) 慶長元年〜延宝八(1596-1680) 諱:政仁(ことひと)

後陽成天皇の第三皇子。慶長十六年(1611)、十六歳で即位。後陽成院は弟八条宮智仁親王への譲位を望み、父子の間は不和が続いた。
元和三年(1617)、後陽成院は崩御。同六年、徳川秀忠の娘和子(まさこ)を中宮とする。幕府より多大な財政援助を受ける一方、朝廷の無力化をはかる施策には反発し、寛永四年の紫衣事件が直接の原因となって、寛永六年(1629)、皇女である興子(おきこ)内親王に譲位(明正天皇)。以後、四代五十一年にわたり院政をしいた。和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の風儀の建て直しに努めた。慶安四年(1651)、落飾し法皇となる。延宝八年(1680)、老衰により崩御。八十五歳。泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られた。
和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)がある。二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。叔父智仁親王から古今伝授を受けている。
和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。

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  20首  13首  14首  12首  5首
 神祇 4首  2首  30首  計100首

世は春の民の朝けの烟より霞も四方の空に立つらん

峰つづき都に遠き山々の限りもみえてのこる雪かな

水無瀬川遠きむかしの面影も立つや霞にくるる山もと

住の江や春のしらべは松風もひとつみどりの色にかすみて

うき草のすゑより水の春風や世に吹きそめてのどけかるらん

大空をおほはん袖につつむともあまるばかりの風の梅が香

したはれて来にし心の雁ならばかへる雲路をいかでしるらん

江の南梅さきそめておそくとくみどりにつづく岸の青柳

分けみればおのがさまざま花ぞ咲くひとつ緑の野べの小草も

春の夜の真砂ぢしめる沓の音に音なき雨を庭に聞くかな

白雲に松も檜原も籠り江に初瀬の山ぞ花に明け行く

花なれや遠山かづら白妙に霞をかけて明くるひかりは

ことしげき世をもわすれてつくづくと心をわけぬ花にむかひて

長閑なる夕べの雨を光にて谷にも春の花は咲きけり

花なれや春日うつろふ山の端にあたたかげなる雪の一むら

過ぎかてにけふや暮らさん散りつもる花のうへ行く春の山みち

うしやうし花にほふえに風かよひちりきて人のこととひはせず

けふはその水上の月もめぐりあひて咲く影ふかき桃の波かな

夕ひばり我がゐる山の風はやみ吹かれてこゑの空にのみする

この夕べ花も残らぬ雨風にきほひて帰る春のさびしさ

夏来てはひとつ緑もうすくこき梢におのが色は分かれて

散る花の雪をたためる夏衣かへても春の名残やはなき

玉かきの風もよきてや神まつる卯月にかかる花のゆふしで

里まではさしもおくらぬ影なれや卯の花山のかへるさの月

うとくなるおのが鳴くねも色みえば青葉の花の山ほととぎす

常磐木に色をわかばの薄萌黄おなじ緑の中に涼しき

夏の日のけしきをかへて降る音はあられに似たる夕立の雨

俄にも波をたたへしにはたづみ乾くもやすき夕立のあと

降る雨のなごり涼しく夏山の緑につづく雲の色かな

うゑ渡す早苗の末葉しげるらし千草と共になびく夕風

名残なほ昔おぼえて見し夢の後も枕にかをる橘

とぶ蛍水の下にもありけりとおのが思ひをなぐさみやせん

鳴く蝉のこゑも木ずゑにしづまりて涼しく暮るる森の下風

色みえばこれや初しほ紅葉する秋のけしきの森の涼しさ

いつしかとけふは紅葉の秋もきぬ見しはきのふの花の都に

千々に身をわくともあかじ秋の花ひとつひとつにとまるこころは

眺めこしいくよの秋のうさならむ我とはなしの夕暮の空

世に絶えし道踏み分けていにしへのためしにもひけ望月の駒

そことなき霧のうち行く浪の音も一すじ見ゆる秋の川霧

明けぼのや山本くらく立ちこめて霧にこゑある秋の川水

水の面に吹く跡みえて山本の川風しろきなみのうき霧

河波に月のかつらのさほさして明くるもしらずうたふ舟人

