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what a wonderful world



「さすがに氷室さんの息子さんですわね。ピアノがお上手でらっしゃる」
これが小学校を卒業するまで言われ続けた言葉。この言葉を聞く度に胸がぽっと温かくなった。

「あの氷室さんとそっくりな弾き方をなさるんですね。やっぱり蛙の子は蛙ってところですか」
これは中学校を卒業するまで繰り返し言われた言葉。この言葉を聞く度に胸の奥でほっとしていた。

「息子さんは譜面に忠実すぎるきらいがありますね。その点お母様やお父様は……」
これは高校生の頃何度か出場させられたコンクールで言われた言葉。
この言葉を聞く度に俺は自分の引くピアノの音を嫌悪するようになっていった。

「ああ、ピアノはやらないんですか。それは残念ですなー、せっかくご両親から才能をもらってるのに」
そしてこれは、大学生になってから職業として選択しないと言ったら言われた言葉。
この言葉を投げ掛けられる度にほっとする自分と、一方で淋しくもある自分を発見した。

だが、しかし、俺はピアノを弾いている限り両親の呪縛からは逃れられない。そんな面倒なものを背負うくらいなら、別の道を選んだ方がよほどマシだ。両親を越えるようなピアニストにはどう足掻いても俺ではなれないと諦めていたから。
そして、子供の頃あれほど好きだったピアノを大学入学とともに封印した。










音楽をやっていく上において、俺には常に偉大なる両親の影が付き纏い、それがために音楽を楽しいと思えなくなっていた。クラシックのピアニストであり数々のコンクールで最年少記録を塗り替えてきた母:氷室涼子、著名なアーティストのレコーディングには欠かせないとまで言われるジャズピアニストの父:氷室克行。
彼らの間に生を受け常に音楽のある世界で育った俺が、ピアノ抜きの生活ができようはずもなく当然のように弾きはする。

だが、しかし、ただ弾くだけだ。
少しくらいうまくショパンを弾いても常に母と比較され、趣向を変えてエヴァンスを弾いてみれば今度は父と比較される。
いつもいつもそうだ。周囲は表立って何かを言うわけではないが、それでも常に無言のプレッシャーを掛けられてきた。

両親はいつも何も言わない。
ピアノを強制的に教え込まれたこともない。ただ、基本的な指遣いや譜面の読み方くらいは教えてくれたが、だからといってコンクールに出ろとも言わない。出たとしても何の批評も批判もせず、ただよかったところだけを取り上げるだけだ。


彼らピアノを職業にしろとは決して言わない。
自分の思う通りにしなさいとしか言わない。
だから、俺は音大ではなく一流の理学部を選んだ。




「おーい、零一。ちょっと待てよ」
「……」
「待てってば」
「何だ?」
「話くらい聞けば?そんで断るなら断ればいいんだしさ」
「聞きたくもない」
「まあまあ」

深まりゆく秋の夕暮れ時、後ろから大声で呼びかけてきたのは益田だ。
奴は両親の音と俺の音を比較するようなことは決してしない。平静を装った顔の下で、どうしようもなく比較されることを嫌悪する俺の気持ちを知ってか知らずか、奴はいいものはいい、よくないものはよくないという自分の基準だけで音を聞く。それはそれで中々大したものだと思う。少なくとも奴は俺と違って音楽は音を楽しむものだと心で理解しているから。その分奴は幸せだ。

奴の言いたいことは判っている。
どうせ学祭のイベントでピアノを弾けというのだ。

「俺は弾かない」
「へっ?」
「だから、俺はピアノは弾かない」
「……ぶっ!ははははっ!あははははっ!!」
「な、何がおかしいっ!」
「だってさぁ、お前それこないだきっぱり断ったじゃん。オレさまがまたそれを蒸し返しに来たとでも?」
「違うのか?」
「違うね」

よくよく見ると益田は目尻にうっすらと涙すら浮かべてまだ笑っている。
悪かったな、それほど今の俺はピアノの呪縛から離れたいんだ。
ピアノに罪はないと頭ではわかっていても、どうしても人前で弾くことに抵抗を感じて仕方がないのだから。




「今度の日曜ってさ、お前の誕生日だったろ」
「よくそんなことばかり覚えているもんだな」
「へへへっ、特技特技。でさ、10代最後を飲み明かそうかと思った訳だよ、零一くん。understand?」
「I don't understand.」
「いい店見つけたんだよ、付き合え」
「どうせ、デートのための下見だろう。嫌だ」
「いいからいいから」
「断る」
「まあまあそう言わずに。お前もきっと気に入るからさ。じゃ、日曜6時にお前んち集合ね」
「……」

