恭仁京 その2

活道 和束

天平16年(西暦744年)から17年にかけては、国政にとって決定的なターニングポイントとなる2年間でした。この間に宮都は目まぐるしく転変し、橘諸兄を主導とする遷都計画はことごとく失敗に帰してしまいます。そして政界の主導権は、しだいに藤原仲麻呂の手へと移ってゆくことになります。

同時に、万葉歌の収集には深い断絶が訪れます。天平17年という空白の一年を挟んで、以後の万葉集は家持周辺の個人的な記録に収斂されてゆくのです。万葉末4巻のいわゆる「家持歌日記」がそれです。万葉集にとっても、この2年の間に何か決定的な事件が起こったに相違ありません。

さて、天平16年閏1月1日、聖武天皇は朝堂に官人を集め、恭仁・難波の何れを都とすべきかお問いになりました。前年末、恭仁宮の建設が中止されたため、古来の副都として機構の整っていた難波京への遷都が議題に上っていたのでしょう。投票の結果は、わずかに恭仁京が上回ったものの、ほぼ互角でした。結論の出ないまま、十日後には難波行幸が敢行されます。

閏1月11日、難波宮に向けて車駕は出発しましたが、途中安積親王(あさかのみこ)が「脚病」を発して桜井頓宮より恭仁京に帰還し、2日後に急死するという事件が起こります。親王は当時17歳、在世する唯一の聖武天皇皇子であり、母は諸兄と縁戚のある県犬養氏の出身でした。家持にとっては、大伴氏の将来を一身に託す主君でした。家持は2月から3月にかけて悲壮な挽歌をなしています。

安積親王墓
安積親王の和束墓 京都府相楽郡和束町

親王の死は、一説に恭仁京の留守官をしていた藤原仲麻呂による謀殺とされています。真相は闇の中ですが、いずれにしても、光明皇后と皇太子阿倍内親王を推し立てる藤原氏にとっては、最も大きな障害が取り除かれたことになります。

2月20日、恭仁京の高御座・大楯・兵器が難波宮に運ばれ、既に難波遷都が決せられたことが窺われます。ところが24日、天皇は難波を去り、再び紫香楽へと向かわれました。以後聖武天皇は大仏造立に没頭し、翌年5月まで紫香楽宮に滞留されることになります。

一方、元正太上天皇と左大臣橘諸兄は難波に留まり、26日、諸兄がこの地を皇都とする勅を伝えました。もはや財政的に恭仁京の維持は不可能であり、自ら唱導した新京を放棄せざるを得なかったのです。諸兄にとっては辛い宣伝だったに違いありません。

11月13日、紫香楽の甲賀寺に大仏像の体骨柱が建てられ、天皇自ら縄を引かれました。17日には元正上皇が難波より紫香楽宮に到着され、ここにようやく国政二分の危機は解消されました。大仏造立にかける聖武天皇のご執念には、上皇も諸兄も折れるほかなかったのでしょう。

天平17年の年が明けると、紫香楽宮への遷都が宣言されました。おそらく、難波を王法の都とし、紫香楽を仏法の都としてその上に位置づける、という構想があったものと思われます。この直後には行基が大僧正に任命されており、紫香楽遷都に果たした行基の役割の大きさが窺われます。

1月7日、紫香楽宮の大安殿で宴が催され、この時家持は従五位下に叙されています。28歳の若さで、大夫の一員に仲間入りしたのでした。

甲賀寺址
甲賀寺金堂跡 滋賀県甲賀郡信楽町黄瀬 (注)

ところが、この年夏頃から異変が続発します。一昨年以来の大旱魃が起こり、秋の稔りは絶望的になりました。極度の乾燥と強い日射しから、紫香楽宮周辺の山では火災が頻発します。さらに追い打ちをかけるように、4月末には美濃を中心に大地震が起こりました。山火事は消えず、余震は紫香楽を揺るがし続けました。続日本紀は「是の月(注:5月)、地震(なゐ)ふること常に異なり。往往圻(ひら)き裂けて水泉湧き出づ」と記録しています。

ついに5月5日、聖武天皇は紫香楽を捨てて恭仁京へ向かい、さらに11日には奈良旧京に戻られました。民衆も競って平城を目指し、その行列は昼夜途切れることなく続いたといいます。

