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華やかな雪

「先生、リクエストしてもいいですか?
「ああ、構わないが……」
「どうかしました?」
「いや、なんでもない。気にしなくともよろしい」
「じゃあ……」












元生徒だった彼女と付き合い出してから、初めて二人で過ごすゆったりとしたクリスマスの夜。

もう卒業してから9ヶ月が経過しようというのに、あいかわらず彼女は俺のことを『先生』と呼ぶ。俺はできるだけ自然に君の苗字ではなく名前の方で呼びかける。もし、万が一彼女が俺の言葉を受け止めてくれたなら、その時は必ず学生時代を思い起こさせることのないように名前で呼ぼう、そう思っていたし実際そう努めている。しかし、彼女は時折俺の名前を言いかけるものの、実際に口から出てくるのは『先生』という単語だった。
あの卒業式の日に、ドライブに出かけた先で軽く触れるだけの口付けを交わして以来なんとなくその唇に触れることことをためらってきた。その理由は……たったひとつ。桃花が何気なく口にする『先生』と言う単語に過剰反応してしまうからだ。


つまり。


口付けようと肩に手を伸ばし引き寄せた瞬間、目を閉じた君が『先生』と小さくつぶやく。そこで俺の思考は一瞬止まり、小さな罪悪感を覚えてしまうからだ。今更そのようなことを考える方がばかばかしいと思いながらも、どうしてもそこから抜けきれないで堂々巡りを繰り返してしまうのだ。





「先生?どうしたんですか?」
「あ、いや、なんでもない。クリスマスソングとは、メル・トーメのか?」
「はい。この間FMでかかってるのを聞いてからいいなーと思ってて。だめですか?」
「いや、構わない」
「ピアノだけだとまた全然違う音になるんでしょうね」
「かもしれない」



学生時代、放課後の音楽室で一人ピアノを弾く姿を見られたことがあった。その頃から自分の気持ちを自覚していたのかはわからない。リストのあの曲に自分の気持ちを重ねていた訳ではない。どちらかというと、ただなんとなくピアノの前に座り、鍵盤の上に指を重ねた時に自然に奏でてしまったのが本当のところだろう。
だが、彼女の前で図らずもピアノを弾いたのは、放課後を含めてもたったの2回。去年のクリスマスに益田の店で弾いたきりだ。

「君は何か欲しいものはないのか?」
「えっ?どうしたんですか?突然」
「どうもしない。ただ、あまりにも何も言わないからだ」
「そんなことないですよ」
「そうか?」
「はい」


以前彼女に聞いたことがある。
俺みたいな男と一緒にいて楽しいのかと。そうすると彼女はにっこり笑ってこう答えた。わたしが一緒にいたくているのだから楽しい、と。


「桃花」
ピアノの鍵盤に視線を落としたまま、彼女の名前を呼ぶ。呼ばれたとたんに少々頬を赤らめる癖は未だに直らないが、それでも以前のように黙って俯くことがなくなっただけでも進歩だろう。

「はい」
「差し支えなければ、今日を境に俺のことを『先生』と呼ぶのは止めないか?」
「えっ?いいんですか?」
「良いも悪いも……」
「……わかりました」
「ああ、そうしてくれるとありがたい」

何がありがたいだ。
本当はもっと早くに名前で呼んで欲しかったくせに。
そして、もっともっと間近に君を感じたいと思っていたくせに。





「桃花、愛している」
「れ、零一さん?」
「だから、そろそろ『先生』を卒業させてくれないか?」

そんな陳腐な言葉を紡ぎ出しながら、俺はピアノを弾く手を止めて彼女の肩を抱き寄せた。そして、付き合い始めてから2度目の口付けを交わしてみようという気になった。そうすれば少しは俺たちの距離が小さくなるかもしれないと思ったからだ。


「先生、あのね」
「どうした?」
「わたしと付き合うのってすごく負担になってるんじゃないかってずっと思ってたんです」
「なぜそう思うんだ?」
「時々ふと見上げた横顔がつらそうな表情をしている時があるから、それで、きっと後悔してるんじゃないかって思って……」
「それはこっちの台詞だ。君の方こそ一時に気の迷いだったとは思っていないのか」
「何を言い出すんですか、一体」
「君はいつまでも俺のことを『先生』と呼ぶ。それが些か気にかかるだけだ。君に『先生』と呼ばれる度に、俺はなんとも言えない気持ちになる」
「そうだったんですか?気が付かなかった……」
「気付かせるつもりもなかった」
「先生、いえ、零一さん。一つ言ってもいいですか?」
「なんだ?」
「気持ちは言葉にしなきゃ伝わらないそうですよ」
「そんなこと」
「わたしは零一さんが大好きです。この気持ちは高校生の頃から変わらない」
「俺も……愛している」


桃花はまっすぐに俺を見つめたまま、にっこりと笑った。それは一体どういった意味の微笑みなのだろう。互いに妙なことに気を遣って肝心のことは何も見えていなかったということに、先ほどの君の言葉で思い知らされたようだ。常々自分では思ったことを口にしてきたつもりだったが、本当のことほど中々言葉にできないものだ。言葉にできないことほど、重要なことだというのに。




「あ……!」
「ん?」
「零一さん、雪……」
「珍しいこともあるものだ。日本ではホワイトクリスマスはほぼ無理だと、統計上は言われているはずだ」
「ちょっとした奇跡かもしれませんよ。外……出ませんか?」
「こんな時間に風邪を引くぞ」
「大丈夫ですよ、くっついていればきっと」
「くっつ…く?」
「はい」

桃花は突然舞い降りた雪の花びらに、奇跡だと言いながら俺の手を握ってベランダへと誘う。こんな日に外に出るようなことは普通なら決してしない。しかし、桃花となら寒いベランダで並んで舞い散る雪を眺めるのも悪くは無い。



まさに、Let it snow!の歌詞のようだ。
この続きはなんと言うのだったか……。
確か、外は寒いけれど二人でいれば暖かいとかなんとか言っているのだったと思うが不確かだ。今度調べておくとしよう。

いや、こんな夜くらいそんな野暮なことを考えるのは一時止めにしよう。今は君のぬくもりを確かめることが全てに優先だ。そして君が風邪を引かないように、しっかりと温めることが大切だ。

さて、ベランダで君を抱きしめてひとしきり雪を鑑賞したら、部屋に戻って暖かい珈琲でも飲みながら『Let it snow』でも弾くとしようか。





メリークリスマス、桃花。
雪のように静かに降り積もっていつの間にか俺の全てになっていた君へ、きちんと言葉で伝えよう。
愛している、と。



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