相変わらず自分勝手な奴。
昔から奴はこうだ。自分がこうと思ったら、周囲のことなどお構いなしなのだ。そして、小学生の頃からあいつに散々振り回されてきたくせに、それでもつい付き合ってしまう俺。何をやってるんだろう、一体。




子供の頃、誕生日がまだ待ち遠しかった頃のことだ。
両親がそろって帰国すると言っていたのが、土壇場でキャンセルになったことがあった。当然仕事なのだから俺は気にしてないつもりだったし、そんなことしょっちゅうなのだから今更駄々をこねても仕方がないので何も言わなかった。

しかし益田は何を思ったか、俺の誕生日にスーパーで安売りしていたショートケーキとインスタントカレーを携えて押しかけてきた。そして、自宅から持参したタッパーに詰めたご飯に温めたレトルトのカレーをかけて二人で食べた。
うまいんだかまずいんだか、よくわからないままショートケーキをつつき益田酒店からくすねてきたという甘ったるいジュースを飲んだ。そうして二人してテレビを見ていたら、視界がぼやけてきて不覚にも奴の前で少し泣いてしまった。

淋しくない振りをしたものの、やはり10かそこらの子供にはつらかったのだろう。
以来、益田はとかく理由をつけては、俺の誕生日を祝おうとする。
そして、口では嫌だ嫌だといいながらも結局祝ってもらう俺がいる。



益田は言う。
いつか、これはという女性が俺の前に現れたなら、その時はもう祝ってやらない、と。

そうなったら、こっちこそ願い下げだ。
何が悲しくて小学校からの悪友に誕生祝いをされなくてはいけないのだ。






いつもは約束の時間に間に合ったことのない益田が、珍しく定刻通りにやってきた。
そして、強引に例の店まで連行されてしまった。


重厚なオークの一枚板か。
扉にはそっけなく『OPEN』の札だけが揺れていて、店名もネオンも看板も何もない。
ただそこにあるのは、店内から漏れてくるスタンダードの響きだけ。

「おい、よくこんなところを見つけたな」
「いいだろう?実はな、おやじんとこから仕入れてんだよ、この店。で、こないだ代わりに配達にきてから入り浸ってんだ」
「ふーん」
「さあ、入った入った」
「あ、ああ」

紫煙の向こうには、鈍く光るボールドウィンが一台。そして扉と同じくよく磨きこまれた一枚の大きなカウンターと、ボックス席が2つの小さな店。いわゆるジャズバーという奴か。

益田は勝手知ったる様子でカウンターの中に潜り込み、マスターらしき男性と話を始めた。一瞬俺の方に目を向けたが、すぐにマスターは水の入ったグラスを出してくれた。

「オレ、何か作ってやるよ。もちろんお任せな」
「何だそれは。言っておくが俺はまだ未成年だ。アルコールは1滴たりとも飲まないぞ」
「じゃあ、特製ジュース出してやる」
「そうしてくれ」



あのピアノを弾く人はいるのだろうか。
もし誰も弾かないのなら、もったいない。こんな酒と煙草の中に置いておけば、自然と音が狂ってしまいそうだ。時々誰かが音を出してやらなければ、せっかくのピアノが可哀想だ。


「弾きたければどうぞ」
「えっ?」
「あれは飾り物でもなんでもありませんから、ご自由にどうぞ」
「いや、僕は弾きませんから」
「それにしてはやけに熱心に眺めてらっしゃった」
「そんなことはありません。ただ……」
「ただ……、何でしょう?」
「何でもありません」
「あなたはあなただ、他の誰でもない。自分に自信をお持ちなさい」


たったそれだけの会話をしただけで、マスターは別の客の注文をさばきにカウンターの端に移動した。何がいいたかったのだろう、一体。
マスターが去り際に言った言葉を反芻している内に益田がグラスをすっと出した。
喉が渇いていた俺は、益田の出したグラスを中身も確かめずに飲み干した。
薄いアルコールの味がした。

「これは何だ?アルコールじゃないのか」
「ああ、それ。ジントニックって言うジュースさ。うまいだろ」
「お前……!」
「マスター、今日こいつの誕生日なんですよ。1曲弾いてくれません?何でもいいから」
「いや…お恥ずかしい。お聞かせするほどの腕じゃないですが、今日は特別ということにしておきましょう」


