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Rhapsody in blue



3月になるといつも俺はガーシュインばかり弾いている。

なぜだ?

理由なんてない、まだ俺は君を過去にできないから。
あの日から5年経った今でもまだ君は……俺の中で過去になってくれない。
いや、過去にできないのは…俺自身か、俺自身がまだ君に囚われているだけ、か。



「先生は永遠にわたしの先生です」



なぜ俺は君にアレほど惹かれ、そしてあの日この気持ちを君に伝えようと思ったのか。伝えないまま、ただの教師と生徒として卒業させた方がよかったのだろうか。毎年卒業式の後は必ずと言っていいほどこのくだらない質問を自分に問いかけ続けている、あの日から。そして、その間ずっとガーシュインを弾いている。ガーシュインのラプソディーインブルーを、何度も何度も壊れたオルゴールのように繰り返し弾いている。君のどんな答を期待していたのか、俺は。君も俺のことを好きだと言ってくれることを無意識に想定していたのか。そう思ったからずるい大人はあんな風に告白してしまったのだ、きっと。

バカだ。どうしてそんな風に思いこんだのだろう。いつも生徒に告白されそうになる度にそんなのは一時的なものだ、忘れなさいと言っていたのに、俺がこんなにたった1人の卒業生に未練を残していてどうするんだ。とてつもなくバカだ。それでもまだ忘れられない自分が嫌いだ。



「私は君のことを愛している」



今もその言葉は色あせることなく俺の心の奥底に眠ったままだ。君に惹かれて俺の乾いた心に少しだけ潤いが戻ってきて、なのにそのまま君をこの手からするりと逃してしまった。まるで一片の柔らかな羽根のように軽くふわふわと君はすり抜けていった。






あの日は少し風が強かった。


その頃君とよく放課後の人気のない音楽室で会話をするのが、半ば習慣のようになっていた。何を話すわけでもない、ほとんどは君が話すのを聞いているだけで、俺自身はその傍らで君のリクエストに応じてピアノを奏でるだけ。静かでそれでいて暖かい時間。あと1週間で君がこの学園から去るというあの日。登校日でもないのに君が俺を訪ねてきた。そして、いつものように音楽室に場所を移し、いつものようにピアノを弾く俺の横で君は他愛のないお喋りをする。いつもとかわらない、日常。いや、しかし、もうすぐ君はここから去ってしまう。それでおしまい。感傷的になりかけたところで、ふと君のお喋りがやんだ。

「先生、ラプソディインブルーってピアノで弾けますか?」
「ガーシュインのか?」
「ええ、わたしオーケストラのしか聞いたことないんですけど、ピアノだとどんなのかなと思って」
「あれは、もともとピアノ曲だから問題ない」

そう答えると急いで頭の中の譜面を繰ってその曲を取り出した。確か、こうだろう、といっても親父が弾いていたのを聞きかじっただけだからジャズアレンジされていて、クラシックとは少し違うが。まあ、いいだろう。最後のリクエストかもしれないから、久しぶりに明るく弾いてみるのも悪くない。

グランドピアノの正面の机に座って君はじっと聞いている。一音も逃さないように真剣な顔付きでじっと耳を傾けている。俺も一音たりとも間違えるわけにはいかなくなり、いつも以上に真剣に、いつも以上に君のことだけを考えながら弾くことに没頭した。弾き終えて君を見ると、その頬に一筋の涙が零れ落ちた。なぜ……泣いている?そんなに感傷的な曲でもないだろう。


「先生、今までありがとうございました。少し早いけど、わたしの感謝の気持ちです」
「待ちなさい、まだ……まだ1週間あるじゃないか」
「はい、でも、わたしいろいろと吹っ切れました。じゃあ、もう帰ります。卒業式でまた」
「何を、だ?何が吹っ切れたんだ?」
「秘密です。それじゃ今日は1人で帰ります。さようなら」

何が吹っ切れたというのだろう、彼女はにっこり微笑むと深くお辞儀をして静かに教室を出ていった。君が何かを吹っ切ったとしても、俺は何も吹っ切れはしない。ぱたぱたと廊下を駆けてゆく君の足音を聞きながら、再びピアノの前に座り、今度はなぜか無性にショパンが弾きたくなった。それもなぜだろうか、「別れの曲」を。

君が永遠にわたしの先生だと言った後、少し哀しそうな顔をした。精一杯胸を張ってさっきまでの言葉を帳消しにするかのように、すばやく教師に戻ったつもりだった。戻れたはずだった、君があの教会の重い扉を開けて外に出ていくまでは、俺は大丈夫だ、と思っていた。



