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Blue Moon



適度にざわついた店内に初夏の爽やかな風が一筋吹きこんだ。カウンターから重い扉の方に目をやると意外な人物が入ってきた。桃花ちゃんだった。と、いうことは後ろに零一がいるんだろう、きっと。だが、奴の大きな影が見えない。まさか1人?そんな訳ないよな。


「こんばんわ」
「あれ、桃花ちゃん今日は1人?めずらしいね。」
「あ、いえ、1人じゃないです。お友達を連れてきたんですけど、席ありますか?」
「大勢じゃなければあるよ。さあ、入って入って」

ほんと珍しいこともあるもんだ。零一の彼女……北川桃花があいつ抜きでココに来るなんて。たぶん初めてじゃなかったか。二十歳を過ぎてあいつからアルコールの許可が出てからも(と言ってるあいつは大学に入る前から飲んでたくせに)、友達連れでこの店に来たことはなかった。いつもボディガードのように零一がぴったりくっついて来て、そのまま時間が来たら連れて帰る。いつもそうだ。だから、今日みたいに女の子同士でここにくるのはものすごく珍しい。

連れてきたのは、まあ、彼女なら当然だけど同じ年格好の女の子が1人だけだった。決して友達が少なくはないと思うけど、いつも零一が一緒だからあまり友達づきあいの話は聞かない。この年頃なら、男と女の違いはあっても同性同士の付き合いもあるだろうに、休日はいつも一緒だし、あいつは今だに門限がどうこう言ってるから、周りが遠慮するのかもしれない。だから、そのときは単純にああこんな店で一緒に遊ぶ友達が出来たんだな、としか思わなかった。ただ単純に。

「桃花ちゃん、彼女も同じ大学?」
「はい、この春から研究室が一緒で。それで話してみたら高校も一緒だったんですよ。びっくりしました」
「彼女、お名前は?」
「あ、小田島美咲と申します」
「オレ、益田義人。一応ここのオーナー兼バーテンダー兼君達の高校のアンドロイド教師氷室零一の大親友。よろしくね」
「はい」
「で、何飲む?桃花ちゃんはいつものでいいの?」
「はい、じゃそれで。美咲ちゃんはどうする?」
「わたしも桃花と一緒でいい」
「じゃあ、薄いモスコミュール2つお願いします」


同級生ってことは二十歳過ぎ……か。にしては落ち着いた子だ。桃花ちゃんもずいぶん年上の零一と付き合ってるからか、比較的礼儀正しくて落ち着いた雰囲気のある子だけど、彼女の方はまた別の雰囲気のある美人だった。そんな二人がカウンターの隅っことはいえ並んでグラスを傾けているもんだから、客の視線を独占してしまっている。こりゃ零一が見たらまたため息だな、この子も自分がどれだけ魅力的に見えるか判ってないところがあるし。唯一罪なトコだ、桃花ちゃんの。

金曜日の店内は適度に人の出入りがあり、適度にざわついている。いつもならもうウチの専属ピアニストが到着するころだが、今夜は遅いな。もっともあいつは専属だなんて思ってないし、だいたいそんなこと言った日にゃこってり怒られるから言わないが、実は教師だなんて知らない客からみればなかなかイケてるジャズピアニストくらいにしか思われてないだろう。そうなんだ、CantaloupeにはBill Evansがいるからな、氷室零一という名の名ピアニストが。


二人はいつもの零一の指定席の横で顔を寄せ合って何か熱心にしゃべっている。ずいぶんと楽しそうじゃないか。桃花ちゃんは零一と一緒でももちろん楽しそうだけど、やっぱり同級生の友人との時間ってのも悪くないんじゃないかな。オレから零一に言ってみようか、たまには友人と過ごす時間を持たせてやれよって。お前ばっかり独占してないでさ。


9時を回った頃、重い扉が開いて、やっと我らがBill Evans殿の登場だ。

「よう、零一。お前の愛しい桃花ちゃんが来てるぞ」
「いらっしゃいませ」
「へいへい、いらっしゃいませ」
「コホン、それから……お前はいつも一言余計だ」
「でもホントのことじゃん」

いつものジントニックを奴の前に滑らせ、目で桃花ちゃん達に合図する。あれ、美咲ちゃんだったか、零一を見てほんの少し表情が曇った。おや?相変わらず桃花ちゃん以外の女には無表情だが、なぜか彼女、美咲ちゃんを見てかすかに眉が上がったように見えた。……やっぱりなんかあるな。


「零一、あの子さあ、桃花ちゃんが連れてきた子だけど、高校一緒だったらしいぞ。覚えてるか?」
「ん?ああ、小田島か。彼女も優秀な生徒だったから覚えている。確か一流の文学部だったはずだ」
「今日、連れてきたんだよ、桃花ちゃんが。珍しくないか?」
「……一時間ほどしたら桃花も連れて帰るから」


そう言うと、そのまま上着を脱いでネクタイを緩めると、ピアノに向かった。
流れてきたメロディは……when I fall in love。



When I fall in love……
It will be forever……
Or I'll never fall in love……

彼女にささげる甘いラブソング……か。しかし、今日のお前の音色は精彩を欠いている、いつもの甘さがない。まさか、あの子のせいか?




「君さ、もしかしなくても零一のこと好きだったでしょ」
そして、とどめをさすように
「嘘、だね」


オレはなんだってあんなに簡単に他人の感情に入りこむような言葉をかけてしまったんだろう。



特別「主義」という訳ではないが、こんな稼業をやってるからには他人には踏みこまず踏みこませず、そういうスタンスで今までずっとやってきた、たった1人の例外を除いては。なのに初対面の彼女にどうしてあそこであんなことを言ってしまったのか。何考えてたんだ。だがあの瞳に一瞬だけ見えた暗い影が気になって、その理由に少しだけ思い当たるところがあって、つい確かめるようにあんなことを言ってしまっただけだ。

オレの予想は不幸にも半分くらい当たっていたようだ、だから彼女はあんな顔をした。零一は自覚がないようだが、昔からモテる方だった。でもあいつは好きな女ができたらその子しか見えなくなるところがあって、そうとは知らずに周りを傷つけてることが多かった。男も女も、どちらからも。

だから零一がそれと知らずに彼女を傷つけたか、もしくは一方的な片想いから抜け出せないでもがいているか、そのどちらかだろうと思ったんだ。だけど、どうやら両方みたいだな。

あの子は自分では一生懸命表情に出すまいとしていたようだけど、オレには見えてしまった、彼女の心が。そこにオレにも覚えのある感情が見え隠れして、こっちまで少し哀しくなったから。だからあんなことを言ってしまった。

