秦忌寸朝元
はだのいみきちょうげん
- 生没年 未詳
- 系譜など 僧弁正の子(『懐風藻』)。母は唐の女性か。兄に朝慶がいる。『尊卑分脈』によれば、女子は藤原綱手(広嗣の弟)に娶られ、菅継をもうけた。また『公卿補任』は、藤原種継の母を「従五位下秦朝元之女」とする。なお秦氏は秦の始皇帝の末裔をなのる渡来系氏族で、『日本書紀』によれば、応神天皇十四年、始皇帝の子孫である弓月君が百二十県の百姓を率いて来朝したという。絹・綿・糸などの生産に従事する多くの部民を従え、山背国葛野郡に本拠を置いて強大な経済力を築いた。
- 略伝 父弁正は702(大宝2)年の遣唐使に伴って入唐し、在唐中に朝慶・朝元の二子をもうけた。父と兄は唐で死去するが、朝元はおそらく718(養老2)年の遣唐使と共に帰朝し、719(養老3)年4月、忌寸を賜姓された。721(養老5)年1月、医術の師範にふさわしい人物として褒賞を受けた。この時従六位下。730(天平2)年3月、通訳養成の任を命じられ、弟子を与えられた。翌年1月、外従五位上に昇叙。733(天平5)年、第九次遣唐使の判官として入唐、玄宗皇帝より父の縁故を以て厚遇されたという。735(天平7)年に帰国して外従五位上に昇叙される。737(天平9)年、図書頭。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席するが、応詔歌は残らず(万葉巻17)。同年3月、主計頭。
『懐風藻』に父弁正の小伝が載り、朝元についても記述がある。
表紙へ