頭を掻きながら彼はまっすぐにピアノの前に行き、すっと背筋を伸ばした。
正直なところ、彼の演奏には何ら期待も抱かずにただもう口を付けてしまったカクテルグラスの鈍い輝きを眺めるだけだった。別に酒を飲んでしまったことはもうこの際後の祭りだ。今更吐き出す訳にもいくまい。明日から飲まなければいいのだ。

カウンターの中に目をやると、案外慣れた手つきで益田は客からの注文に答えながら楽しそうにしゃべっている。
お前はどうしてそういつも屈託なく笑いながら、うまく他人と距離を取れるんだ。俺は人との距離感をうまく操ることが苦手だ。だからといって誰とも接することなく生きていけるほど、世の中の仕組みは簡単じゃない。
今の俺にとって世界なんて楽しいとも優しいとも思わない。ただ、そこにあるだけに過ぎない。勝手に自分の周りを取り巻いているだけで、毒にも薬にもならない透明な膜のようなもの。



店の奥にひっそりと置かれたピアノから流れてきたのは……『What a wonderful world』。
サッチモことルイ・アームストロングのトランペットとボーカルで有名な曲だ。歌詞もメロディーも非常にシンプルで、サッチモのあの声でなければあれだけの味は出ないだろうとも思われる。そして、今の俺にはあまりにも痛いこのメロディー。

父もよくピアノで弾いていた。もっとも、いつもその前にトランペットの響きが重なり、ボーカルがかぶさる。


「零一。いいだろ、この店」
「ああ、そうだな」
「でもなー、もうすぐ閉めるんだとよ」
「なぜだ?」
「さーねー、もったいねーなーと思うけどさ。あ、そうそうここのおやじさん、昔結構有名なピアノ弾きだったんだってさ」
「なるほど」
「味があるよなー、音にさ」
「そうだな」

時折、指がもたつくところがあるが、それさえも彼にかかれば魅力的に聞こえる。ピアノを弾くとはこういうことかとも思う。何も1音違わず正確に弾くことだけが、全てではない、そうあの音は俺に訴えかけてくるようだ。

1曲終わると、マスターは軽く会釈してそのままカウンターの中に戻ってきた。

「お耳汚しでしたね。ああ、そうだ。珈琲でもいかがかな?」
「いただきます」




「君……氷室くんと言ったか。1曲よかったら弾いていかないかね」
「いや、僕は弾けません」
「そうか、それは残念だな。近いうちにこの店ごとピアノも手放そうと思っているんだ。だから、弾きたい人にはどんどん開放してるんだよ」
「だから、僕は……」
「弾けるけど弾きたくない……そうだろ?氷室零一くん」
「え……?」
「君の音は君のものだ。涼子さんや克行の音じゃない。いつかきっと君も音楽が音を楽しむものだって気付く瞬間がくるさ。だから、それまではこのオヤジのささやかな願いとして、弾くことを止めないでいてほしいと思うよ」
「あの……両親をご存知なんですか?」
「ああ……ごめんごめん。少し話しすぎたね」
「……」



音楽とは音を楽しむと書く。
楽しいと感じていたのはいつまでだったのだろうか。少なくとも小学生の頃はまだ楽しいと思っていた。中学生の頃もさほど苦痛とは思わず、難易度の高い曲を克服するたび嬉しくて仕方がなかったはずだ。高校生の頃はもうピアノから離れたいと思い始めていた。

理由は……そうだ、理由は何だった?

自分の音が見つからなかったからだ。だからピアノを弾くことが恐ろしくなったのだ。



「零一」
「何だ?」
「素人の言うことだけどな」
「だから、何だ?」
「オレ、お前のピアノの音好きだよ」
「益田……?」
「もちろん、お前のおふくろさんやおやじさんの出す音も嫌いじゃないっていうか、むしろ好きだし大した演奏家だと思うよ。でもオレにはお前の音が合ってるんだ、きっと。だからさ、これからも時々弾いてくれよ」
「しかし……」
「もったいねーからあのピアノ時々触りにきてやれよ」




益田は言うだけ言うと再びマスターを誘ってピアノの前に立った。いつの間にか益田の手元には鈍く光るサクソフォン。
「誕生日おめでとう、零一」

それだけ言うと、演奏を始めた。
奴が以前好きだと言っていたハンコックの『cantalope island』が狭い店内に響き渡った。





そして、翌朝俺は生涯ただ一度の二日酔いを経験することになる。



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