藤原朝臣種継
ふじわらのあそみたねつぐ
- 生没年 737(天平9)〜785(延暦4)
- 系譜など 式家宇合の孫。清成(無官。宝亀8年没)の子。母は秦忌寸朝元の女(公卿補任)。子に仲成(母は粟田道麻呂の女)・縵麻呂(母は雁高宿禰佐美麻呂の女)・世嗣(母不詳)・山人(母は山口中宗の女)・藤生(母不詳)・薬子(母は藤原縄主の女)・湯守(井手宿禰賜姓)がいる。
- 略伝 766(天平神護2)年11月、30歳で従六位上より従五位下に越階昇叙(道鏡の法王就任に関連する叙位か)。768(神護景雲2)年2月、美作守。光仁天皇即位を経て、771(宝亀2)年閏3月、近衛員外少将に紀伊守を兼ねる。同年9月、山背守を兼ねる。山部親王が立太子し、井上内親王らが変死した翌年、774(宝亀5)年1月、従五位上に昇叙され、以後順調に昇進を重ねる。777(宝亀8)年1月、正五位下。翌年2月、左京大夫。780(宝亀11)年3月、左京大夫に下総守を兼ねる。同年12月、正五位上。781(天応1)年1月、従四位下。同年4月、桓武天皇即位に伴いさらに従四位上を特授。翌年5月、左衛士督兼近江守。782(天応2)年3月、参議。同年6月、正四位下。783(延暦2)年4月、従三位。同年7月、兼式部卿・近江按察使。784(延暦3)年1月、中納言。この頃長岡京遷都を建議し、同年5月、中納言藤原小黒麻呂と共に山背国乙訓郡長岡村に新都予定地を視察。翌6月、造長岡京使。遷都経営を推進し、同年12月、その功により正三位。桓武天皇の信任厚く、この頃内外の一切を取りしきったという(続紀薨伝)。785(延暦4)年9月、天皇行幸の際長岡京留守司。同月23日夜、松明を掲げて造営工事を検分中、矢を射られて傷を負い、翌24日、自邸に薨ず。時に中納言正三位兼式部卿、49歳。暗殺犯として近衛府の兵士伯耆桴麿と中衛府の兵士牡鹿木積麿が捉えられ、大伴真麻呂・佐伯高成らの共謀を自白。大伴継人らは家持を暗殺の主謀者とし、早良親王の関与を証言した。天皇は種継の死を甚だ悼惜し、正一位左大臣を追贈する。809(大同4)年4月、さらに太政大臣を追贈される(公卿補任)。なお種継の暗殺事件は『日本霊異記』下38にも見え、9月15日に月光が消え失せた異変(月蝕か)を種継の死の表相とし、また暗殺のあった場所を長岡宮の嶋町(朝堂院の西側にあった住宅街かという)としている。
系図へ|表紙へ