「まだ、君を愛している」

君の影が消えた後、1人教会に取り残された俺は、久しぶりに少し泣いた。心が痛くて堪らなかったから、だから、俺は……泣いた。自分で思っていた以上に君だけを愛していたから……。だから……。

あの後、俺は君の思い出のつまったこの学園にいたたまれなくなり、理事長に辞表を提出した。しかし、結局イギリスの姉妹校に出向しただけだった。理事長は気付いていたのかもしれない、あの人はこういったことには敏いところがあるから。だから、辞めさせもせず、5年という長い年月外で傷を癒してこいと、そういうことだったのかもしれない。しかし、まだ、俺ときたら……。5年ぶりに帰国し、5年ぶりに出勤し、自然にこの教会に足が向くなど、どうかしている。まだ、俺は君にこんなにも囚われている。どうしたら……。

「君をまだ、俺は……」



「先生……?氷室先生?わたしです、覚えてらっしゃいますか?」
聞き覚えのある声に振りかえる。そこには……なぜ?なぜ……今、ここに君が……?なのに逃げてしまった、今度は俺の方が君から。





今教会の前に淋しそうな顔で立っていたのは……氷室先生だった。絶対に間違えようがない、わたしが好きだった人だもの。そのもの哀し気な横顔に声を掛けるかどうかちょっとためらったけれど、思いきって声を掛けてみた。なのに、あの人は一瞬だけこちらを振り向いただけでそのまま身を翻して去ってしまった。

あの時と逆か、あの5年前の教会とは反対に、今度はわたしから先生が逃げてしまった。

もうあれから5年も経ったんだし、さすがの先生も結婚したか、それとも彼女がいるかどっちかだろう。わたしにだって…わたしにだって今は別れたけど恋人と呼べる人がいたのだから……。

大好きで、感情を持て余すほど先生を好きになりすぎて、わたしはあの日逃げてしまった。先生の率直すぎるくらい率直な心情の告白が嬉しかったくせに、口をついてでてきたのは模範的な断りの言葉。卒業する直前に、「ラプソディーインブルー」を聞きながら、わたしはあなたの生徒でい続けることを自ら選んだから。わたしは自信がなかったから、ただそれだけのこと。

だから、後悔することはない。なのに謝恩パーティが終わって一夜明けて、1日中泣いていた。涙が止まらない、というのは本当だった、3年間のわたしの思いをきれいさっぱり洗い流すためにはあれだけの涙が必要だった、けど。今日あなたを見てやはり平静ではいられない、改めてまだ先生のことが好きだということに気付いてしまった。今更どうしようもないのに……。

ラプソディーインブルーを耳にする度、わたしの胸は痛くなる。一流大学に入ったもののやっぱり同じ街に住んでいる限りあなたの影から逃れられない。自分から振っておきながら、未練がましく学園前まで何度足を運んだことか。そのたびにつらくなり、情けなくなり、この街が大学が嫌いになっていった。でも一番嫌いになったのは、誰あろうわたし自身。身勝手なわたし自身。

彼から逃げるように交換留学の試験を受け、イギリスに渡った。ラプソディーインブルーが聞こえないように、この曲からも遠ざかるために、彼を連想する思い出すものからできるだけ遠くへ……と。とにかく離れなきゃいけない、お互いのためにも。

4年ぶりに訪ねた学園は、今も変わらない。春から東京で一人暮らしを始める前に一度確認しておきたかった、あの人を吹っ切れたかどうかを。なのに足は自然にあの教会に向かい、そして、たたずむ先生を見てしまった。一瞬で時間が逆戻りしていた。でも、どうにもならない、結果は覆らない、絶対に。

追いかければよかったの?追いかけて何か言えばよかったの?今更好きでしたっていうの?去っていくその背中に何を問い掛ければよかったと言うの?誰か答えを教えて……。

そのままどこをどう歩いたのか、いつの間にか臨海公園に辿り着いていた。この景色は今も全く変わらない、あの頃先生の車の助手席から眺めていた頃と変わらない。だけど、あのころのきらきらした眩しさはもう……ない。




