家持の壮年期(ここでは三十代末から五十代初めまでを取りあえずそう呼びます)は、そのまま不遇の時代と言い換えても良いようなものでした。ことに橘奈良麻呂の乱後は、地方官を転々とする生活を送ることになります。ここでは奈良麻呂の乱前後に焦点をあて、その頃の家持の政治的な動向を概観します。
天平勝宝6年(西暦754年)4月5日、家持は少納言から兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)に転任しました。時に37歳。兵部省は六位以下の武官の考課・選叙、及び兵事一切を掌る役所で、少輔は少納言と同じく従五位下相当の官です。決して栄転と言えるものではありませんが、新羅・渤海との関係が悪化していた当時、武門の家大伴氏の嫡子として兵事面での活躍が期待されたものかと思われます。
実際家持は、この年冬巡察使として山陰道に旅立ち、翌天平勝宝7歳2月には東国防人の検校のため難波に派遣されるなど、軍事上の重い任務を委ねられています。難波では防人歌を収集し、また自ら防人の身に成り代わった長短歌を次々と創作するなど、歌作活動もやや活発化しました。
|
聖武太上天皇のご病状はいよいよ切迫し、勝宝7歳10月には上皇不豫に伴う大赦の詔が出されています。翌月になっても上皇の御病は癒えませんでしたが、この頃橘諸兄が酒席において上皇に無礼な言辞を吐き謀反を口走ったとの密告が朝廷にもたらされました。病床の上皇はこれをお聴きになっても咎めようとはされませんでしたが、このことを知った諸兄は翌年早々致仕を余儀なくされます。
勝宝8歳2月末、上皇はご病気を押して難波行幸に出発されました。河内の智識寺の近くを御在所としていることから、大仏完成を報告感謝するための行幸であったかと思われます。家持も随行し、難波堀江で歌を残しています。
結局この行幸は聖武上皇最後の旅となりました。難波滞在中に上皇は再び体調を崩され、4月14日、大赦の勅が出されます。
聖体不豫を知った兵部卿橘奈良麻呂は、藤原氏による新しい天皇の擁立に危機感を抱き、陸奥介佐伯全成・左大弁大伴古麻呂を誘って黄文王(長屋王と藤原不比等の女長娥子との子。安宿王の弟)を立てる謀反の計画を告げますが、協力は拒絶されました。
5月2日、聖武上皇は平城京で崩御(56歳)、同日、上皇の遺詔として中務卿道祖(ふなど)王が皇太子に立てられました。
|
初七日の2日後、5月10日には、早くもきな臭い事件が起きます。上皇崩御の直後出雲守に左遷された大伴古慈斐と内竪淡海三船の二人が、朝廷を誹謗した廉で衛士府に禁固されたのです(3日後には赦免)。『続日本紀』はこの事件を仲麻呂による誹謗としていますが、家持は淡海三船の讒言に古慈悲が連座した(または陥れられた)と見たらしく、翌6月、「族(うから)に喩(さと)す歌」を作って大伴氏族に対しその栄誉を保守することを諭すと共に軽挙妄動を戒めました。家持の政治信条はあくまでも天皇に「赤き心」で忠誠を尽くすことであり、おそらく奈良麻呂による謀反計画の再三の誘いに対する戒めをもこの歌に込めたのではないかと推察されます。
剣大刀(つるぎたち)いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(巻二十 4467)
右、淡海真人三船の讒言に縁り、出雲守大伴古慈斐(こしび)宿禰解任せらる。是を以ちて家持此の歌を作る(訳)剣大刀を研ぐように、大伴の名をさらに明澄に磨ぎ澄ますべきである。遥かな過去から、きわやかに負ってきたその名であるぞ。
ところでこの歌を作った時、家持は病に臥していたと自ら書いています。諸兄の引退に続く上皇の崩御から受けた衝撃は、彼の肉体をもしたたかに痛めつけたのでしょうか。「族に喩す歌」を作ったのと同じ日に、「無常を悲しび修道を欲する」歌2首、「寿(いのち)を願う」歌1首を作っています。
