巨勢朝臣奈弖麻呂
こせのあそみなでまろ
- 生没年 670(天智9)〜753(天平勝宝5)
- 系譜など 近江朝の御史大夫比等の子。大伴田主の母巨勢郎女は姉妹。
- 略伝 672(天武1)年7月に壬申の乱が勃発した際、父巨勢比等は近江方の将軍であった。同年8月、戦に敗れた近江朝重臣に処罰が下され、比等及びその子孫は配流に処せられた。当時3歳の奈弖麻呂もこの時家族と共に流刑地に下ったと思われる。追放処分がいつ解除されたのか不明であるが、729(神亀6)年3月、60歳の時に正六位上より外従五位下に叙せられている。以後は順調に昇進し、731(天平3)年1月、従五位下。736(天平8)年1月、正五位下。737(天平9)年9月、従四位下。739(天平11)年4月、参議に就任(兼民部卿・春宮大夫)。741(天平13)年閏3月、従四位上。同年7月、左大弁・神祇伯を兼ね、正四位上に昇叙。同年9月、智努王と共に恭仁京造宮卿に任じられる。742(天平14)年2.1、皇后宮で宴があった日、従三位に叙せられる。同年8月末から9月初にかけての紫香楽宮行幸の際は鈴鹿王・紀飯麻呂と共に恭仁京留守官。743(天平15)年5.5、藤原豊成と共に中納言に就任。同年7月の紫香楽宮行幸の際、左大臣橘諸兄らと共に恭仁京留守官。744(天平16)年閏1月、藤原仲麻呂と共に市に派遣され、市人に定京のことを問う。745(天平17)年8月、難波宮行幸の際、豊成と共に恭仁京留守官。同年9月、久しく訴訟の対象となっていた巨勢氏の奴婢200余名につき訴えを停め、良民化を奏して許された。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席、応詔歌を詠むが記録されず(万葉巻17)。同年4月、鎮撫使が再置された時、北陸・山陰道鎮撫使に任じられる。748(天平20)年2月、正三位。749(天平21)年4月、東大寺行幸に際し、従二位大納言に昇る。751(天平勝宝3)年2月、雀部朝臣真人が、安閑天皇の代に大臣となった祖先の男人が誤って巨勢男人と記されたことを訴え、改めて雀部大臣と称することを請うた時、奈弖麻呂も自らそのことを証明し、雀部真人の訴えは認められた。752(天平勝宝4)年4.9、大仏開眼の日、東宮留守官(『東大寺要録』)。11.25、新嘗会の肆宴で応詔歌を詠む(19/4273)。753(天平勝宝5)年3.30、薨ず。時に大納言従二位神祇伯造宮卿。『公卿補任』によれば薨年84歳。
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