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想う数だけ聞こえる音色



「アンジェリーク、上達しましたね」
「ニクスさんの教え方がお上手なんですよ」
「そんなことはありませんよ、きっとあなたには才能があったのでしょう。さ、息抜きにお茶でもいかがですか?」
「はい」

このところ毎日のようにアンジェリークはピアノのレッスンにニクスの部屋を訪れている。そして小一時間ほど、並んで鍵盤を叩くとそのままお茶の時間になる。教えて欲しいと言われた時は正直ニクスも戸惑った。お教えしましょうか、と言ったのもある意味社交辞令に近いものだったし、実際今までなら女性相手にそのようなことを口にしても向こうもさほど真剣には答えなかっただろう。
だが、アンジェリークは違った。

彼が戯れに弾いていた曲を教えてほしいと改めて言ってきたのだ。
楽譜もない自分の指と耳だけが覚えているだけの古い曲を彼女は習いたいと言う。それはなぜなのかと尋ねてもただ笑うだけ。「意味がないと教えてはいただけないんですか?」と、逆にニクスが尋ねられる羽目に陥るだけだった。

「アンジェリーク、同じ曲を繰り返すだけですからもう厭きたでしょう」
「まだ、きちんと弾けていませんし」
「でも、もうほとんど大丈夫ですよ。他に何か楽譜があればお教えしましょう。ウォードンかファリアンで何か見繕ってきますよ」
「わたしはこれだけ弾ければそれでいいんです」
「それは……一体?」
「あ、そうだ。お庭へ行きませんか?いいお天気だし。ね、そうしましょう」
「あ、え、ええ。構いませんよ」

唐突に話題を変え、彼女は満面の笑顔でニクスを庭へと誘う。この曲だけ覚えればそれでいい、アンジェリークはそう言う。ニクスとしては楽譜さえ手に入れれば別の曲に手を広げてもいいとさえ思っていた。そうすればもう少し二人で過ごす時間を長引かせることができると思ったからだ。だというのに彼女はあっさりと1曲でレッスンをお仕舞にすると言う。

「アンジェリーク、なぜこれだけでいいのですか?」
「理由が必要ですか?」
「そうですね、少々気になりますね」
「ふふっ、じゃあお花を見に行きましょう」
「どう繋がるんです、花を見に行くこととピアノが?」
「……」

少ししつこく尋ね過ぎたか、ニクスは黙り込んだアンジェリークをそっと見つめた。その顔には僅かに思いつめたような空気が漂ったが、すぐにその気配は消えていつもの笑顔になる。

「だって……この曲を弾けばきっと……」
「きっと……?」
「ニクスさんの心が見えるんじゃないかと、思ったんです。それだけです。ごめんなさい、迷惑でしたね。お茶おいしかったです」
「…………」

一息に言ってしまうと、アンジェリークはさっと立ち上がり扉に手を掛けた。「それはつまり……、私の心を知りたいと言うことでしょうか」、ようやく搾り出した声は彼女の耳に届いたのか届かなかったのか。ニクスが手にしたカップをソーサーにことりと小さな音を立てて置くのと、アンジェリークがノブを回すのは同時だった。今までのニクスならまずしなかっただろう。とっさに立ち上がり、衝動的に彼女の手首を掴んで引き寄せたのだ。

「あ……!」
「待って……待ってください、アンジェリーク」
「……!」
「私はあなたのことを……」

愛してしまったのですよ、と後ろから抱き寄せたまま耳元で小さく囁く。かつての醒めきっていた男は今その熱情を迸らせ、大切な女性を離すまいと抱きしめる腕に力を込める。もう一人の自分が「お前らしくもない」とぶつぶつ言っているようだが、そんなことは気にしない。それよりも、ピアノを習うことで自分の心を見たいと真剣な眼差しで答えたアンジェリークをとてもとてもいとおしいと思ったのだ。

「ニクス……さん?」
「私にもまだこんな感情が残っていたのですよ」
「感情……?」
「そう、大切なものを大切にしたいと思う感情が、ね」
「以前あなたに言いましたよね。私の苦手な女性はあなただと」
「はい」
「苦手な理由は話しましたか?」
「そう言えば聞いたかしら」
「今言いますよ。これは私の本心です」
「はい」

女性を後ろから抱きすくめたままこんなことを言うのは卑怯かもしれない。しかし正面から向き合って彼女の真摯な瞳に晒されながら、こんなことを言うのが少し恥ずかしい気がしていた。だから、そのままの姿勢で話を続けた。

「忘れてしまったはずの感情を……甦らせるからですよ。あなたという存在が、私を衝動的にさせる。誰かを大切にする、誰かを愛するということが他者を差別することでしか成立しないという当たり前のことを私に思い出させるから……だから、あなたが苦手なのです。わかりますか?」
「ニクスさん……」

「わたしもニクスさんが苦手です」、ぽつりと放り投げるようにアンジェリークは言葉を発した。背中越しに伝わる鼓動が早くなったのが感じられる。その早くなった鼓動がシンクロするのも感じる。「なぜですか?」、ニクスは問う。「どきどきするからです。どきどきして目が合うと頬が赤くなるし、笑ってくれると嬉しいし、綺麗な女の人と一緒にいるところを見ると哀しくなるし……。とにかく、ニクスさんが苦手なんです」、小さな声で様々な理由を並べ挙げる。その全てがニクスを好きだと言っているのと同義であることに気付いて頭の上で小さく笑う。

私もあなたが苦手です、ですがそれ以上にあなたを好きだ。

抱きしめる腕を緩めて、アンジェリークをくるりと回す。そしてきょとんとした顔の彼女の頬に優しいキスを落とす。本当は唇でもよかったが、まだ早いととっさに判断した。そして右と左に一つずつキスを。

「さあ、花壇を見に行きましょうか」
「は、はい」
「良いお返事ですね」

手を差し出すとその小さな手のひらを乗せる。ニクスはゆったりと包み込むようにその指先をつなぐと、そっとドアを開けて花壇へとエスコートした。
何度種を蒔いても球根を植えても根付かなかったあの花壇には、ようやくこの間小さな花が咲いたばかり。

恋心と同じくらい淡い色合いの小さな花。
それはまるでこの指先の向こうにいるアンジェリークのようで。
ニクスは毎日飽きもせず、その花を眺めに行く。
そしてアンジェリークもその花を眺めに行く。


こんな日が永遠に続いてほしい、永遠が嫌いな自分がそんなことを望むようになるなどなんと滑稽なことだろう。だが、彼女が隣にいてくれるならそれも悪くない、ニクスは心からそう思った。




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