「おい……お前、桃花。帰ってきてたのか?」

肩にそっと暖かい手が触れて顔を上げると、そこには懐かしい顔があった。葉月くん、だった。

「あ、葉月くん……。久しぶり、元気だった?」
「ああ、お前は元気ない、な」
「へへっ、そんなことないよ、全然そんな……こと……」


いやだ、何で今頃涙が出るのよ。わたしの涙は卒業式の翌日に一生分流してしまったんじゃなかったの。よりによって葉月君の前で、こんな。ふんわりといい匂いと一緒に肩に暖かさを感じる、葉月くんがわたしの肩を抱いている。そしてその緑の瞳が心配そうに揺れている。

「泣けよ、好きなだけ」
「でも……」
「いいから、じっとしてろ」


夕暮れの臨海公園でわたしは葉月くんに肩を抱かれてしばらく泣いていた。この人は不器用なくせにこんなにも優しい……まるで先生のよう。でも先生じゃない、この腕もこの胸もこの声も全部葉月君だ。

「お前が泣くのは……氷室のせいだろ」
「えっ、それ?」
「俺知ってた。お前が氷室のこと好きだったこと。氷室しか見てなかったこと。俺はお前しか見てなかったけど」
「ごめんね」
「でも、お前知ってたのか、氷室の気持ち」
「うん、知ってた」


そのまま葉月くんはぎゅっとわたしを抱きしめた、この人に告白されていたらわたしは受けとめていたんだろうか、あの時。でも、きっと、だめだろうな。氷室先生じゃないから。氷室先生以外は見えてなかったから、ごめんね葉月くん。ごめんね。

「知っててお断りしちゃった。バカだよね、好きだったのに、まだ忘れられないのに。あ、さっきね、見たのよ先生を、でも逃げられちゃった。あははっ、バカだわわたし」
「みんなバカだ、俺もお前も氷室も。大切にしすぎて手放してしまったから」


その通りかもしれない、葉月くんの言うとおりかもしれない。みんなバカだったのかもしれない。相手のことだけを考えて自分の気持ちを抑えて、それで納得したふりをして、なのにまだこんなにも拘ってる。

「まだ好きなんだろ、お前、氷室のこと」
「……!」
「氷室もまだ忘れてない。この間見かけた時、すぐわかった」

でも、わたし逃げられたんだよ先生に。淋しそうな顔をした先生に。

「連れてってやる、氷室んとこ。決着つけろ。お前も歩き出す時期だ」

そう言うと葉月くんはわたしの腕をつかんで歩き出した。歩き出す……何から?どこから?誰のもとから?





痛いくらい強く腕を引っ張られて連れてこられたのは、見覚えのある扉の前だった。確か「cantaloupe」、益田さんのお店。まだclosedの札がかかったままの店内に人の気配はあるけれど、こんなところに連れてきていったい葉月君はどうしたいの?わたしに何をさせたいの?

「ここって……?」
「ああ、氷室の友達の店。きっといる」

重い扉を開けるとそこでは、5年前と変わらない笑顔で益田さんがカウンターの中からわたし達を迎えてくれた。昔はその笑顔がわたしにとって親しみやすく、先生のお友達のお店というだけでここに連れてきてもらった時は、嬉しくてよく眠れなかったのに…。入り口の重厚な扉の前からわたしは動けない。だめだ。入っていけない。ここに先生がいるならなおさらだ。

「マスター、先生は?」
「君達が探してるのが、どこかのヤボな数学教師ならいるよ。奥で1人で飲んでる。しっかし、今日はやけに開店前の客が多いな」
「どこかのヤボな数学教師を探してたので……。マスター奥、いいですか?」
「いいよ、君達もなんか飲む?」
「後でいただきます。ほら、桃花、行くぞ」

嫌だよ、今さら先生に逢えないよ、だめだよ。

一生懸命扉に張りついてみたけれど、葉月君のかつてない強引さに負けてしまう。今日は…明日も、きっと明後日もあの人に逢えないよ。……泣いちゃうから。奥にいるといってもカウンターでもボックス席でもなく、従業員用の休憩室のことだったようだ。すたすたとそう広くもない店内を横切り、葉月君は無表情に歩いていく。わたしはというと、臨海公園であってからずっと手を握られたまま、まるで手を離すとここからわたしが逃げ出していくかのようにしっかりと握り締められている。これが、高校生の時だったなら、人並みにどきどきしたのだろうけれど、今のわたしには彼の手は手錠にも等しい。

