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月下美人の夜



あなたを想うこの気持ちに蓋をして閉じ込めてしまうことができるのならば、私はきっとこんなにも苦しまない。
あなたを想うこの気持ちに蓋をして閉じ込めてしまったならば、私はきっとこんなにも世界を愛せない。






整然と整えられた広い庭園の片隅で、甘い香りを四方に振り撒く大きな白い花。それは中々うまく咲かないという月下美人の花だった。屋敷を買い取った時に頼んだ庭師がどこで手に入れてきたのか、エキゾチックなこの花を陽だまり邸の片隅に植えていったのはいつのことだったか。ニクス自身記憶の糸を手繰ってみてもうまく思い出せないほど遠い昔のこと。ただ確実に言えることは、ここにオーブハンターとアンジェリークが共に住まうようになるずっと以前のことだったということだけだ。

初めてこの屋敷を見つけた時、ここの庭は荒れ放題で一部では幽霊屋敷とさえ呼ばれたほどだった。雲間から零れ出た陽射しがまっすぐに屋敷の屋根に降り注ぎ、天使の梯を形作った。それを目にした瞬間ニクスはここに住むことを決めたのだった。



一刻も早く移り住もうと必要以上に金銭と人手をかけ、その結果今の『陽だまり邸』ができあがったと言っても過言ではない。それほどこの荒れ果てた屋敷が気に入ったからだったとも言える。





「そう言えばこの花はなんと言うのですか?」
「ああ、これは月下美人と言いましてね、まあサボテンの一種ですかな。月夜に一輪だけ咲くんですよ。うまく育てば、ですがね」
「そうですか。それは楽しみです」

以来、ニクスはその庭師に通ってもらい手入れを続けてきた。開花までに何年もかかるというそのエキゾチックな花がいつか花開くのを待ちながら。





「ニクスさん」
「おやアンジェリーク、どうしました?」
「甘い香りで目が覚めました」
「降りてらっしゃいますか?マドモアゼル」
「いいんですか?」
「今夜は特別ですよ」
「はい!」

自室の窓から顔を覗かせたのは、アンジェリーク。
今、ニクスの心を悩ます聖少女。

かつてない程に彼の心を波立たせるのはこの少女の全てだった。初めて会った時にはいくら特殊な能力があるからといって、こんないとけない少女で大丈夫なのかと正直思ってしまったものだ。それでも彼にとってこの少女の価値は特殊な能力プラス近い将来の女王の可能性があると言う1点だけだったはずだ。それが共に戦い共に暮らすようになり、少しずつ彼女の人間的な部分に惹かれている自分に気が付いてある日愕然とした。
自分の中にまだそんな甘やかな感情が残っていたこと、何年も忘れていた何かを強く求めるということ、そんな気持ちを甦らせた彼女の存在。何百年も凍らせてきた人間的な部分。ニクスは少しずつ彼女と過ごすことで凍った心が溶けていくことを感じて驚いた。

彼女のまっすぐな正義感、ふとした瞬間に見せる哀しみ、かと思うと振り返った時に見せる無邪気な笑顔。くるくると変わる少女の表情にニクスは自分でもそうと気付かないままとうに忘れてしまった感情を思い出していた。

白い大きな花びらに誘われるのは、あの庭師曰く蝙蝠が多いのだとか。蝙蝠だけではなく人までも惹き付けてやまない甘い香り。この甘い香りに魅せられたのは……この私自身だったのかも知れない、ニクスはふとそんなことを思った。

「甘い香りですねぇ。これは何というお花ですか?」
「月下美人と言うそうですよ。何でも南方の花なのだとか」
「そうなんですか」
それきり二人は花を見つめたまま会話を止めた。ふけていく満月の光の中で、ニクスは無言のまま隣に佇むアンジェリークの横顔に目をやった。月明かりが彼女の淡い水色の髪にふんわりとした柔らかな光を注いでいる。そんな淡い光に照らされた白い頬と赤い唇、そして大きな青い瞳。その全てが本当に天使のようだとニクスは思った。

いずれ女王になれば彼女は天空へと昇っていくだろう。そうなれば地上とは異なる時間軸の中で自分と同じような時間を彼女も過ごさなくてはならないだろう。自分にとって『永遠』とは長く淋しく辛いもの、ニクスはそんな印象しか持たなかった。だが、彼女は?