勝宝9歳の年が明けて間もなく、橘諸兄は上皇の後を追うように世を去りました。
上皇と諸兄という二つの「目の上の瘤」が取れた大納言藤原仲麻呂は、この頃から己の権威を皇族並に高めるための画策を始めました。即ち1月9日には臣下の身でありながら皇親である石津王を養子とし、3月には「藤原」「君子」の字を同時に避諱させたのです。己れの一族を皇族と同格に扱えと宣言したようなものであり、橘氏を始めとする皇親系氏族や大伴氏など旧豪族の神経を逆撫でする行為でした。もっとも、この頃の家持に反仲麻呂的な言動の跡は全く見られません。それどころか彼は、のち奈良麻呂の謀反を密告し藤原氏に改姓する山背王の歌に追和したり、大原今城宅の宴で今城の伝誦する仲麻呂の子執弓の歌を記録したりしています。
3月29日、孝謙天皇は群臣を召して道祖王の廃太子をお問いになりました。聖武上皇の諒闇中に侍童と通じ、また朝廷の機密を外に持ち出した、というのがその表立った理由でした。右大臣豊成以下は敢えて反対せず、直ちに道祖皇太子は廃されて東宮より帰宅を命じられました。
翌4月、天皇は再び群臣を召し、立太子の件を諮問されました。塩焼王・池田王の名が上がりますが、仲麻呂一人は天皇の御意向に従うとだけ申し上げ、天皇はこれを受けて舎人親王の第七子大炊王の名を挙げられ、諸卿はこれに反対する術もありませんでした。大炊王は仲麻呂の婿「のようなもの」(正確には、夭折した長男真従(まより)の未亡人粟田諸姉の夫)であり、田村第に居住して仲麻呂の完全な影響下にある人物でした。全ては仲麻呂の思惑通り運んだのです。
5月、平城宮改修工事のため孝謙天皇は田村第に移られ、仲麻呂は紫微内相に就いて衛府と諸国軍団の軍事権を掌握しました。
6月16日、奈良麻呂は兵部卿を解任され右大弁となり、代わって仲麻呂に近かったと思われる石川年足が就任、家持は兵部大輔に昇進しました。古麻呂は左大弁に陸奥鎮守将軍・陸奥按察使を兼任し、陸奥への出発準備を急がされました。
この頃から奈良麻呂は謀反計画の実現に向けて活発な動きを見せ始め、自邸や宮中の庭でたびたび密かな会合をもちました。29日夕には太政官院の庭(下図参照)に20名ほどが集まり、遂に挙兵の日取りを決します。7月2日の夜、秦氏らの精兵400名を率いて田村宮を囲み、仲麻呂を殺害し皇太子を退け、皇太后宮を占拠して駅鈴・御璽を奪う――というのがその計画の内容でした。この際、すでに陸奥へ向け旅立っているはずの古麻呂が美濃関を塞ぐ手筈でした。謀反が成功した暁には、孝謙天皇を廃し、安宿・黄文・道祖・塩焼の四王から新しい天皇を選ぶ予定であったといいます。塩汁を啜って決起を誓い合った一味の中には、家持の親友であった大伴池主も含まれていました。
家持はこれら謀議に一切加わりませんでした。
|
6月末に至って、謀反の密告が仲麻呂のもとに齋されました。挙兵計画の当日、7月2日になると、孝謙天皇は詔を出し、すでに謀反が発覚していることを知らしめ、事を起こせば断固たる処置を取る旨通達されました。
この日の未の時(午後2時頃)、仲麻呂は挙兵が目前に迫っているとの情報を得、直ちに内外の諸門を警固させると共に、使を派遣して奈良麻呂の与党小野東人らを追補し、また兵を起こして右京の道祖王宅を囲ませました。謀反は挙兵直前になって頓挫したのです。
7月4日、中納言藤原永手らが派遣されて捕縛者の尋問がなされ、小野東人は三度にわたる謀議と、四王・奈良麻呂・大伴氏数名・多治比氏数名などの関与を証言しました。他の容疑者の証言もほぼ一致し、全員が獄舎に下されました。さらに百済王敬福・船王らが派遣され、兵士を率いて獄囚を警固し、拷問が続けられました(律令では、自白を得られぬ時は訊杖による拷問が認められていました。囚人は手枷足枷をされた上、尻と背中に長さ三尺五寸の杖を受けました)。