ドアの前で一旦立ち止まり、軽くノックする。返答はない。それでも今日の葉月君はそのままずかずかと中に入りこんでいく。

そこには、上着を脱いでネクタイを外し、あまつさえYシャツのボタンさえはだけた先生がぼんやり座っていた。目の前の小さなテーブルの上にあるのは、ウィスキーの瓶と溶けかけた氷の浮かんだグラス。氷が溶けてテーブルの上に大きな水溜りを作っている、それを拭いもせず脱力したように座っている。先生、いったいいつから飲んでいたんですか?小さな部屋がアルコールの匂いに満ちている。そして初めて見る先生のこんな姿。リラックスしているのではなく、何か泣いているようなお酒の飲み方。わたし達が入ってきたのにも気付かず、溶けて水っぽくなったグラスをじっと見つめたまま……微動だにしない。

胸が痛い。

「先生、葉月です」

葉月君の声にゆっくりとこちらに振り向き、わたしの上で視線が止まる。けれどそれは一瞬のことで、すぐに彼の方に目が動く。

「……どうした。こんなところに」
「話があります。俺にも一杯ください、それ」
「あ、ああ、いいだろう。しかし、グラスが……」

その時、薄いドアがノックされて、マスターがグラスを2つとアイスペールを持ってきた。無言で葉月君に手渡すと、軽くその背中をたたいて出ていった。先生の水っぽくなったグラスの中のものを、小さな申し訳程度についている洗面台に流すと、慣れた手つきで3人分の水割りを作っていく。

「それで、葉月。何の話があるんだ?」
「先生、いや氷室さん。こいつのこと、どう思ってるんですか?」

その瞬間ホールの方から微かに聞こえていたレコードの音が聞こえなくなった。確かに音はしているのに、わたしのまわりから一切の音が消えてしまったかのように、静かになった。返答を促すように先生から視線を外さない葉月君、グラスに目を向けてしまった先生、どうしていいのかわからずにうつむいてしまったわたし。3人の間には今、とてつもなく長い時間が……流れている。

「……聞いて……そんなこと今聞いて、どうしたいんだ?」
「5年分の決着をつけたいだけです、俺」
「決着……?」
「はい、3人ともいい加減はっきりすべきなんです。じゃないと、歩けない、俺達」
「……」

グラスのウィスキーを一気に飲み干すと、先生は長い長いため息をついた。

「私は帰る」

すっと立ちあがると、投げ出してあった上着をつかみそのまま出て行こうとした。また……逃げられる、先生に。あの日からずっとお互いに逃げてばかり……でも……。

「先生、あんたの答えはそれか。」

ドアに手を掛けたまま背中越しに先生は言った。

「……ああ、それで正しい。」





俺に今更何を言わせたいのだ。

葉月、君が北川のことを想っていたことは在学中から気付いていたとも。
そうとも、あの頃からずっと知っていたとも。
知っていたくせに、気付かない振りをしていた、そんな自分のことも知っていたとも。


狭くアルコール臭い部屋から、今すぐ俺は逃げ出したかった。まっすぐな葉月の言葉に耐えられなかった、彼女の悲しげな視線に耐えられなかった、そして最も耐えられなかったのはすぐにでも北川を抱きしめて唇を奪いたい衝動を抑えきれない自分に、だった。だから、振り返ることもせず部屋を出た。

「バカじゃないのか、お前。10年前と同じことしてさ。こういうのは学習しないのか、えっ、先生」

益田、お前って奴は……。

「……帰る」
「ああ、帰れ帰れ。とっとと帰って頭から水でもかぶって寝たらイイさ」
「……るさい。」

自分ではそんなに酔っているとは思っていなかった。普段ならたった水割りの2、3杯で酔うことはありえない、しかし、不覚にも少々足元がふらつく。そして派手な音を立ててカウンターのスツールを蹴倒してしまった。だめだ、起き上がれない、しかし、俺はここから出たいんだ、こんなところにいてもうじき帰るだろうあの二人と鉢合わせしたくない。これ以上みっともないところは見せられない。これ以上みじめになりたくない……。

「悪い、ちょっとこいつ上に放りこんでくるから、奥の二人になんか出しといて。あ、プレートはひっくり返しといてね。しばらくしたら帰ってくるから」

益田の声が聞こえる、あのお節介め、俺にかまわず店を開けたらいいんだ。俺は1人で帰るんだ。そう思う気持ちとは裏腹に益田に強く腕を捕まれ、そのまま店を出て奴の自宅に向かう。といっても、店舗兼用だからすぐ上だ。

ふらふらしたおぼつかない足取りで階段を昇り、益田が自宅のドアを開けると同時に二人して玄関になだれ込む。あははっ、これじゃまるで学生時代のようじゃないか。あの頃は酔っ払って前後不覚になるのはいつもお前の方だったのに、いつから逆になったのだろう。益田は黙って冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを持ってくると、いきなり俺の頭に水をぶちまけた。何をする……。