全く後ろを振り返ることなく彼女は出ていった。
もう逢うことはないだろう。


もう一度桃花ちゃんが連れてこなければ二度と逢うことはないだろう。

あの夜、彼女がやけにきっぱりと閉めていった厚い扉を見つめながら、オレは本気でもう逢うことはないと思っていた。そう信じていた。



日暮れ前の空にかかる月は、時々青みがかって見えることがある。そんな時は決まってある歌を思い浮かべる、ビリーホリディがピアノをバックに哀愁たっぷりに唄う「Blue Moon」を。



And then there suddenly appeared before me
The only one my arms will ever hold
I heard someone whisper "Please adore me"
And when I looked the moon had turned gold



青かった月が誰かに恋したとたん金色に変わる、そんなことはありえない、その逆だって在るわけがない、零一なら即座にそう言ってのけるだろうが、オレは絶対にないとは思わない。誰かを好きになってその時ふと見上げた月が、なんとも言えず綺麗に輝いていたら、それだけですべてを手に入れたような気にならないか?そして世界が自分と彼女のために回ってるなんて、錯覚したいと思わないか?生きてればそのうちそんなことも在るかもしれない、ないかもしれない。でも、ある日突然世界の見え方ががらりと変わることはあるだろうさ、誰にでも、例えあの零一でさえもさ。


ヴェスパにまたがって、鼻歌を歌いながらふらふらと特に目的もないまま臨海公園まで来てしまった。店を開けるまではまだ2時間ばかしあるから、ここで潮風に吹かれながら一服していくとしよう。ちょうどいいベンチを見つけ、その脇に愛車を横付けして、煙草を一本くわえて海に向かって座りこむ。今くらいが丁度いいよな、外でぶらぶらして時間をつぶすには。夏になりきっていない、それでいてもう春じゃない、この微妙な空気感、たまんねーよな。オレはこの季節が一番好きだ、爽やかでどこかちょっとよこしまな感じが、大好きだ。


5本目の煙草に火を点けたところで、この間の彼女を見つけた。
あれ、また逢っちゃったか。


声を掛けるか、そのまま無視するか、柄にもなく葛藤して結局出した結論は、あっちが気付いたら挨拶くらいしとこうか、だった。オレにしてはなんとも消極的。しかしオレの……なけなしのポリシーとしては客とはつかず離れずな訳で。だから、後1本煙草を吸ってるうちにこっちに気付いたら声を掛けようという結論に至ったんだ。


この煙草、あと少しでフィルターまで燃え尽きてしまうな。後3ミリ、後2ミリ、後……1ミリ。


ふいに彼女がくるりと振り向いた。目が赤い。そして罰のわるそうな顔。とりあえず、オレは片手を挙げて、声を掛けた。バカの一つ覚えのような芸のないセリフで。

「ねぇ彼女、ウチの店においでよ。」
「……」
「そっか…………じゃ、オレ行くわ」


沈黙、沈黙、沈黙。沈黙の一列行進。


バカみたいじゃん、オレ。


とりあえず、携帯灰皿に最後の煙草を押しつけて、立ちあがった。そしてヴェスパのエンジンを掛けようとキーを取り出した。

「行っても……いいんですか?」

小さな声が背中に飛びかかってきた。振り向くと、彼女が一段と居心地の悪そうな顔でオレに問い掛けていた。だから、思わずうなづいた。

「うん、おいでよ。あんな店でよかったらさ」






もうあんな店には行かない。
でも、あの店に行けば先生に逢える。
だからやっぱり行きたい、そして束の間でも先生を見ていたい。
でも、行けば北川さんにも会ってしまう。
私の大嫌いな北川桃花に。


私だってわかってる、頭ではわかってる。先生の心には北川さん以外に入りこむ隙間はもう残っていないってことくらい、十分わかってる。だから卒業して、私を好きだと言ってくれた男とも付き合ったし、その前は適当に合コンなんてものにも顔を出したりして、忘れる努力をしてきた。なのに仲良さそうな二人を見た瞬間、私の中で何か得体の知れない感情が沸き起こってきたのだ。

今日は大学に入って二人目の彼氏と臨海公園まで遊びに来ていた。今の彼氏は私にとても優しい、どれだけ優しくしても心の中では裏切っているというのに、気付いているのかいないのかいつも私の言いなりになる都合のいい男。そして、間の悪いことにさっきまた「あの二人」を見てしまった。まるで私にセンサーでもついているかのように、目に入ってくる北川さんと先生の姿。



先生ってあんな風に笑うことがあるんだ。
先生ってあんな風に楽しそうに話すことがあるんだ。
先生ってあんな風に優しそうに手をつなぐことがあるんだ。



そう思ったら急激に隣の優しい男がうっとうしくなってきて、つないでいた手を振り払い「1人にして。帰って」なんて残酷な言葉で切りつけた。彼は少し哀しそうな顔をしたけど、「じゃあ、気を付けて帰れよ」とだけ言い残して帰っていった。バカみたい。

「何やってるんだろう……」


1人つぶやいて海を眺めていた。


夕暮れが深くなってきて、帰ろうと振り返ったところで、またあの男に会った。先生には逢いたいけれど、それにはあの男のいるあの店に行かなくちゃならない。この間気まずい雰囲気になり、核心を突かれ動揺を隠せなくなって飛び出したあの店のマスターに、また会った。

「彼女、ウチの店においでよ」

どうして、そんなに軽薄な言葉を口にできるの?からかってるでしょ、人の感情にづかづかと土足で踏み込んで来て、何が楽しいの?客商売ならそれらしくしたらどうなの?

「……じゃ、オレ行くわ」

私が無言のままだったから、1人で決断したようだ。でも、その冷たく翻った背中を見ている内に1度だけなら、ゆっくり話をしてもいいだろうか、こんな感情を彼になら見せても大丈夫だろうか、そんな思いが沸きあがってきて、思わず「行ってもいいか」と聞いていた。

「ちょっと待ってて」

彼は私の返事にうなづくと、携帯を取りだし数カ所に慌しくかけ始めた。内容はよく聞こえない、聞く気もない、あなた自身には全く興味はない、私は先生だけしか興味がないから。

「お待たせ、じゃあ、行こうか。乗って」
「どこに?」
「後ろに。あれ、知らない?ローマの休日で二人乗りしてたのってコレだよ」
「ああ、あれ」
「さあ、乗った乗った」



嫌いな男の腰に手を掛けて私は後ろに座る。そういえば、そんなシーンがあったっけ。なら、私を乗せて走るのは氷室先生のはず、なのに今私が掴まっているこの体は先生じゃない。

「今日さ、貸し切りだから。好きなもん頼んでいいよ。また水割りかい?」
「じゃあ、そうしてください。って今夜はパーティーでも入ってるとか?」
「ああ、君と俺、もしかしたら零一が来るかもしれないけどさ」
「先生が?」
「うん、逢いたくないの?」
「……どうして……どうしてそんなこと」

やっぱり嫌な男。北川さんがいなければ私の理性がどうなるかわかったものではない。先生をそのまま私のものにしてしまうかもしれないというのに、先生にはっきりと拒絶されて死んでしまうかもしれないのに、どうしてそんなことができるの?

