道鏡
どうきょう
- 生没年 ?〜772(宝亀3)
- 系譜など 河内国若江郡の出、俗姓は弓削連。物部弓削大連守屋を遠い祖先とする。天智天皇の孫で志貴皇子の子とする伝もあるが、信じ難い。志貴皇子と物部大臣(石上麻呂)の女との間の子とする説もある(喜田貞吉)。
- 略伝 『七大寺年表』によれば、葛城山に篭もって如意輪法を修行し、また密教の宿曜秘法(一種の占星術)を習得したという。また義淵の弟子ともあり、若年の頃、晩年の義淵に法相宗を学んだか。『続日本紀』没伝には「梵語(サンスクリット)にほぼ通暁し、禅行(当時は気功術などを含む「超能力」を指したと思われる)で有名となる」旨ある。
747(天平19)年6月、東大寺写経所の請経使として良弁の元に赴く(史料上の初見)。
753(天平勝宝5)年、看病禅師として内道場に供奉する。
761(天平宝字5)年10.13、保良宮行幸の際、孝謙上皇の看病に当たり、呪法を用いて平癒させる。以後、上皇の寵幸を得る。
翌宝字6年6.3、孝謙上皇は淳仁天皇の非礼を非難し、出家を宣言。上皇対押勝の主導権争いが激化。この背後に道鏡への寵愛があったことは『続日本紀』の道鏡没伝にも明記されている。
宝字7年5.6、鑑真の物化により仏教界での押勝の勢力は衰退し、同年9.4、上皇は詔を発して押勝派の少僧都慈訓を解任、衆議により道鏡を少僧都に任ずる。この後、押勝の支配下にあった造東大寺司にも道鏡の勢力が浸透した。
764(天平宝字8)年7.6、上皇は道鏡の弟弓削連浄人に弓削宿禰を賜姓。同年9月、押勝は道鏡が先祖の物部弓削守屋大臣の位と名を継ぐことを謀っていると上皇に告げ、道鏡を退けるよう進言するが、この直後、上皇は押勝の謀反が明確となったとして駅鈴・内印の回収を命ずる。押勝は近江に逃れ、琵琶湖で斬殺される。同月20日、藤原蔵下麻呂ら押勝征討軍が京に凱旋した日、孝謙上皇より大臣禅師に任ぜられる。「俗務を以て煩」わさずとあり、議政官の職務には当たらせない意向を表明。表向きはあくまで僧位としての「大臣」であった。同年10月、淳仁天皇を廃し、上皇が再祚(称徳天皇)。
765(天平神護1)年8月、皇太子候補の一人であった和気王(舎人親王の孫、御原王の子、淳仁廃帝の甥)を謀反の嫌疑で排除した後、閏10月、太政大臣禅師に任ぜられ、百官の拝賀を受ける。
翌天平神護2年7月、弟子の円興を大僧都に任命。同年10.20、隅寺(海竜王寺)の毘沙門天像より舎利が出現し、これを機に法王に任ぜられる。法王の地位は仏教の教主としての天皇と皇太子堅国を兼ねるものであり、待遇は天皇に准ぜられた。さらに円興を法臣として法王職を扶翼させ、また其真を法参議・大律師とし、周囲を腹心の僧たちで固めた。以後、「政の巨細に決を取らずといふことなし」(続紀没伝)。
天平神護3年3.20、法王宮職が設置され、高麗福信が大夫を兼ねた。
768(神護景雲2)年2月、弟の弓削浄人が大納言に就任。「一門の五位の者、男女十人あり」(続紀没伝)。
神護景雲3年1.3、西宮の前殿で大臣以下の新年の拝賀を受け、自ら寿詞を告す。1.7、天皇、法王宮に出御、五位以上と宴を催す。道鏡、官人らに摺衣各1領を与える。同年7月頃、大宰府の主神習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として道鏡を皇位につけるべきことを奏上。道鏡はこれを信じ、自ら皇位に就くことを望んだ(続紀没伝)。天皇は夢に八幡神の使より側近の尼僧法均を召すよう請われるが、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして弟の和気清麻呂(近衛将監兼美濃大掾)を召し、姉に代り宇佐八幡の神託を伺うことを命じた。
清麻呂は天皇の勅使として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宣(ねぎ)辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を聞くことを拒む。清麻呂は女身が仏神の教勅を奉る例がないとして不審を表明し、与曽女は神に顕現を願うと、御宝殿が動揺し、御殿の上に紫雲たなびき、満月の輪のごとき光の中に僧形の大神が出現。身の丈三丈(約9メートル)。大神は再度宣命を受けることを拒絶するが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託(「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」など)を記録し、その一部を朝廷に持ち帰ったという(『八幡宇佐御託宣集』)。この報告を聞いた上皇は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅に流した。
770(神護景雲4)年3.15、称徳天皇不豫。『続日本紀』は石の祟りとするが、『日本紀略』に引く藤原百川伝によれば「朝を視ざること百余日」道鏡との性交に耽り、陽物が抜けなくなったためという。また『水鏡』によれば河内大夫雄田麻呂(百川)が盛った毒によるという。天皇は4.6、平城宮に還御するが、体調不良が続き、親政なく、従三位典蔵吉備由利(真備の親族か)のみが臥処内に出入りして伝奏にあたる。郡臣は謁見を許されず、道鏡も遠ざけられたらしい。8.4、西宮の寝殿にて称徳天皇崩ず(53歳)。白壁王が立太子。8.17、天皇を高野山陵に葬る。道鏡は山陵のほとりに庵してこれを守る。同月21日、坂上苅田麻呂の告言により、帝位を狙う陰謀の罪で造下野国薬師寺別当に左遷される。
772(宝亀3)年4.7、下野国より道鏡死去の報が届く。庶人として葬る。
栃木県河内郡南河内町の龍興寺境内にある小円丘は弓削道鏡の塚と伝わる。
関連サイト:弓削神社(愛媛県弓削島)
弓削神宮
弓削道鏡(八尾市立図書館)
宇佐八幡宮(九州観光案内)
系図へ|表紙へ