「な……!」
「バカはこんくらいが丁度いいんだよ。ホレ、タオル」

水の冷たさに思わず肩を竦めたが、濡れた髪からは雫がたれる。ぽたりぽたりと、まるで涙のように雫が零れ落ちる。その滴る水滴をぼやけた瞳で見つめているうちに、少しずつ醒めてきた。確かに俺は大バカだ。10年前と何も変わっていない、むしろ、あの頃より年を取った分よけいなことばかり身につけてしまったようだ。大切なものを見失って気付かない、そんな哀しい男になってしまった。

「バカ……だな、確かに……」
「ああ、昔と同じで進歩がない。お前は本当に好きな女をしばらく引きずる悪い癖があるからな。あの時だって死にそうだったのに、また同じことしてるよな。いい加減にしろよ、零一」
「……」

俺だって、俺だってあの時は死にたくなるくらい後悔したさ。あんなに彼女のことしか考えられなかったくせに、自分から手放してしまったから。そしてようやく立ち直って、今度は絶対に同じことはしないと誓ったのに。それなのに、この10年何も変わらない、また同じことを繰り返している。

「好きなんだろう?あの子のこと」
「ああ、愛している、心から」
「じゃあ、それだけで十分じゃないのか?他に何が必要なんだ?彼女だっておまえのことまだ好きだよ」
「……わかった。さっき気付いた」

だんだんと頭がはっきりしてきたようだ。もやもやした風景の中から大切なものが少しずつだが、形になって見えてきた。彼女だ、北川桃花だ。俺が失ってはいけないものは、彼女だ。いや恐らく最初からそうだったのだ、あの卒業式の日からずっとそうだったのだ、俺はあのとき君を追いかけてもう一度振り向いてほしかったのだ。もう一度君に笑顔で振りかえって欲しかったのだ。だが、しなかった。できなかった。追いかけたならば彼女はどういう反応をしてくれたのだろう、それでも、だめだっただろうか?それとも……?

「葉月のことだったら、気にすることないと思うよ。奴はもう吹っ切れてるさ、見たらわかる。ぐずぐずしてるのはお前とあの子だけさ」

そう、なのか?俺と彼女だけが今だに過去に囚われたままだと……?確かにさっきの北川の俺を見る瞳には昔のような、明るさが欠けていた、何が君の瞳をそんな風に曇らせてしまったのだ。いや、そうしたのは俺……か。俺のせいか。

「なあ、今更とか思ってねぇか?」
「……」
「諦めがいい振りして諦めの悪いお前、すごくかっこ悪いよ。いいじゃんか、諦めが悪くたって、それだけ、好きなんだったら、さ。……今日、泊まってけ。そうしろ。じゃ、俺店出るから」
「すまない……」

振りかえった益田は、唇の片方だけでにやりと笑ってみせた。

「今夜は……雨でも降るか?」





「あいつなら、今、上でひっくり返ってるよ、どうする?」

店に戻ってきた益田さんはそう言って少し笑った。先生が出ていった後、わたし達はなす術もなく冷たく閉ざされた扉を、ただ黙って見つめていることしか出来なかった。無言のままの葉月君にそっと肩を抱かれて店の方に出てきた時には、益田さんはいつものようにカウンターの中にいて、反対に先生はどこかに行ってしまっていた。そして無言のまま二人でよく冷えたミネラルウォーターのグラスを見ていた。

どうするって、何をどうするの?

葉月君はその水を一気に飲み干し、彼もどうするとその瞳で聞いてくる。


どうするって?どうしたいのわたしは?今どうしたいの?


誰も答えを教えてくれない。当然か。わたし自身が決めるべきことだもの。葉月君や益田さんはわたし達に付き合ってくれているだけで、彼らに聞いても何もわたしが今しなくちゃいけないことは教えてくれない。

「俺……もう少しここにいるから、お前は思うようにしろ」
「うんうん、君の心のままに、ね」


そうして益田さんはポケットから何か取り出すと、わたしの手を取った。手のひらに触れたのはひんやりした感触の金属、鍵、だ。そして身振りで上を指差すとちょっと片目をつぶってみせる。行けってこと……?わたしも……行きたいと思っている、そう望んでいる。でも先生はわたしを望んでくれるのだろうか?わたしのことなんてやっぱり嫌いなんじゃないだろうか。

