難波(なにわ)

...敷きませる難波の宮は 聞こしをす四方(よも)の国より
たてまつる御調(みつき)の船は 堀江より水脈(みを)びきしつつ
朝凪に楫(かぢ)引きのぼり 夕潮に棹さしくだり
...
(訳)...君臨されている難波の宮では、統治する四方の国から、献上する貢ぎ物を載せた舟が、堀江を水先案内されつつ、朝凪の時には楫を引き寄せて遡り、夕潮の時には棹を下ろしてくだり...
難波宮址
後期難波宮大極殿趾

天平勝宝7歳(755年)2月、兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)であった大伴家持は、防人交替の事務のため難波に派遣されました。東国から徴集された防人たちは、難波で検校を受けたのち、船で筑紫へ向かうことになっていたのです。家持はこの際、各国の防人部領使(さきもりのことりづかい)に命じて防人たちに歌を進上させました。こうして、100余首に及ぶ防人歌が万葉集の末尾に異彩を放つこととなりました。

防人歌に霊感を得た家持は、自らも防人たちの悲しみを主題とした長短歌を次々と創作しますが、同じ頃、「私の拙懐を陳ぶる」と題した難波宮讃歌(巻二十 4360)を詠んでいます。

...白波の八重折るが上に 海人小舟(あまをぶね)はららに浮きて
大御食(おほみけ)に仕へまつると をちこちに漁(あさ)り釣りけり
そきだくもおぎろなきかも こきばくもゆたけきかも
ここ見ればうべし神代ゆ 始めけらしも
(巻二十 4360)
(訳)...白波が幾重にも折り重なる上に、漁師の小船が点々と浮かんで、天皇のお食事にご奉仕申し上げようと、あちこちで魚を漁り、釣りしている。なんと広大であることか、なんと豊饒であることか。これを見れば、なるほど、神代からここ難波に宮を営まれたのも尤もだと思われるのである。
難波宮周辺図

難波宮は今で言えば大坂市の中央部、お城の南側にあたりますが、当時は宮の間近まで大阪湾が迫っていました。しかも大阪平野には広大な入江が広がり、大小無数の島々が浮かんでいたと言われています。岬状に突き出た上町台地の北端に位置する難波宮は、ちょうど外海と内海との出入口を占め、歌にあるように、宮からは広大な海原が眼下に収められたことでしょう(左図参照)

このような地理的条件から、古来難波は畿内と西国諸国とを結ぶ交易の中心として繁栄してきたのです。仁徳天皇の高津宮を始めとして、欽明朝の祝津宮(はふりつのみや)、孝徳朝の長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)、天武朝の副都難波京と、朝廷中心の政治を強力に推し進めた英主は常に難波の経営に意を注ぎましたが、これは豪族による私的な貿易支配を解体し、その権益を朝廷に集中することを意図したものだったと思われます。そして聖武天皇こそは、そのような古代君主の最後の存在でした。

桜花いま盛りなり難波の海おしてる宮に聞こしめすなへ(巻二十 4361)
(訳)桜は今が花盛りである。海が一面に照り輝き、眩いばかりの難波宮で天下をお治めになる折とて。
海原(うなはら)のゆたけき見つつ蘆が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ(巻二十 4362)
(訳)海原の豊饒広大なさまを見つつ、ここ難波の地で一年を過ごしたいものだ。

難波宮図

聖武天皇は即位翌年の神亀2年(725年)、難波に行幸し、翌年10月、藤原宇合を知造宮事に任命して、難波宮復興を掲げられました。曾祖父天武天皇のご遺志を受け継ぎ、副都としての機構を整えることを目指されたものでした。8年後の天平6年(734)9月には難波京の宅地を班給する記事が続日本紀に見え、この頃までに宮もほぼ完成したと考えられています。聖武天皇治世26年間に難波行幸は8度の多きを数え(注1)、天平16年には、一時的とは言え難波京遷都さえ行われました。

