折節の記


―万葉集に「友情」の歌はあるか―

 万葉集には言うまでもなく「相聞」という部立があって、やはり異性間の恋歌が多いのは勿論ですが、「相聞」という言葉自体に恋愛の意味は含まれていません。鹿持雅澄はこの語に「したしみうた」というやさしい訓を当てていますが、日常起居を問い、互いの親交を深めるのが相聞歌のおおもとの働きでした。万葉の頃の人にとっては、たぶん文芸創作という意識はさほどなく、もっと実用的なものだったろうと思われます。そうした日常的なコミュニケーションの手段が、和歌という洗練されたスタイルを取ったところに、日本の古典文化の真価がありましょう。
 そうは言っても、相聞歌といえば、やはり異性間の情熱的なやりとりに目がゆきがちでしょう。無理もない話ですが、ここではあえて色恋抜きの相聞に注目したいと思います。もちろん家族・親族間の相聞も多いのですが、それは措き、友人の間で交わされた歌を取り上げてみたいのです。

 その前に、万葉の時代に「友人」と呼びうる人間関係が存在したのか、あるいは「友情」なる感情が存在したのか、ということを考えておく必要があるかもしれません。
 この点については、古代史学者直木孝次郎氏の興味深い論考がありますから、以下、私なりの観点から要点を述べさせて頂きましょう。「友と伴――古代の友情について――」という題の論文です(塙書房『続日本紀の時代』所収)。

 直木氏は、古代に友情が存在したかどうかを、まず古事記・日本書紀から探ってゆきます。「友」という語の現れる箇所を博捜して、それらが友情・友愛を伝える話であるかどうかを検証するわけですが、友情を肯定的にとらえたエピソードは見出せない、という結論に達します。
 この所以として直木氏は、当時の氏族制を中心とした社会的背景を指摘します。「族長層以外では個人の独立ということは望みがたい」氏族制社会のもとでは、個人の独立を前提条件とする友人のグループは成立しがく、従って友情も育たなかった、とみるのです。
 しかし、律令官人制が整備され、氏族制の桎梏が緩んで個人の独立性が芽生えた奈良時代になると、友情の萌芽が見られる、といいます。そして検証の対象を万葉集の歌へと移すわけですが、直木氏は再び「友」という言葉が詠み込まれている歌を一つ一つ確かめてゆきます。
 で、結局、直木氏は万葉集にも「深い友情」の明確な実例を見出すことが出来ない、といいます。そして、奈良時代にはまだ氏族制社会の影響力が強く残り、個人の独立性を挫折に追い込んだ、とのべ、「日本で友情が全面的に開花するのは、江戸時代まで待たねばならないのではあるまいか」と結んでいます。

 この結論の当否はここでは問いませんが、どうも万葉集の歌の取り扱い方には、読んでいて納得することができませんでした。
 というか、直木氏は「友情」の原型的なイメージを、たとえば旧制高校の学友たちに見られたような濃密な人格的つながりに置いているように窺われ、私などはその点に少々違和感をおぼえるのかもしれません。
 最初に述べた通り、万葉の相聞歌というのは、いわば挨拶みたいなものです。「深い友情」、固く結びあった親友の絆を万葉集の歌に探ろうとした直木氏の目論みは、そもそも見当外れだったように思えます。

 友情というものをあまり深刻に考えない私には、万葉集の歌からたくさんの友情の証を見つけ出せそうな気がします。
(なにも「友」という言葉を含まなくても、友情を表現することが可能なのは、言うまでもありません。)
 たとえば大伴家持の歌からは、市原王大伴池主中臣清麻呂といった人たちとの友情関係が想定できます。とくに、巻十七の後半などは、大伴池主との交友録といっても良い程です(池主については別の機会に述べるつもりです)。
 また家持は若い頃、非常に多くの女性たちとも交遊関係を持ちました。その多くは恋愛関係というより、歌で結ばれた友人関係に近かったのではないかと私は思っています。
 例えばこんな歌があります。

  大神女郎が大伴宿祢家持に贈れる歌一首
さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふと侘びをる時に鳴きつつもとな

 鶴などと同様、千鳥も当時一般的には「つま」すなわち異性の連れ合いを呼んで鳴くものと考えられていました(例:巻6「浦洲には千鳥妻呼び」、巻7「清き瀬に千鳥妻呼び」)。ところが、ここでは「夫(つま)呼ぶ」でなく、ことさら「友呼ぶ」という言い方をしています(原文の漢字も「友」が使われています)。
 従ってこの「友」は、異性同性を問わない友人を暗示していると考えてよいだろうと思われます。大神女郎は、家持に恋愛感情をぶつけているのではなく、深夜の孤独を癒してくれる、語り合える友を欲している、ということです。夜中につい友達に長電話したくなるような感覚と、それほど違ってはいないでしょう。
 異性間でも「友」と呼び合う雰囲気が天平時代の家持の周辺にあったことは、注目すべき事実ではないでしょうか。
 また、次の歌は女性同士の友人関係が詠われた最も早い例として、興味をそそられます。

  紀女郎が裹物(つと)を友に贈れる歌一首
風高く辺には吹けれど妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻そ
玉藻
玉藻 富山県高岡市雨晴海岸にて

 「貴女への手土産にしようと、風の強く吹きつける浜辺で、苦労して刈り取った玉藻なのよ」と友人に贈った歌です。一見押しつけがましい言い方のようにも聞こえますが、もちろんこれは諧謔をこめて言っているのです。

 これらも直木氏の言う「深い友情」の表現にはあたらないでしょうが、このように万葉も天平の頃になると、大夫(ますらお)・手弱女(たわやめ)たちは諧謔や機知を応酬したり、物を贈ったり贈られたり、といった風に、距離をとった、いわば形式主義的な友人関係を好んでいるのです。友人同士の濃密な結びつきよりも、彼らは「君子淡交」(荘子)を理想として掲げていたフシがあります。こうした性向が王朝時代にまで引き継がれてゆくことは言うまでもありません。
 それを物足りないと思う人もあるでしょうが、それはそれで一つの友情のあり方であり、文化のかたちでしょう。友情に進化があるのかどうか、私には疑問です。

 万葉集に友情の歌を探しながら頁を繰っているうち、私がいちばん気に入ったのは次の歌でした。

吾が背子と二人し居れば山高み里には月は照らずともよし

 聖武朝の学者官人として活躍した高丘河内(たかおかのこうち)の作です。おそらく友人との宴で詠んだものと思われますが、「親愛なる貴男と二人いるので、山の高き故に遮られて月影がこの里に照らないとしても、かまいはしない」といった意。親しい友人と酒を酌み交わしながら、長い夜を語り合う。そんな時は月の光も恋しくはない…こういった感情を友情と呼ばずして、何を友情と呼ぶのでしょうか。
 高丘河内の歌から、私は西行のこんな歌を思い出しました。

  夏、熊野へまゐりけるに、岩田と申す所に涼みて、
  下向しける人につけて、京へ、西住上人の許へ遣
  はしける
松が根の岩田の岸の夕涼み君があれなとおもほゆるかな

 熊野参りの途中、西行が親友の西住に贈った歌です。こんな快い夕涼みのひととき、「君があれな」、君がいてくれれば良いのに。ただそれだけで良いのです。和歌の友情表現とは、こういうものではないでしょうか。


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©水垣 久 最終更新日:平成13-08-27