ダメでも拒絶されてもそれでもやっぱりわたしは先生に逢いたい。この5年間の後悔と吹っ切れないこの気持ちをあなたに伝えてからでないとわたしは前に進めない。だから行こう、上に。

「葉月君、1時間経っても帰ってこなかったらもう帰って……」
「……ああ、わかった。がんばれ」


彼はそう言うと益田さんに何かオーダーしたようだった。わたしは残っていた1杯の水を飲み干し、鍵をぎゅっと握り締めて外に出た。何かを握り締めていないとそこから決意が零れ落ちそうだから、だから、痛くなるほど手を握り締めた。


ああ、もう夜なんだ。


今日は月が綺麗。昔、先生に送ってもらった帰りに二人で見上げた夜空にも、こんな風にまんまるい月が輝いていた。あの時から本当はわたしの気持ちに何の変化もない。一欠けらも欠けるところのない今夜の月のように、先生に対する気持ちは変わっていない。あの月はあれから幾度この夜空を回ったのだろう、見上げたその先にあるのはあの頃と同じ表面なのに、今夜の月は泣いている。月の涙が見える。

そっとドアを開けると、煌煌とした明かりの中ソファに寄りかかって目を閉じたままの先生がいた。かなり酒臭く、部屋は春先だというのにむせ返るようだった。健やかな寝息を立てて先生は少し不自然な態勢でぐったりと横たわったまま動かない。これで寝息が聞こえていなければ、きっと死んでしまったと思うだろう、そのくらいぴくりとも動かない。

どうしてそんな飲み方をしたんですか?
どうしてそんなにわたしを見る瞳が哀しそうなんですか?
どうしてそんなに……?

いやだ、堪らない、わたし……どうしたらいいんだろう。この人をこんな風にしてしまったのは、まぎれもなくわたしだ。あのときどうして引き返さなかったんだろう、あのときどうしてこの人の手を取らなかったんだろう、あのときどうして…。心に湧き上がってくるのはあの時への謝罪ばかりだ。

なぜだか少し湿っぽい彼の前髪をそっと掻き揚げて、その額に口付けた。お酒の匂いと先生の匂いがする。その匂いに酔ったのか、今度は薄く開いたその冷たい唇にも口付けた。

「先生、ごめんなさい……」

その時なぜ謝ったのだろう。それ以外に言葉が見つからなかったから。初めて素直な言葉を彼にぶつけたような気がする。

小さくうめいて寝返りを打つ先生。気付いているのだろうか、わたしが口付けたことも、謝ったことも何もかもすべて。

再び先生の苦しげな寝顔を見つめたまま、座りこんでしまって動けない。何時間でもここにいたい。ここであなたの気が済むまであなたに謝りたい。

視線を感じて顔を上げると、空ろな瞳とぶつかった。

「君は……なぜここに……?」
「先生、ごめんなさい。帰ります、わたし」
「……」

あの頃のような強い瞳ではなく、力のない弱々しい瞳の先生。見ていられない。でもこれも氷室零一であることには変わりない。でも……今は、だめだ。のろのろと玄関に向かい、靴を履こうとしたその時、後ろから先生の声が聞こえた。

「桃花、待ちなさい。いや、行かないでくれないか。頼む」





「俺は……今更、なんて思わない」

彼のその言葉はわたしの心にさっくりと音もなく突き刺さる。

わたしをしっかりと抱え込んだままの先生の唇から零れ落ちる言葉。嬉しい……けれど、あのころのように単純に喜べない。そしていつのまにか自分のことを「俺」と言い始めていたことに今更気付き、不思議な気分になる。……やっとこの人の本音が垣間見えたような気がしたが、それでもまだわたしの先生、いつまでもわたしの先生なのだ。このことにまだ拘っているのはたぶんわたしだけ。


「帰ります、わたし……」
「なぜだ?」
「今のわたしはあまりにも感情的になり過ぎてるから……1晩下さい。そして明日逢いましょう、先生」
「……そうか、そうだな。そうしよう。君が私に逢う気になったら連絡しなさい。時間を作る」
「ごめんなさい、先生」
「……いや、すまなかった」

このままあなたとずっと一緒にいたい、心はこんなにも求めているのにどうしてこんな残酷なセリフが言えるのだろう。どこかで自分を抑制している、まだ溺れたくない自分がもがき続けている。何をいまさらこんなにためらう?先生も再び「私」に戻り、あの頃の冷静な氷室零一に戻り始めている。ためらいがちに絡められた指がゆっくりとほどけ、そして、最後についばむようなキスをして、私達は別れた。……また別れてしまった。