難波はまた大伴氏にとっても縁の深い土地です。6世紀前半の大連(おおむらじ)大伴金村は住吉(すみのえ)に自宅を持ったと日本書紀にあり、また万葉集には「大伴の御津の浜」という句があるように(巻五 895など)、大伴氏全盛時代の本拠地は難波に外なりませんでした。家持が難波を誉め讃えたのは、何よりも宮を造営した聖武天皇(作歌当時、正しくは太上天皇)に対する讃仰であったでしょうが、そこには歴代天皇に仕えてきた氏族の父祖たちに対する追懐の情が籠められているようにも思えます。(図は難波京推定領域)

館の門に在りて江南の美女を見て作る歌一首
見わたせば向かつ峯(を)の上(へ)の花にほひ照りて立てるは愛(は)しき誰(た)が妻(巻二十 4397)
(訳)見渡せば、向うの岡の斜面には桜が咲き誇り、花に照り映えて美しい人が立っている―あれは誰のいとしい妻であろうか。

題詞の「江南」は、難波堀江以南の地(上町台地一帯)を中国風に言ったものであろうとされています。一首は、六朝時代の詞華集『玉台新詠』に見える、

 江南二月の春
 東風緑蘋(りょくひん)を転ず
 知らず誰が家の子ぞ
 花を看る桃李の津

を念頭に置いたものかと言います。(注2)

いかにも家持好みの艷麗な六朝趣味に溢れた歌ですが、実際難波には多くの渡来人が住み、大陸の影響濃い文化が花開いていました。

このような難波の繁栄の基礎を築いたのが、5世紀後半から6世紀初頭頃に開通したとされる難波堀江です。上町台地の北端を掘削し、大阪平野を満たしていた潟湖の水を大阪湾へ落とすという大工事でしたが、前方後円墳を築造する当時の高度な技術を以てすれば、不可能事ではありませんでした(日本書紀はこの業績を仁徳天皇に帰しています)。堀江開通によって洪水は激減し、交通の便は飛躍的な向上を遂げました。

難波堀江
難波堀江(現大川) 天満橋付近
堀江より水脈(みを)さかのぼる梶の音の間(ま)なくぞ奈良は恋しかりける(巻二十 4461)
(訳)堀江から水脈を遡って行く船の楫音のように、絶えず奈良が恋しく思われることだ。

これは、「江辺にして作る」と注された3首のうちの1首。防人検校が行われた翌年、天平勝宝8歳2月下旬、家持が河内・難波行幸に従駕して再び難波を訪れた、その時の作です。

続日本紀によれば、この時聖武太上天皇・孝謙天皇は河内智識寺の南の行宮を御在所とし、智識寺を巡礼されています。前年東大寺大仏の鋳掛けが完了しており、おそらく大仏発願の契機となった智識寺の盧舎那仏に対し、この事を報告感謝するための行幸だったと推測されます。

3月1日、太上天皇は堀江に行幸され、おそらく家持の歌もその前後に詠まれたものでしょう。

難波堀江
難波堀江 中之島方面を望む

翌2日、河内・摂津両国田租免除の記事の後、続紀は一月半近い空白を置いて、4月14日太上天皇の不豫(重態)を伝えています。上皇が平城に還御されたのは、3日後の17日。看病僧らによる必死の祈祷がなされましたが、それも実らず、5月2日、聖武太上天皇は寝殿に崩御されました。宝算五十六。同日、遺詔により道祖王(ふなどのみこ新田部親王の子)が皇太子に立てられました。

結果論とは言え、聖武天皇が最後の行幸先に選ばれたのは、やはり難波の地だったのでした。

(注1)続紀には7回しか見えないが、万葉集巻六の950番歌題詞によれば、神亀5年(728年)にも難波行幸があったと知れる。
(注2)山口博『万葉集の誕生と大陸文化』(角川選書)。
(注3)作図は直木孝次郎編『古代を考える 難波』(吉川弘文館)・小笠原好彦『難波京の風景』(文英堂)などを参考とした。



高円山へゆく

壮年期にもどる 「アルバム」冒頭にもどる