「ねえ、オレホントはこんなの嫌いなんだよ。でもね、昔のオレみたいでよけい嫌になるからさ、君が自分で解決してくれ。じゃないと、君が死んでしまいそうだ」
「私が……死ぬ?」
「ああ、今まさにそんな感じ。酒飲んで手首とか切ったら血止まんないよ、しかも本人は痛くないんだな、これが。麻痺しちゃってるから」
「やったことがあるみたいな言い方ね」
「まさか自分ではやんないよ。こう見えてもオレって小心者だからさ。でも、記憶がなくなるほど飲んで、路上でひっくり返って頭打って大量出血ってのはあるよ」
「明るく言うことじゃないでしょ。そんなこと」
「あははっ、それもそうだ」

この人は初めて会った時から軽薄な言葉しか口にしないけど、そんなになるほど飲んで忘れたいことがあったということかも知れない。昔のオレみたいとも言っていたけど、ただの調子のいいバーのマスターでもないのだろうか。それともこんなことを言うのも単なる客あしらいの一つなのだろうか?彼が黙々とグラスを磨きあげる姿を見るともなく眺めながら、私は無言でこの間よりずいぶん薄い水割りを飲んでいた。店内にはかすかに聞こえるジャズのレコードと、グラスを磨く音、そして時々私が揺らすグラスの水音、たったそれだけ。そう、たったそれだけ。

その時、ふいに一陣の風が舞いこんだ、誰かが重い扉を開いたのだ。




「益田、お前今日は休みなのか?」



うわ、やべ、ほんとに零一の奴来やがったよ。思わず彼女の顔に目をやると、なんとも言えない複雑な表情を浮かべてオレの方を見返してくる。さて、どうする?美咲ちゃん。

「よう、零一。今日は貸し切りにしてるから……悪いが……」
「小田島、こんなところで何をしている」
「おい、だから……今日は……」
「私は小田島に質問している。何をしている」
「お酒飲んでます。貸し切りで」
「益田、どういうことだ?」
「ま、まあ、お前も座ったらどうだ」
「ああ、すまない」


しっかし、オレの言葉に耳も貸さずに、いきなり彼女にそんな責めるような口調で質問する奴があるか。それも、桃花ちゃんに対するのとはずいぶん態度が違わないか、その、なんというか、厳しすぎるよ、お前のその口調は。彼女も彼女だ、1度も視線を合わすことなく、「酒飲んでる」はないんじゃない。ようやく、席についた零一にいつものジントニックを出してやり、ついでに簡単なつまみを用意する。今日は他に客がいないから、オレも自分用のバーボンをお気に入りのグラスにたっぷりと注ぐ。

「益田、さっきの質問だが、貸し切りとは彼女1人でか?」
「まあ、ね」

彼女は零一が入って来た時からずっと、目の高さに持ち上げたグラスをぼんやり眺めているだけで、何も言わない。もちろん、1度も零一を見ようとしない。痛いほど隣の零一を意識しているくせに、その存在を無視するようにグラスを揺らしている。そしてオレはそんなかみ合わない二人を酒を飲みながら観察している。

「先生、質問してもいいですか?」
「なんだ」
「どうして北川さんなんですか?どうして私じゃないんですか?」


おやおやずいぶんと直球だな、彼女。やっぱり最初に会った時にオレが感じたものはこれだったのか。だから桃花ちゃんのことを好きだと言っておきながら、オレに嘘だと言われてむきになったのか。だから零一を見て表情が曇ったのか。また零一かよ、零一、零一、零一、また零一が絡んでくるのかよ、オレはもうたくさんだ、お前の恋愛に振りまわされるのはたくさんだ。

「どういうことだ、それは?」
「どうって、彼女はお前が好きなんだよ、桃花ちゃんから奪っちまいたいくらい好きなんだよ。モテる男はつらいねー、大変だねー。オレ様は同情するよ、ほんと」

ことさらわざとらしく零一に言った。でも解らないだろうな、お前は。でもこれは明らかにお前のせいだよ、全部お前のせいなんだよ。オレだってお前が素敵な彼女を見つけることに反対はしない、むしろお奨めするよ。今までろくな恋をしてこなかったんだ、だからよかったなと思ったよ、これはホントだ。だがな、やっぱりお前は不器用なんだよ。


「私は、いや俺は君のことをそんな風に思ったことは1度としてない」
「でも、北川さんのことは、だったらどうして?何が違うんですか?教えてください、何でも知ってるんでしょ、先生は。だったら納得のいく説明をしてください。教えてくれないんですか?彼女が良くて私がだめな理由を」
「落ち着きなさい、小田島。酔っているのだろう」
「酔ってません」
「いや君はずいぶん酔っている、帰りなさい」
「嫌です」
「帰りなさい」
「ここでキスしてくれたら帰ります」
「……なぜそうなる」
「ほら、できないでしょ。やっぱりね、できるわけないですよね。だってどこまでもあなたは先生なんだもの。それ以上でも以下でもない。先生だもの……」


二人のやりとりをバーボンをちびちびやりながら眺めていた。どっかで見たような光景だった。

あ、そうか、大学時代のオレとあの子、そしてこうやって眺めてたのは確か佐々木だ。美咲ちゃんがオレで、あの子が零一で、佐々木がオレ、零一が桃花ちゃんなのか。なるほど。

で、あの時はどうなったんだったか。確かオレの方から強引に彼女の唇を奪ったまでは覚えてるが、目が覚めたら病院のベッドの上で、脇に居眠りしてる零一がいたんだった。その後、結局しばらくして零一とあの子も別れてしまったし、オレもどうでもよくなってしまった。そして未だに零一とこうやってつるんでるんだから、タチが悪いったらないよな、オレ達って。

さてさて、この二人はどうなるんだろう、美咲ちゃんがオレだとしたら零一にキスするのか?いや、それはないな。彼女はそんなことできない。


「君は忘れているだろう、俺が男だってことを」
「男である前に私の前ではあくまで品行方正な先生だわ。答えられないんですか?いつも明確な答えを教えてくれたのに、こんなこともちゃんと答えられないんですか?」



突然零一は強引に美咲ちゃんを立たせると、腰に手を回して噛みつくようなキスをした、彼女の生意気な唇に…。

「小田島、これで帰りなさい。君の望み通りだろう」

そしてこぶしで自分の唇についた彼女の口紅を拭うと、代金を叩きつけるようにして店を出ていった。
なんだ、あいつ。こんなことする奴だったか?