拷問の結果、黄文王・道祖王・古麻呂らが次々と命を落としました。安宿王は佐渡に配流、大伴古慈悲は土佐に配流。佐伯全成は陸奥国で訊問を受け、三度にわたる奈良麻呂からの謀反勧誘を証言した後、自ら首を括って死にました。右大臣藤原豊成は大宰員外帥に左遷。ひとり塩焼王のみは、父新田部親王の功績を理由に罪を免じられています。
家持が奈良麻呂の乱において何の咎めも受けなかったのは、その境遇からして一見奇跡のようにも見えます。諸兄・奈良麻呂や池主との交際、母の出身と推測される多治比氏との関係、婿である藤原継縄との繋がりなどから、家持が謀反の企てを知らなかったとは考えにくいことです。
その後の境遇を見ても政治的な「立ち回り」の才覚に長けていたとは到底思えない家持が、極めて危うい立場にあって連座を免れ得たのは何故でしょうか。謀反参加の勧誘を受け、その話を聞いただけの者に対してさえ、厳しい追及が行われた状況下にあったにも関わらず。
私にはその答は二つしか思い浮かびません。
一、家持に対しては謀反の勧誘はなされなかった。
二、家持は事前に謀反の動きを察知し、勧誘に対しては毅然と拒絶する態度を一貫して取り続けた(その種の話には耳を藉そうともしなかった)。
私は家持が巌のような確固たる信念を貫いて微動だにしなかった、とは思いません。氏族や知友の多くが謀反へ走る中で、やはり家持の苦悩は深かったでしょう。しかし、家持は然るべき時が来るまで自重に自重を重ね、仲麻呂の横暴に対しても恬淡たる態度を取り続けました。
所詮、仲麻呂もまた天皇と皇太后の権威のもとで、その寵愛を得てのぼせ上がっている一人の権臣に過ぎないではないか――家持の目にはそう見えていたに違いないと私は思っています。それは何も、仲麻呂の悲惨な末期を知っている後世人の立場から言うわけではありません。乱の前後、家持は「物色変化を悲しび怜(あはれ)びて作る」と題した、次のような歌を作っているのです。
咲く花はうつろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり(巻二十 4484)
一時の栄華はむなしい、と家持は詠みました。栄達を求めて志操を曲げることを拒絶し、不遇の時代をも忍んで生き延びようとの静かな決意が感じられる歌です。
続いて同年11月には、内裏の宴で勝利者たちが詠んだ歌を記録しています。
天地(あめつち)を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ(巻二十 4486 皇太子大炊王)
(訳)天地を照らす太陽と月のように、皇位は無窮であるべきものを、何の物思いをしようか。
いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は(巻二十 4487 紫微内相藤原仲麻呂)
(訳)おい、皆の者どもよ、たわけたことはするでないぞ。天地の神々が造り固めた国土であるぞ、この大和の島は。
「咲く花は…」の歌のすぐ後にこれらの歌を置いたことに、家持のひそかなる悪意を読み取るべきでしょうか。いや、私にはむしろ、このような歌さえ自分の歌日誌に記すことを厭わなかった、家持の淡々たる心境にこそ目を瞠らざるを得ないのですが。
|
乱の後、家持は兵部大輔から右中弁に転任しました。本来なら行政執行の中枢を担う正五位上相当の要職ですが、すっかり弱体化していた太政官の弁官は、文書行政の雑務に追われるだけのポストに成り下がっていたと思われ、決して喜ばしい官職ではなかったはずです。
翌天平宝字2年6月16日、家持はさらに因幡守に遷任されました。因幡国の等級は上国、守は従五位下相当です。前職の右中弁(正五位上相当)と比べれば、左降とも言える人事でしょう。しかし家持が落胆を重ねたとは思えません。すでに彼は大いなるものを手にし、自らそのことを確信するに至っていたはずだからです。