大人になることは、素直に感情を表すのを止めることなのか、そんな大人にはなりたくないと思っていたのにさっきの自分は吐き気がするほど嫌った嫌な大人だった。素直にその腕に飛びこんであの人に抱いてもらえばよかった……あの人の腕にこの感情を絡めとられればよかった……そして何もかも忘れればよかった……。

明日逢いましょう、そう言ったのにわたしはこの1週間というもの何の連絡もしていない。というより、連絡のしようがなかったのだ。あの頃もらった携帯番号は卒業式の日に捨ててしまったから、今はもうない。かといって自宅にかけるのもためらわれ、指が覚えている番号を押しては最後のたったひとつのボタンを押しあぐねて、1時間たつこともざらだった。でも、このままじゃいけない。そんなことは痛いほどわかっている。

あれから、そろそろ10日が経つ。やっとのことで決心がついたわたしは、Cantaloupeに行くことに決めた。今日はどういうわけか、先生が店に来るような気がしたから、今日しかないと思ったから。だから少し遠いけれど歩いて店に向かった。

わたしの恋はCantaloupeで始まり、Cantaloupeで決着がつくのかもしれない。この長い長い5年間の恋が今日終わるかもしれない。先生はあの夜今更なんて思わないと言ってくれたけれど、わたしのあの時の告白は、やはりずるいことをしたと思っている。だって、好きだったなら、今更忘れられなくて困るくらいならあの時先生の手を取ればよかっただけのこと……。たったそれだけのこと。だから、今夜は先生に嫌われにいく。そして二人とも5年間の呪縛から解き放たれてすっきりしましょう。それが……運命ならば、そうしましょう。

店の前で少しためらったけれど、もう店内は少しざわついていて、それなりにお客さんが出入りしていた。30分くらい外で立っていたものの、意を決して重い扉を開いた。

重い扉の隙間から聞き慣れた、でも聞きたくない曲……が流れてきた。

レコードじゃない……これは紛れもなく最後に先生に弾いてもらった、ピアノが奏でるガーシュイン。

自然に涙があふれ、そして零れ、頬をつたう。黒く光るグランドピアノの前には…やっぱり先生。あの時以上に切なく聞こえるラプソディインブルー。わたしの暗い心に染み渡る哀しい調べ。先生の弾くこの曲は、いつもなぜだかわたしには哀しすぎる。

「先生……」

……泣きながら、わたしの心の絡み合った糸が解けていく。

「先生……わたし……」





あのまま帰るという君を無理矢理にでも泊めればよかったのか?
感情のままに君を抱き、そして……俺のものにしてしまえばよかったのか?


だが、そんなことをしたところでどうにもなりはしない。君が静かに出ていった部屋で1人、ぬるいビールを飲み、面白くもない深夜の恋愛映画を眺めていた。ふいに普段は吸わない煙草が吸いたくなり、勝手に益田の煙草を一本くわえる。ライターが探し出せず、ガスコンロの火をつけてその青い炎から煙草に火を移す。口先だけで煙を吐き出し、あまりのまずさに顔をしかめてはみたものの、とりあえずぎりぎりまで唇にはさんだままぼんやりしていた。


---感情的になり過ぎている。


それはたぶん俺の方。

あれでよかったのだ、あの夜そのまま君を帰してよかったのだ、きっと。さもないと俺は君にひどいことをしていたかもしれないから……。


結局あれからなんの連絡もない。

君のあの言葉は嘘だったのか?それとも惨めな俺に対するただの同情だったのか?

だがあの時の君の唇の暖かさには嘘は感じられなかった。

あの日から毎晩夕方になると益田の店に向かい、そこで閉店まで過ごし、寝るためだけに自宅に帰る。そうでもしないと、一人で過ごす時間が耐えられないから、君をこの腕に抱きしめることばかり考えて堪らなくなるから、だから夜毎この店でピアノを弾き酒を飲む。

その日もいつものように店に行き、ピアノを弾いていた。君に再会してから控えていたあの曲をなぜか無性に弾きたくなり、モノクロームの鍵盤の上に指を置く。そして弾き始めた、高校時代君に捧げたラプソディインブルーを。

扉が開く気配は感じられたが、今夜はやけに客の出入りが多いから、特に気にも留めなかった。

「先生……わたし……」

ざわざわした喧騒の中、君の声が聞こえたような気がした。

……泣いていた。君が……泣いていた。

そこだけぽっかりと切り取られたように君がくっきりと視界に飛びこんできた。青い花柄のスカートが揺れている、白いブラウスに包まれた君の心が揺れている。そしてその瞳からあふれ出る涙を拭おうともせず、じっと俺を見つめる君。