初めて見たかもしれない、あいつのあんな顔、あんな仕草。正直オレは今見た光景にかなり驚いていた。でも、たぶん一番驚いているのは、美咲ちゃんだろう。自分から迫ったとはいえ、本当に奴が口付けるとは思いもよらなかったろうから。

「益田さん……どうしよう。桃花に会えないかも」
「美咲ちゃん……」




あんなこと先生がするとは思わなかった。
一方で自分から挑発しておきながら何を驚いているんだろう、とも思う。
でも私の中の氷室零一は絶対にこんな子供じみた挑発に乗るような人じゃない、と思っていた。

何の根拠も理由もなくただ固くそう信じていた。

もちろん心のどこかでは、嘘でもいいからキスして欲しいと思っていた……。
例えその腕に心がこもっていなくてもいいから強く抱きしめて欲しいと思っていた……。

でも実際の先生が私に与えたキスは全然嬉しくなんかなかった。むしろそうまでしてキスをせがんだ自分が情けなくて、悲しくて、思わず「桃花に合わす顔がない」と思ってしまったのだ。私はあの時からずっと北川桃花を壊したかったのに、北川桃花から氷室零一という愛しい男を奪い取りたかったのに……どうして私はこんなにも今自分のした行為を悔いているのだろう。どうしてこんなにも私の心は空っぽなんだろう……。

「美咲ちゃん……気が済んだかい?」
「えっ?」
「だからさ、まだ零一なんかがいいの?それとももういいの?」
「わからない……。何もかもわからなくなりました……」
「そう、か。わからない、か。かもしれないね。でも、結論は自分で出すしかないんじゃない」
「……帰ります」

わからない、これは私の正直な感想。先生も益田さんもたぶん私のことを軽蔑しただろう、こんな喧嘩を売るようなことをして、一番先生が嫌がりそうなことを強要した私のことを。それだからきっと、さっきの先生のキスは私への罰なのだ、いつまでもいつまでもぐずぐずとついて回る私への罰なのだ。そして、いつまでも北川さんのことを殺したいくらい憎んでいる私の罪なのだ、きっと。だから、念願の先生との口付けの味が甘いものではなく、苦く味気ないものに感じるのだ。

今となってはわからない、本当に私は先生が好きなのかどうかも。確かにあの頃は北川さん以上に彼しか見ていなかったと思う。でも、この間二人を見かけるまでの間に少しずつ忘れ始めていたのは確かだった。どこか心の奥底では今でも好きだと思っていたけれど、それでも、他の男の腕の中にいる時くらいは忘れかけていたはず。なのに今更私は……。


これはたぶん私が望んでも得られなかったものを易々と1人占めしてしまった北川さんへの嫉妬心。私が占めることのできなかった先生の隣というポジションへの憧れ。


じゃあ彼女に少しくらいは不幸な気持ちを経験させてあげてもいいんじゃない、いじわるな私がそう囁く。


もういい加減諦めて違う人に向き合うべきよ、優しい私がそうつぶやく。

その時ふいに、終電車の車内で携帯が震えた。
北川さん、だった。

いじわるな私がそっと背中を押す。


---言っちゃえば、さっきのこと。そのくらい大丈夫だよ、言っちゃいなよ。だって言いたいんじゃないの?さっきのこと。彼女の反応が見たいんでしょ?だったら言っちゃいなよ---


「桃花、どうしたの?こんな時間に」
「別になんでもないけど、今どこ?」
「電車の中。さっきまで先生と一緒だったの」
「先生?」
「氷室先生よ」
「どうして?」
「誘われたのよ、それで今まで一緒だったの。さっきまで抱き合ってキスしてたの」
「……」


ぶつん。



静かな電車の中にやけに大きく響く……音。私の空ろな耳の奥でそれはいつまでもこだましている。そして小さな後悔と少し大きな充足感。


……何をしてるんだろう。


キスしただけじゃない。それも噛みつかれたような一片も心のこもらないおざなりなキスをされただけじゃない。聞き分けのない子供に無造作に手渡すお菓子みたいな、なだめるためだけの…キス。きっとあなたはいつも心のこもった甘いキスをしてもらえるんでしょ、だったらあんな惨めなキスを一回されただけの私に、そんな反応をしなくたっていいんじゃない?可哀想なのは私じゃないの?ねぇ、北川さん、そうじゃない?そう思わない?あなたより私の方が可哀想でしょ?ねえ、そうでしょ。

自分で口にした言葉で私の心はぐちゃぐちゃに掻き乱されていく。
自分で口にした言葉の重さに終電車の誰もいない車内で人目も憚らず泣きじゃくる。
もう…私のすすりあげる音だけしか聞こえない。


……何をしてるんだろう。




わからない……か。
だろうな、わからないんだろうな。
実際オレだって、あの時自分で自分の気持ちがわからなくなっちまったし。
そうなんだよ、ずっとずっと望んでいたことだったのに、いざ手に入りかけたらわからなくなって……どうしていいのか、どうしたかったのか、もやがかかったようにわからなくなる。


あの夜オレは、自分から彼女にキスをした。酔っ払ってからんでからんでからみまくって、そのあげくに抱き寄せて強引に唇を奪った。念願の彼女の唇の温度の記憶はないのに、あの時の燃えるようなあの子の瞳だけは忘れようにも忘れられない。長い口付けの後、当然ひっぱたかれるかと思ったのに、それとも泣かれるかと思ったのに、ただひたすらあの子はオレを見ているだけだった。

オレの方が零一より絶対に君のことを愛してる、絶対に君のことを大切にする、絶対に絶対に君を裏切らない……そう思っていた。実際君にならそうするつもりだった。なのに、君が選んだのはどういう訳か……零一だった。