「アンジェリーク、あなたはいずれ遠くに行ってしまうのでしょうね」
「えっ?」
「女王になれば、きっと」
「ニクスさん……わたし……」

天空高く明るい光を放つ月。彼女の行く先はきっとこの空からは見えないほど遠い場所。そんな高みにあるという聖地から彼女は何を思いながら、毎日何を見つめて生きていくのだろう。

「ところでアンジェリーク。あなたは女王になる覚悟はありますか?」
「女王になる覚悟……ですか?」
「ええ。伝説がそのまま事実なのだとしたら、女王は『聖地』と呼ばれる場所に住まい、地上とは異なる時間を生きることになるそうです。次の女王が現れるまで長い時間を遠い場所で過ごさなければなりません」
「一人で……過ごさなくてはいけないのでしょうか、そこで」
「さあ、どうでしょうか。守護聖と呼ばれる方が補佐するという話ですが」
「そうですか。わたし……」
「…………」

私は一体今何を彼女に聞いておきたいと思ったのか。
まだ先のことなのだし、そもそも彼女は『卵』であってこのまま無事孵化するかどうかさえ、実際のところわからない。だというのに覚悟を求めてどうするのか。ニクスは自分の口から発せられた衝動的な質問に、自ら戸惑ってしまったのか無理やり月下美人の花を愛でる振りをした。

むしろ、覚悟が必要なのは自分の方ではないのか。
ふと自分の秘めた気持ちに気が付き、また驚いた。そうだ、私はいつか彼女を手放さなくてはならなかったのだ。

この愛しい少女をいずれは手放さなくてはいけない時が来るのだ。
それも日々刻々とその時は迫っている。

彼女の力が強くなればなるほどに。
タナトスを倒せば倒すほどに。
天使はニクスの手の届かない高みへと近づいていく。


一陣の風が吹いて、白い花を揺らす。
揺れた花びらから甘い甘い香りが振り撒かれる。
いつもゆったりと根元で結わえられていた彼女のリボンが風に解けて髪がさっと広がった。あっと思う間もなくリボンが風に舞う。掴まえようと伸ばした二人の指先が絡み合う。一瞬戸惑った間に指の間をすり抜けてリボンが風に乗って、月下美人の葉に絡みついた。

「失礼」
「……!」

ニクスはリボンを手に取ると、そっと彼女の髪を束ねゆったりとリボンを結び直した。アンジェリークは突然のことに頬を赤らめながら、されるがままになっていた。そのままニクスは背中からアンジェリークを抱きしめると、髪を一束掴むとそっと唇を寄せた。
「ニクスさん……!」
「すみません、今はこのまま」
「……は、い」
「甘い香りに酔ってしまいました。今しばらくこのままで」

その昔庭師が言っていた言葉を思い出す。この月下美人の花言葉は儚い恋、だと。美しい花と甘い香りに酔いしれて魔法のような恋をする、だがその恋は一夜の夢のようなもの。花がその生命を閉じるとそこには何も無かったかのような日常が待っているだけだと。そんな儚い恋だけではなく、私の人生そのものが儚いものだ。ニクスは望まないままに永遠の生命を手に入れた。それとは引き換えにいつも儚く散った関係ばかりだった。

友人ができても恋人ができても、長くは側にいられない。周囲は1年毎に年を取っていくのに、自分だけは年を取らない。いつまでも20代のままだ。2年や3年くらいならいい、これが5年10年となるとさずがにおかしいと周囲が感じ始める。だからニクスはいつも1箇所に長くはいられない。無理やりに理由を付けて、自分の感情にも何かと折り合いを付けてアルカディア中を転々としてきた。

だから何かに固執したりはしない……はずだった。
なのに今ニクスはこの目の前の天使を手放す覚悟ができないままに、背後から強く抱きしめている。

「女王さまになりたくない……って言ったらわたしはニクスさんに叱られますか?」
「アンジェリーク」
「……聞き流してください」
「…………」
腕の中に閉じ込めた小鳥は、まっすぐに前を向いたまま心を惑わせるようなことをさらりと口にする。一層強く抱きしめながらニクスは彼女の耳元に囁く。「意味もなく叱ったりはしませんよ、マドモアゼル。ただ……少し困るだけですよ」、と。


彼女に女王になってもらわなくては困る。確かにニクスは表面ではそう思っている。だが、それ以上に今願うことは彼女を離したくないという強い気持ち。
いつかニクスは尋ねずにはいられないだろう。「私が世界を破滅させる元凶だとしたらあなたは私を浄化してくれますか」と。その時あなたはなんと答えるだろう。ニクスはこの頃そんな想像ばかりしている。

彼女になら、愛する女性の手で浄化されるなら、これ以上はない悦びだろう。きっと。
だが……浄化されたくないと願う自分もいる。
実際のところどうしたらよいものか。


「ニクスさんがいてくれるなら……わたし女王さまになります」
「マドモワゼル……それは!」
小さな声でつぶやいたアンジェリークの言葉にニクスは言葉を失った。その意味をわかっていっているのかいないのか。
そんなことは今確認することではない、そう判断してニクスは甘い香りの中で一層強くアンジェリークを抱きしめた。





月下美人のもう一つの花言葉は……ただ1度の恋。




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