紫香楽での一連の火災は、異常な気象条件下での自然災害とも考えられますが(当年の続日本紀は旱魃と雨乞いを報じています)、山林の管掌に当たった民部省の長が藤原仲麻呂であったことを考えれば、平城への還都を謀る一部官人による放火と見る説も捨てきれない気がします。

災異の収まった秋8月、聖武天皇は再び難波宮へ行幸されており、なお遷都は流動的な状況にあったと思われます。しかし難波に到着された天皇は御病に倒れ、翌9月には平城京に還御、年末には恭仁京の兵器が平城に運ばれ、還都が確定するに至ります。恭仁京遷都から5年、都は彷徨の末、とうとう平城の旧都に帰着したのでした。

(注)従来、この地が紫香楽宮跡とされていましたが、1983年から始まった宮町遺跡の発掘調査により、誤りであった可能性が高くなりました。

活 道 ―いくじ―


活道(いくぢ)の岡に登り、一株の松の下に集ひて飲(うたげ)する歌二首
 一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも(巻六 1042)
右一首、市原王作る
(訳)一本松よ、あなたはどれほどの時代を経て来たのであろう。梢をわたって吹く風の音がこれほど清らかなのは、あなたが遥か遠い昔から齢(よわい)を重ねて来たからなのであろう。

 たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(巻六 1043)
右一首、大伴宿禰家持作る
(訳)命の長さは知らぬ、ただこうして松の枝を結ぶ我らの心は、遠く永く続かんことを願う。

活道岡

「活道の岡」は、恭仁京近辺で、安積親王の宮があったという意外、詳らかではありません。上は、天平16年1月11日、友人の市原王と連れ立ってその丘に登り、宴を張った時の作です。おそらく安積親王邸での新年拝賀の折にでも、親しい仲間内で二次会を開いたものでしょうか。

家持の歌の「松が枝(え)を結ぶ」とは、生命の安全や長寿を祈るまじないの一種。松の枝と枝を引き寄せて、紐か何かで結び合わせることを言うのでしょう。「魂(たま)結び」「玉の緒」という言葉があるように、当時、生命とは魂が身体に紐のように結びつけられた状態であるとの観念があり、結ぶという行為そのものに呪性が認められていました。常緑樹はめでたい木とされ、なかでも松は長命な樹木とされたので、これを結ぶことは殊に効験があると考えられたのです。

いずれも有間皇子の結び松の故事に因んだ歌と思われ、安積親王の長寿への祈りを籠めたものとも言われています。

和束町白栖の親王墓に近く、活道ヶ丘公園が造られ、下の家持の挽歌が彫られています。



和 束 ―わづか―


十六年春二月、安積皇子(あさかのみこ)(かむあが)りましし時、内舎人大伴宿禰家持の作る歌
 我が大君天(あめ)知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束そま山(巻三 0476)
(訳)我が主君がそこで天界を支配なされようとは(そこに埋葬されようとは)思いもしなかったので、おろそかに見て過ごしてきたことだ、この和束の杣山を。

 あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬる如き我が大君かも(巻三 0477)
(訳)山全体までも輝かせて咲いていた花が、一時に散り尽くしてしまうように、慌ただしくも逝ってしまわれた我が大君よ。

安積親王墓

和束は、恭仁京の東北約5キロ、和束川に沿って開けた山間の地です。紫香楽へ通ずる東北道の途上にあたりました。一首目に「杣山」とあるように、周辺の山々には建材用途の植林がなされていたのでしょう。

安積親王はこの年17歳、唯一の皇子として、異例の女性皇太子であった阿倍内親王に代わり立太子すべきことが議論に上っていたはずです。橘氏・大伴氏・県犬養氏らを後ろ盾とし、藤原氏との政争の狭間に立たされた、厳しい運命のもとに生れた古代皇子たちの一人でした。

家持はこれ以前、恭仁京で親王主催の私的な宴に参席して歌を詠んでおり(巻六 1040)、親王とは個人的にも親密な関係を結んでいたと判ります。次代の大王(おおきみ)として、期待するところは大きかったでしょう。その唐突な薨去に出遇い、行き場のない戸惑いと悲しみに暮れつつも、雄壮とさえ言える挽歌を力を尽して歌い上げています。

和束町白栖に太鼓山と呼ばれる円墳があり、その頂きに安積親王を祀る墓所が設けられています。


 越中守時代へゆく

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