今の美咲ちゃんと同じように、どうしてあいつなんだ、どうしてあんな奴を選ぶんだ、零一を裏切ることになっても無理矢理彼女を奪ってしまいたい。本気で思っていた。

なのにあんなキス一つで……オレの気持ちはわからなくなって……。そのまま気付いたら頭に包帯を巻きつけて無様にもベッドの上。


ただ若かったのか、それともただバカだったのか。
そしてそんなことを知ってか知らずか、ベッドの脇には居眠りする零一がいたんだった。

……ああ、なんだか柄にもなく感傷的になってしまった。
もう閉めるとするか。

カウンターの中でごそごそとグラスを洗い、簡単に片付けをしていると店の電話が鳴った。

誰だ、こんな時間に一体。
いつもの状態ならまだまだこれから、なんだけど。
まさか……零一ってことは、ないか。



「はい?カンタループですが」
「あ、益田さん。わたしです、桃花です」
「……ああ、桃花ちゃん。どうしたの、こんな時間に?」
「美咲そっちにいます?今日なんか少し様子がおかしかったから」
「ん……さっきまではいたよ。でももう帰ったけど」
「そう、ですか……」
「ねえ、よかったらオレ様子見に行ってあげようか?ってやっぱダメだわな、こんな時間に男が急に顔出したりしちゃ」
「零一さんにお願いして一緒に行ってもらいたかったけど、つかまらなくって。ご迷惑じゃなければお願いします。住所は…………」


何やってるんだろう……オレ。
彼女の様子を見に行って、それからどうしたいんだろう……オレ。


断りの言葉がつい喉元まで出かかったけど、ヤメタ。
あまりにも桃花ちゃんの声が心配そうだったから、ついやっぱり嫌だと言えなくなった。

君はどうしてそんなにイイ子なんだろうね。
零一はどうしてオレなんかと今だに一緒にいてくれるんだろうね。
あいつは絶対知ってる、オレがあの子に……恋をしていたこと。
なのに……お前は……バカだな、オレ達って。


仕方ないと独りごちながら、愛用のヴェスパにまたがり教えられた住所に向かう。でもまっすぐ帰ったとは限らないよな、なんだか少しばかり打ちひしがれてたし、また飲みなおしてたりして。ま、とりあえず家の前で帰ってくるまで待ってようか、どうせ明日も店は夕方からだし、なんなら臨時休業にしたってかまやしない。零一と違うから、オレは。

教えられた住所にたどりつくと、やっぱり思った通りのマンションだった。零一のとこよりはこじんまりしてるけど、それでもこの街にはこの手の高級マンションが結構多い。独りで住んでるわけはないから、勝手にインターフォンを押すわけにもいかず、人通りのない道に愛車を止め、寄っかかってタバコに火を点ける。さて、今夜彼女は何本吸ったら帰ってくるだろう。この前は確か……5本目で振り向いたんだった。今夜は何本吸ったらいいんだろう、君がここに辿り着くまでに。

ふと、見上げた月は霞んだような夜空に蒼い影を落としている。ああ、Blue Moonだ。冴え冴えとした蒼い蒼い氷のような月の色。目の錯覚かもしれないけど、今のオレには蒼く霞んで見える。

ため息を一つ吐いて、腕時計のライトを灯し時間を確認すると、午前1時半。うちを出たのは12時前だったからもう1時間半以上経っている。

どこで何をやってるんだ、あの子。

7本目の煙草に火を点けてそろそろ帰ろうとしたその時、視界の隅っこ何かがひっかかった。

「……益田……さん?」




「……益田……さん?」


電車を降りた時にはもう日付が変わっていて、住宅街に通じるこの道は月明かりとたよりない街灯の光だけしかない。まっすぐ帰っても一人だから、一人でこの冷たい気持ちを抱え込んだまま眠ることはできなくて、しばらく近くの児童公園でぼんやりしていた。

ふらふらと辿り着いたマンションのエントランスから漏れる薄明かりの中に、人影を見つけた。バイクにもたれかかって、けだるそうにタバコをふかしているその横顔は……益田さん?いつもいつも彼は私が一番みっともない場面に登場する。今日だってそう、あの店であんなカッコ悪いキスを……見られた。

私のつぶやきに気付いて振り返った彼は、唇の端に煙草を咥えたまま小さく片手を上げた。

「やぁ、美咲ちゃん。やっとご帰還ですか」
「……何……してるんですか?」
「ん……そうだねー、ま、あれだ。君を待ってただけだよ」
「……お節介、なんです、ね……益田さんって。お節介……です……お節介……!」
「かもね」


さっき涙を流し尽くしたはずなのにまた涙が出る。今度は何の涙?哀しいのか情けないのか、それとも益田さんの顔を見て安心したからなのか、ただ泣けてくる。


どうしてこんなところで私は泣くの?
どうしてこの人の前で私は泣くの?
どうして?どうして?


ふと柔らかなぬくもりを感じて顔を上げると、益田さんの哀しそうな視線にぶつかった。ああ、このぬくもりはこの人の体温だったのか。初秋のひんやりした空気の中でこの腕の中だけは暖かく、そして居心地がいい。煙草と少し甘い香水の匂い、そして彼の匂い。

「美咲ちゃん……」


いつものように馴れ馴れしく名前を呼ばれて再び顔を上げると……突然キスされた。


先生じゃない、この唇のぬくもりは。
先生じゃない、この腕の温かさは。
先生じゃない、この優しく撫でる手のひらは。
でも、なぜ嫌じゃないの?


「なあ美咲ちゃん、もうやめな。あんなこと。……見ててオレの方がつらい」
「……でも」
「オレもさ、その昔零一から女を奪ってやろうとさんざんやらかしたけど、だめなんだよ。人の気持ちなんてそう簡単にあっちからこっちへなんて移すことなんてできないんだよ。そんなに簡単なもんじゃない」
「……わかってます、そのくらい最初から」
「でも……自分の感情を止められないんだろ?まあ、いいさ。今日はもう帰りなさい、そして顔洗って寝なさい、そして桃花ちゃんに会いなさい。全部それからだよ」
「……」

もう一度、彼は私の化粧がはげかけた額にキスを一つ落として、いつものバイクに跨って帰ってしまった。まるでさっき抱きしめたこともキスしたことも全て無かったことのように、さらりと私を置き去りにして帰ってしまった。全部それから……。

私だって最初からわかってた、彼女にはもう勝てないことくらい。そんなこと最初からわかってた、先生が誰を見つめていて誰を心から愛しているかなんて。でも、でもね、止められなかったのよ、自分の気持ちを。だってそんな簡単に二人を認めることができるくらいなら、最初から私は先生を好きにならない。素直にあの子の存在を認めたら私の感情の行き場がなくなる。

ねえ、益田さんはどうやってその気持ちに決着をつけたの?今はもうなんとも思っていないの?私もあなたのようにもう一度桃花との関係を築けるの?そして……あの二人を認められるようになるの?