「北川、いや、違う桃花……」

演奏を途中で放りだし、扉の前から動かない桃花が折れそうなほどしっかりと抱きしめた。

……衝動。

まさに衝動。

「まだ愛してるんだ……桃花」





「まだ愛してるんだ……桃花」



あなたの声だけがバーの喧騒を突抜けてまっすぐにわたしに届いた。ざわざわとした空気の中で彼の声だけがわたしの耳に飛びこんできたのだ。

なぜわたしはあの人のピアノで泣いたのだろう、5年前のあの日も同じようにこの人の弾く「Rhapsody in blue」を聞きながら涙が溢れていた、あれはどうしてだったのだろう。5年前と違うことは、わたしの体がしっかりと先生の腕の中に抱きとめられていること、名前で呼ばれていること、そして何よりもやっと大事なことに気付いたこと。二人ともずいぶんと回り道をしたから、今、この暖かい腕の中にいることが信じられない、でも信じたい、今度こそ、先生の言葉の重さを信じたい。

そのままあなたに肩を抱かれたまま外に出る。

そこは月もない星もない真っ暗な夜の闇の中で、厚い扉に閉ざされてさっきまでの喧騒はもう聞こえない。二人のかすかな息遣いと、時折走りすぎる車の音、それ以外何も聞こえない、何も耳に入らない。そのまま再び先生の腕の中に閉じ込められて、初めて気がついたうっすらと漂う香水と煙草とアルコールの匂い。でもこの間5年ぶりに逢った時とは違って、不快感は感じない。むしろ帰るべき場所に帰ってきたようで懐かしく、安らかな気分だけを感じる。

ああ、どうしてあの時素直にこの人の胸に飛び込めなかったのだろう、こんなにもこんなにもこの人のことを愛しているのに。幼すぎたのかもしれない、怖かったのかもしれない、ううん、たぶん一番の理由はわたしだけが愛しすぎてしまいそうだったから……だからあの時差し出された手を取らずに逃げてしまったのだ。

「先生……?」
「桃花、もう俺は君の先生ではない」
「零一……さん?」
「……桃花、俺はずっと呼びたかった、君の名前を。この5年いつも心の中では君のことを名前で呼んでいた。すまなかった。それ以外何もしようとしなかった」
「どうして謝るんですか?わたしだってずっと先生と呼びたくなかった……」


突然上から口付けが降ってくる、優しいついばむような口付けがわたしの頬に、額に、唇に…何度も何度も存在を確かめるように、降ってくる。

「俺は君のことを愛していた。教師にあるまじき感情だ。だが……ごまかすことができず君に告げてしまった。逃げられて当然だ」
「零一さん……」
「葉月が君を好きだということも知っていた、だからてっきり俺ではなく葉月を選んだものと思っていた。だが、違ったようだな」
「わたしは……あの頃からずっと先生だけでした」
「では、なぜ……?」
「いつかわたしの気持ちであなたを殺してしまいそうだったから、です」
「君は……!」


見上げると、いつも毅然として冷たいくらい冷静な氷室零一はそこにはいなかった。泣きそうな顔でわたしをじっと見つめるだけの氷室零一がそこにいた。口付けるために少し緩められていた腕が再び強くわたしの体に回される。そして少し震える声でわたしに囁く。

「君になら殺されてもかまいはしない。だが、二人で共に生きている方がいいとは思わないか」

殺されてもかまわないなんて、どうしてそんなことを言うんですか、先生。わたしは、幼い心であなたのことを思い詰めていたから、将来あなたに嫌われるようなことがあるなら、あなたを殺してわたしも死ぬ。そんなどこかの古典小説のようなことばかり考えていた。けれど、今は違う。

真っ暗な夜空から雫が一滴。やがてそれは連続して顔にかかり、静かに服を濡らしていく。昨日まで心に中にいつも降っていた雨が、今日は暖かく優しい雫となってわたし達を包んでいく。

やっとたどりついた二人の場所。
やっと気付いた大切なもの。

今夜の雨を決して忘れない。
今夜のあなたの腕を決して忘れない。
今夜のあなたの口付けを決して忘れない。

「君が嫌いだと言っても、もう俺は信じないからな」
「わたしも信じませんから、零一さんが嫌いって言っても」
「……愛してる」

濡れた体を温めるように寄り添い、そして……。



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