浦人の夕べ暁行く舟に浪路をかへて月や見るらん

月を友といはむもやさし雲の上にすむがすむにもあらぬ我が身は

分け入れば麓にも似ず紅葉ばのふかきやふかき山路なるらん

鳴く虫のこゑも哀れやつくすらむ暮れ行く秋のけふをかぎりに

けふばかりいかでとどめん又来むはおもふに遠き秋の別れを

ちりそひて山あらはるる木の間より紅葉にかへて滝ぞ落ちくる

ふみ分くる山路にぞきく落葉して梢の風のまれになる声

みる人の袖さへこほる小夜風に落葉がのちの月のくまなき

枯るるより刈りもはらはぬ道みえて雪に跡ある野べの草むら

千種にもなほかへつべし霜がれの中に一はな咲けるなでしこ

山風や暮るるまにまに寒からしみぞれに雪の色ぞ添ひゆく

庭の面は降りもたまらで真砂のみしろき梢の今朝の初雪

みだれふす蘆間や消ゆる冬の池の波はすくなく積もるしら雪

暮ふかくかへるや遠き道ならむ笠おもげなる雪の里人

あま小舟はつ雪なれやわたつ海の波よりしろき奥津嶋山

白妙の雪こそ光れ夕狩のあかぬ日影をつきてふらなむ

声すなり夜のまに竹をうつみ火のあたりはしらぬ雪や折るらん

よしや人それにつけても思ひしらば思はむ方のよそにだにあれ

待ちいでてかへるこよひのつれなさはひとり見はつる有明の月

おのづから見ゆらんものを恨むともしらず顔なるそれも一ふし

身にそへて又や寝なまし移り香もまださながらの今朝の袂を

名残なほ逢ふと見えつる夢よりもさだかにむかふ夜半の面影

神祇

伊勢

うごきなき下つ岩根の宮柱身をたつる代々のためしならずや

寄月神祇

八百万(やほよろづ)神もさこそは守るらめ照る日の本の国津宮古を

まもれなほよに住吉の神ならば此の敷島の道のまことを

隠岐国人被遣候

隠岐の海のあらき浪風しづかにて都の南宮つくりせり

絶えせじなその神世より人の世にうけてただしき敷島の道

開きみる文にぞしるきをさまれる御代のかたみや世々の古こと

百敷や松のおもはんことのはの道をふるきにいかでかへさん

散りうせぬためしときけばふるき世にかへるを松のことのはの道

いかにして此の身ひとつをたださまし国ををさむる道はなくとも

うけつぎし身の愚かさに何の道も廃れゆくべき我が世をぞ思ふ

八月中旬の頃、中院大納言通村、武家の勘当のことありて、武州にある頃遣はさる

思ふより月日へにけり一日だに見ぬは多くの秋にやはあらぬ

 

芦原やしげらば繁れ荻薄とても道ある世にすまばこそ

曲木(まがりぎ)に柳の糸をよりかけて()ぐなる道を風にとはばや

世の中はあしまの蟹のあしまとひ横にゆくこそ道のみちなれ

みな人は上に目がつく横にゆく葦間のかにのあはれなる世や

いにしへのちぎりにかけし帯ばかり一すじしろき遠の川なみ

思ふぞよ千里の馬を尋ねてもしるらん人はさてもなき世を

ともかくもなさば成りなむ心もて此身ひとつをなげくおろかさ

おもふより遠くきぬらし旅衣分くる夏野の草たかくなる

波さわぐうきねのまくら又うきぬ都のゆめのかへる名残に

ひらけなほ文の道こそ古へにかへらん跡は今はのこらめ

見ずしらぬ昔人さへ忍ぶかなわがくらき世を思ふ余りに

人もこれ草葉もしげし野も広しつむ菜となれば雨もすくなし

みちみちの(もも)(たくみ)のしわざまでむかしに及ぶ物はまれにて

さまざまに見しよをかへす道なれや雨夜更け行くともし火の本

後鳥羽院四百年忌御追善に霞

こひつつも鳴くや四かへり百千鳥霞へだてて遠きむかしを

東福門院崩御の時、弥陀の六字を句の上に置きてあそばしける

()に事も夢の外なる世はなしと思ひしこともかきまぎれつつ

()かひゐてたださながらの俤に一ことをだにかはさぬぞうき

()け暮れにありしながらのことわざも目の前さらに見る心地して

()ぬ世まで思ひのこさずとばかりも此の一ことを何にかふべき

()れに思ひ聞きてもみても驚かぬ世をばいつまで空たのみして

()たたびはめぐりあはむもたのまれずこの世を夢の契りかなしも

一糸和尚への御返歌

うらやまし思ひ入りけむ山よりも深き心の奥のしづけさ

いかで其すめる尾上の松風にわれもうき世の夢をさまさむ

故郷にかへればかはる色もなし花も見し花山も見し山

御辞世

行き行きておもふもかなし末遠くこえし高根の峰の白雲


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成20年05月15日