きっと北川桃花があんなにイイ子じゃなかったら、私はこんなに矛盾する気持ちに苛まれることはなかっただろう。きっと先生があんなに真摯な人じゃなかったら、私はこんなに苦しまなかっただろう。

明日、桃花は私に会ってくれるだろうか。
会ってきちんと話をしたい、でもわかってくれるだろうか。




「誰だ?」
「オレ、お前寝てた?」
「…………いや……起きていた。こんな時間に何の用だ?」
「ああ、ちょっとさ、話あったんだ。でもいいや、明日にする」
「……小田島は?」
「は?」
「だから小田島は……彼女は……どうした?」
「ああ、ちゃんと帰ったさ」
「上がって来い」
「……」


もう3時近いんだぞ、いくら明日休みだからってまだ起きてたのか?お前にしては珍しすぎる、眠れないのか?ひょっとして。

上がって来いと不機嫌な声で言われ、急いで愛車を駐輪場に止めて、エレベーターを上がり零一の部屋に向かう。静かな廊下に薄暗い照明が灯りオレの足音だけが、どんなに控えめに歩いてもやたらに大きく響く。インターフォンを押さずにドアノブに手をかけると、ガチャリと重みのある音を発してあっけなくそのドアは開いた。

「よう、珍しくないか?お前がこんな真夜中に起きてるなんてさ」
「俺だってうまく眠れないことくらいある」
「小田島さんはちゃんと帰ったよ。さっきまで逢ってたけどさ」
「……益田。ひとつ聞きたい」
「なんだよ」
「誰かを好きになったとして……そういう感情は、ずっと変わらないものなのか?自分にその気持ちが向けられる可能性がなかったとしても、変わらないものなのか?」


零一…お前、何が言いたい?
何が言いたいんだ?
オレに何と答えさせたい?


「そんなの知るかよ」
「だが、お前はあの時綾美が好きだっただろう?」
「零一……お前……」
「しかし、あの時綾美はお前じゃなく俺を選んだ」
「だから……?」
「益田、あの時の俺が逆の立場ならどうしたかわからない。だが、俺はお前のようなことはしない、いやできない」
「何なんだよ、酔っ払いか?」
「益田……小田島を見ていられない。俺では何を言っても無駄だ」
「だがな、自分でケリつけなきゃどうしようもないんだ。オレは……自分でなんとかした。まあ、結局お前にゃ勝てないしお前を失うのももったいなかったからな。こんなおもしろい奴手放せるかっての」
「……なんだそれは」
「いっそもっときっぱり拒絶したらどうだ?もう大分気持ちが落ち着いてきてるようだったし、大丈夫だと思うけど」
「そうか……。また逢ったら謝っておいてくれ、小田島に」
「何を?」
「つ、つまり、あれだ。口付けたこと……をだ!」
「わかってる、桃花ちゃんにも黙っといてやるよ。そん変わり今度2曲弾いてけ。オレ帰るわ」
「ああ、いろいろすまない」

やっぱり全部知ってたか。オレが昔あの子にしたこと、言ったこと全部知ってたな、絶対。知ってて知らない顔をしてたのか、お前でもそんなことできるんだな。それとも、それも含めてそれほど綾美が好きだったことか。ならやっぱ選んだ時点で負けが決定だったんだろう。あの頃のオレなら他の男に抱きすくめられてキスされただけで拒絶してたかもしれないから。

小田島さん……ねぇ。お前オレにどうしろっての?
自分できっぱりふっちゃったらどうだ。
できない……だろうけど、変なとこで優しいからお前。




ドアを叩くしつこい音で目が覚めた。誰だこんな時間にって、そうか、もう昼の2時を回ってたのか。寝癖のついた頭を掻き回しながらゆっくりとドアを開けると頬を赤くした零一が立っていた。

「おま……それ、どうした?殴られたみたいだ……ぞ」
「益田、邪魔するぞ」
「あ、ああ……どうぞ」

なんだあの顔。初めて見た。この間からオレは零一の珍しい一面ばかり見ているような気がする。

仕方がないから眠気覚ましも兼ねてコーヒーを淹れようとコンロで湯を沸かす。その間上がりこんだ零一は勝手知ったる洗面所で赤くはれぼったい顔を洗っている。まるでひっぱたかれたみたいな顔しやがって、どうした?お前そんなへましたことねぇだろ、今まで一度も。

「突然、すまなかった」
「いや、いいけどさ。それどした?」

オレ達は香ばしい香りのするコーヒーを前に座り込んだ。

「桃花にひっぱたかれた。非常に痛いものだな」
「何かあった?」

たぶんオレは原因をよく知っている。だって今こいつらがこうなる理由といったらただ一つ、小田島美咲だけだ。彼女が桃花ちゃんに何か吹き込んだか、もしくは零一がへまをやったか、そのどちらかだ。

「桃花が……その、小田島に口付けたのかと……聞くから。そうだ、と言った」
「アホですか、あんた。どうして、してないって言わないんだよ」
「俺はいついかなる時も彼女に嘘をつきたくない……」
「で?」
「小田島が自ら言ったそうだ。そしてそんな風にキスする先生はずるい……と言って……やられた」
「ふーん。やるねー、彼女」
「真面目に聞け」
「ずるい……ねぇ。確かに。お前あの時これであの子がもう忘れるだろうとか一瞬でも思わなかったか?キスしてやったんだからもういいだろうって思わなかったか?えっ、どうだ?」
「……かも知れない。お前は……お前はあの時どうだったんだ?綾美に口付けた時何を思ってたんだ?」
「オレ?さあ、忘れた。でも、なんか脱力しただけだったな、確か。いっそ殴ってくれたらよかったんだよ、お前も綾美も。でも二人とも優しすぎ」
「そう、なのか?」
「ま、今お前がやらなきゃいけないことは一つだろ。桃花ちゃんとこへ行け。早く行った行った」


本当のことろ、二人に殴られたらよかったと思うよ、オレ。まあもっともその前に零一を殴っとくって手もあったけど、オレはできなかった。あいつもできなかった。なんなんだろうなー、友情って奴はさ。やんなるよ、まったく。

「なあ、益田。今夜貸切にしてくれないか」

零一は出て行きかけてぽつりと言った。そんなのOKに決まってるだろ。オレは黙って親指をくいっと上げて見せた。




眠れない夜を過ごして朝になった。


私の心とは裏腹に綺麗に晴れ渡った秋のひんやりした空気の中、冷たい水で顔を洗って携帯に登録してある桃花の番号を呼び出し、そのまま無機質な液晶画面をぼんやりと眺めていた。
何をどう言うべきだろう。

とにかく彼女に逢わなきゃ何も始まらないと彼は言った。けれど、彼女に何を言い、彼女の前で何をするかまでは教えてくれなかったから、私は自分の感情の海の中を迷いさまよっている。

実際私は私がわからない。いつの間に私はあの子のことを友人だと認識してしまったのだろう。いつの間に私はあの子に取りこまれてしまったのだろう。先生のことを好きだと思う気持ちに偽りはなかったけれど、今桃花に抱いている感情にも嘘はない。

早く出てほしい気持ちとこのまま出ないでほしい気持ちが葛藤する。
でも、桃花が携帯に出たら何を言うつもりなんだろう、私。
「ごめんなさい」それとも「大嫌い」それとも……?


