久米朝臣広縄
くめのあそみひろなわ
- 生没年 未詳
- 系譜など 父母等は未詳。久米氏はもと直(あたい)姓、来目部の伴造氏族。『日本書紀』によれば、天孫降臨のとき、来目部の遠祖アメクシツ大来目が大伴連の遠祖天忍日命に率いられて天降ったという。古来、大伴氏と関係の深い軍事氏族であった。
なお「広縄」はヒロタダ、ヒロノリなどと訓む説もある。
- 略伝 天平十七年、左馬少允従七位上の地位にあった(大日本古文書)。天平十九年五月から二十年三月までの間に大伴池主の後任として越中掾に着任、以後、大伴家持が国守に在任した期間を通じて掾の職にあった。
748(天平二十)年3.25、越中守大伴家持らと布勢水海に遊覧、述懐歌を詠む(18/4050)。翌日の3.26、広縄の館に田辺福麻呂を饗宴、歌を詠む(18/4053)。さらに4.1、再び広縄の館で宴が開かれ、家持らが歌を詠む(18/4066〜4069)。同年十月頃、朝集使として上京、翌年閏五月に帰越(18/4116題詞)。
750(天平勝宝二)年1.5、広縄の館で宴、家持歌を詠む(18/4137)。同年4.12、布勢水海遊覧、述懐歌を詠む(19/4201・4203)。4.22、家持より霍公鳥の歌を贈られ(19/4207・4208)、翌日4.23、これに和して歌を詠む(19/4209・4210)。同年9.3、家持と宴、歌を詠む(19/4222)。
751(天平勝宝三)年1.3、内蔵縄麻呂の館での宴に臨席、歌を詠む(19/4231)。またこの席で県犬養橘三千代の歌を伝読する(19/4235)。同年二月、国守館で正税帳使久米広縄の入京を送別する宴が開かれる。同年八月、家持は帰京の折、不在の広縄の館に悲別の歌を残す(19/4248・4249)。広縄はこの頃越中への帰途にあり、越前国掾大伴池主の館でたまたま家持に遭遇。宴を開き、広縄は萩の歌を詠む(19/4252)。
以後の消息は不明。
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