呼び出し音はまだ続いている、留守電には切り替わらない。きっと携帯には私の番号が表示されているだろうから、やっぱり桃花は出たくないのだろう。でも優しいから電源を落としたり留守電にしたりはできないのだろう、きっと。桃花も先生も優しすぎる。いっそのこと、私が先生と抱き合ってキスしたなんて言った時に携帯の向こうで泣き喚いてあんたなんか大嫌いって言ってくれたらよかったのに。先生もあんな風につきまとってわがままを言い続ける私を、ひっぱたいてでも嫌いにさせてくれたらよかったのに。二人とも優しすぎるのよ、だから……あなた達が好きなのよ。本気で嫌いになれないのよ。……まったく。



15回。



プチ。

そうか、出たくないよね、やっぱり。私は昨夜の自分の行為でかけがえのないものを失おうとしているのかもしれない。桃花なんて大嫌いだったはずなのに……どうしてだろう、失いかけたとたんすごく胸が痛い。

ふいに携帯が鳴り、画面を見ると桃花だった。

「桃花?桃花なの?」
「美咲、今から会わない?」
「わかった、今どこ?」

最後の一筋だけでかろうじてつながった。

桃花に逢うために私は昨夜ぼろぼろになった自分をしゃんとさせようと熱いシャワーを浴びる。そして少しだけ化粧をして着替えをする。

あんなに嫌いだと思っていたあの子なのに、いざ失いかけると急に惜しくなるなんてどうしてだろう。
待ち合わせは臨海公園近くのショッピングモールにあるカフェで11時。


少し早く着いたつもりだったのにもう桃花は座っていた。コーヒーカップを両手で握り締めてぼんやりしている。あの子のあんなぼんやりした姿を見るのは初めてかもしれない。だっていつもあの子の周りには誰かがいて、いつも笑顔でいつも楽しそうに振舞っているところしか見たことががなかった。桃花を見ていたら人生に嫌なことなんて何もない、そんな印象を周囲に振りまいているようにしか見えなかったから。あんな顔をさせてしまったのは私のせい?それとも誰のせい?


「桃花、もう来てたの?」
「……えっ?ああ、そうなの。ちょっと早く来すぎちゃって。美咲は何飲む?」
「私もコーヒー」

バッグを置いてカウンターにコーヒーを買いに行く。長くなりそうな予感がして大きなマグカップにたっぷりとコーヒーを注いでもらう。相変わらず、一人になるとぼんやりとウィンドウの向こうを眺めている桃花。

「桃花、この間は……」
「わたしね、先生ひっぱたいちゃった」
「なん……で?」
「だって、一番悪いのは先生だよ。正直でいい人過ぎる先生が悪いのよ」
「それは……そんなこと、ないでしょ」
「ホントにそう思う?」

桃花はその黒目がちな大きな瞳で私をじっと見る。何もかも見透かされそうな深く黒い瞳。

「美咲が先生を好きなんだなってのは、気付いてた。先生に告白して振られたことがあるのも知ってた。だってわたし見たんだもの、高校生の時」
「う……そ?」
「ほんと。でもね、わたしも先生が好きだったし、簡単に気持ちなんて変わらない。変えられない、でしょ?」
「……」
「わたしだったら、キスだけじゃすまないわよ、きっと。絶対美咲には近づかないわ。……だって間違って友達になっちゃったら困るもの」
「桃花、私のこと嫌いでしょ?」
「嫌いになったら今ここに呼び出してない。嫌いになりたくないから話をしたかったの」
「……そうなの?」
「そう。でもね、わたしだっていつも不安だもの。だからいつも笑ってた。無理してでも笑ってないと不安で不安でどうしようもないんだよ。手を伸ばせば届く距離にいてくれることがわかってても」
「桃花……」

桃花はいつも不安だと言いながら、少しだけ笑った。でもその笑顔は私のいつも見ていた屈託のないものではなくて、大きな瞳には少しだけ影が落ちている。
意外、だった。

「美咲、今も好き?先生のこと」
「わからない」
「でも、今更譲ってあげないよ」
「何それ?」
「だって、わたしも美咲も人に譲られて誰かを好きになるなんて出来ないでしょ。少なくともわたしは嫌よ。先生だってモノじゃないし、わたし達も人形じゃない。感情なんて簡単にあっちこっち移動できるものじゃないでしょ。だから美咲は先生にからんだんでしょうに。……もう出ようか」

桃花?

ショッピングモールを出て、そのまま臨海公園に向かう。

なんだか私がこの子に勝てないわけがわかったような気がする。ふわふわしていつも幸せそうな顔で笑ってるだけだと思っていたのに、こんなことを考えていて、こんなにもきっぱりとした言葉を言える子だったなんて。

少し離れて歩きながら私は一生桃花には勝てないと悟った。もし、私が彼女の代わりに先生の恋人になれたとしても、きっとこんな風にきっぱりと好きなものは好きと言えたかどうか。たぶん言えない。

「美咲、ちょっと喧嘩しない?」
「桃花?」
「わたしね、さっきはあんな風にわかったようなことを言ったけど、ほんとうは美咲に先生とキスしたって聞いた時、すごく嫌だった。生まれて初めて全身の血が沸きかえるような感じがした……の。でもね、わたし、先生も美咲も好きだから。だからちょっとだけ喧嘩しない?」

ごめんと言って桃花は私の頬を軽い音を立てて手のひらでひっぱたいた。私も桃花の頬を軽く叩いた。もっと痛いものだと思っていたのに痛みを感じない、むしろ叩かれた頬が温かい。

「おあいこにしようか」
「桃花、ごめんね」
「こっちこそごめんね」
「でも……桃花って結構手が出る人なの?」

一瞬大きな瞳を見開いたかと思うと、大きな声で笑い出した。「かもしれないわね。敵に回したら怖いわよ」、なんて言いながら、彼女は笑う。つられて私も久しぶりに笑う。

私は決して彼女に敵わない。
どんなにあがいたところで彼女には、敵わない。
私にはそこまで好きな男を盲目的に信じるなんて、きっとできない。


「あのね、美咲。今から益田さんとこに行くけど、来る?」
「私行ってもいいの?」
「うん、零一さんにひっぱって来るように言われてるの。でも行くかどうかは美咲の自由だよ、無理することはないわ。どうする?行く?」




とりあえず、従業員には今日は休むとだけ告げて、店の扉には「Closed」の札を下げた。零一の奴が貸し切りにしてくれなんて言うから、律儀にもオレは店を閉めたまま何かを待っていた。まあ、恐らく零一が桃花ちゃんと一緒に来るだけだろう、ただなんとなくそう思って濃い目に淹れたコーヒー片手にいつ開くかもわからない扉を眺めていた。


そういや、美咲ちゃんはどうしただろう?
桃花ちゃんに会えと言ったけれど、本当に会ったんだろうか?
だとしたらどうなったんだろう、あの二人。


しかし、オレってばこと小田島さんに関してはお節介が過ぎるようだ。

「こんにちは、いいですか?」

ふいに扉が開いて小さくドアベルが反応した。冷めたコーヒーを流しに捨てながら顔を上げると、桃花ちゃんと例の彼女が立っていた。とっさにいつもの営業スマイルを被ってそっとうなづくと、二人は薄暗い店内に入り、初めて来た時のようにカウンターの隅っこ、いつも零一が座る席の隣に腰掛けた。

「いらっしゃい、お二人さん。今日は何がいい?」
「レモネードを二つお願いします」
「レモネード?」
「はい、二つ」

冷蔵庫から檸檬の蜂蜜漬けを取りだし、グラスに琥珀色の液体を注ぐ。さっき沸かしたミルクパンをもう一度火にかけながら、その間も二人が気になって仕方がない。結局どうなったんだろう。あの様子じゃこの二人に関してはマイナスにはならなかったようだけど。


お、今笑ったね、美咲ちゃん。
オレ初めて見たよ、君の作り物じゃない笑顔。
中々かわいいじゃないか。
ずっとそんな笑顔をオレにも見せてくれよ。
時には一緒に笑ったりしようや。



「益田さんって、一生懸命距離を取ってますよね」
「桃花ちゃん、急にどうしたの?」
「前から思ってました。零一さんとは違うけれど、必死で他人との距離を取りたがってる人だなって」
「それがどうかした?客商売なんだから、当たり前じゃないの」
「でも、美咲には関わってきますよね。どうしてですか?」


あー、この子はぼんやりして見えるけど、よく見てる。黒目がちの大きな瞳でそんな風に見つめられたら、そのまっすぐな瞳に見据えられたらオレ、どうしたものかと思うよ。何も言わなくたって全て見透かされてるような気分になってくるじゃないか。


「美咲ちゃんがオレに似てたから、さ。それだけ」
「似てるんですか?」
「そ、似てるね」

オレは少しばかり間が悪くなって、まだ夜にもなっていない時間だったがバーボンをグラスに注ぎ口をつけた。似てるって言ったのはまったく嘘じゃない。ある意味似ている。そう、ある意味似ているんだ。

人間には想像力というやっかいなモノがあって、自分と似ている人間を見つけた時には強力にパワーを発揮する。だってそうだろ、考え方とか行動様式とかが似てれば、相手が次に何を言いそうか何をしそうかなんて判るだろう、ある程度。そして困ったことに割とその通りなんだよ。

しかもそれがマイナスに作用しそうなことだったなら、気になるんじゃないか、やっぱり。


「益田さん、ごめんなさい。零一さんから」
桃花ちゃんが携帯に出るために、席を立った。オレと君だけになった。二人きりだな、また。
やっぱりオレと二人になるのは、嫌かい?居心地悪いかい?

「で、美咲ちゃん、どうなったんだい?結局」
「桃花には勝てないことがよくわかりました。それだけでもよかったのかも。でも……」
「でも?」
「たぶん、今度本当に誰かを好きになるまでは……時間かかると思います」
「そっか。ま、がんばんなさい、お兄さんみたいにならないように、ね」

桃花ちゃんが慌しく席に戻って来て、零一に急用ができたから来られないと告げた。
あいつ、わざとだな。
そして桃花ちゃんも急に帰ると言い出して、ごめんなさいと言いながら帰っていった。
あの不器用な二人が仕組んだにしちゃ、まあまあかな。まったく。



「益田さん、今度はちゃんとお客さんとして接してくれますか?」
「さあ、どうしようかな。美咲ちゃん次第さ」
「でも」
「ねえ、オレと美咲ちゃんには客と店主以外の選択肢って無いのかな」
「……」
「ごめん、ごめん、さっきのは冗談。気にしないで」
「益田さん、後ろ向いてください」
「後ろ?」

美咲ちゃんに言われるがままオレはカウンターの中で背を向けた。後ろで何か動く音がしたけど、振り返らないでいると、ふいにふわりと柔らかなものが背中に触れた。

「今だけ……お行儀悪くてごめんなさい……。でも、今だけ……こうしていたいの……」
「……いいよ」

カウンターによじ登った彼女はオレの背中にただ黙ってしがみついた。オレの背中なんて安いもんだよ、いくらでも君が欲しい時に貸してあげるよ。君を心から抱きしめてくれる相手が見つかるまでは……。それがオレだったら……もしそれがオレだったらって、そんな可能性あるのか?

そう思ったら、長い間封印していた感情が急に頭をもたげてきて、オレは彼女の顔も見ずに気持ちを伝える気になった。顔を見ていない分、言い易かったのかもしれない。最後までズルイ奴だな、オレは。


「美咲ちゃん、オレたぶん君が好きだよ」
「益田さん、私もたぶんあなたが好きです」
「そう。ありがとう」
「でも、もうちょっとこのままでいさせてください。明日には立ち直るから、きっと」
「ああ、いつまででもオレの腕は開けとくよ」



いつか、君の目に映る月が金色になるまで。
そして、オレにも金色の月が見えるまで。
その時は……きっと。



lilycs from "When I Fall in Love" words by Edward Heyman music by Victor Young
lylics from "Blue Moon" words by Richard Rodgers music by Lorenz Hart




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