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囚われ人に花束を



花が咲いた。
水色の花弁が輝くように、小さな花が咲いた。
まるでアンジェリークのような、小さいけれど凛とした花が咲いた。





「ニクスさん、何をしているんですか?」

柔らかな鈴のような声がして、アンジェリークが小さな花壇へと駈けてくる気配がした。ゆっくりと後ろを振り返ると愛しいアンジェリークが転がるように駈けてきたところだった。今の彼女の姿は、あの大変な戦いを乗り越えた女王候補だったとは思えないほどあどけなくかわいらしい。

「花を見ていたんですよ、アンジェリーク」
ニクスの表情に自然な微笑みがこぼれ出す。勢い良く駈けてくるアンジェリークを受け止めるためにニクスは大きくその腕を広げると、その腕の中に息を切らしたアンジェリークがまるで当たり前のように飛び込んだ。「そんなに慌てていると転びますよ」、とニクスは微笑ましく思いながら耳元で囁く。彼女は腕の中でさっと顔を上げると「でも、ニクスさんがきっと受け止めてくれるって信じてますから」、と満面の笑顔で答える。

「やれやれ、これだからマドモアゼルには敵いませんね」
小さく肩を竦めながらも、ニクスの表情には嬉しそうな感情しか見えない。


「ところで、何かありましたか?そんなに慌てて」
「何でもありません。ただ……探していただけです。見あたらなかったから……」
「私を?」
「誰を探すっていうんですか」
「それもそうですね」
「別に何も用はありません。ただいなくなる夢を……見ちゃったから、それで怖くて、つい」

先ほどまでと打って変わってアンジェリークの睫毛には涙さえ浮かび始めている。いなくなる夢を見た、と言って泣きそうになっている最愛の少女をさらに抱きしめてさらりとした柔らかな髪を優しく撫でる。いなくなる夢を見るのは自分だって無いことではない、むしろ回数こそ減りはしたが時々はっと目が覚めてそっと少女のベッドを覗き込み健やかな寝息を確認せずにはいられない。
晴れて恋人となったというのに同じベッドで休んだのはただ一度だけ。全てが終わり安堵と永遠からの開放感で酔ったようになったニクスは、半ば衝動的にアンジェリークを腕の中に抱きしめたのだ。それ以来1度もニクスは彼女を抱きしめていない。

今彼女は休日だけこの邸に訪れ一晩だけ泊まっていく。その間も二人の部屋は以前のように別々のままだ。そっと抱きしめることもあるし、キスをすることもある。だが、あの夜以降二人で一つの褥を共にすることはない。

それだけに今彼女が腕の中で泣き顔を見せていることに胸が痛む。もしも彼女をこの腕の中に抱きしめたなら、きっとそれだけで互いの不安は少しでも減らせることができるのだろう。だが、かつて愛した女性達のように簡単にこの少女をベッドに誘うことはできなかった。もちろんあの夜のことはただの勢いでも何でもない。心から愛しているからこそ抱きしめたのだ。

「私はどこへも行きませんよ」
「本当ですか?」
「ええ、本当です。どうすれば信じていただけるんでしょうか、マドモアゼル」
「でも……でも……」

確かに何の挨拶もせずに、自室を抜け出して早朝から花壇にしゃがみこんでいたのはニクスだった。彼も目覚める直前にアンジェリークを失う夢を見て、それが夢だと確認したくてここで二人で咲かせた花をじっと見詰めていたのだ。

「アンジェ」と、ニクスはめったに使わない愛称で彼女に優しく呼びかけた。腰に手を回し、髪を撫でさすりながら尚も言葉を続ける。

「私はすっかりあなたに囚われてしまったのですよ。そんな囚われ人である私はもうあなたという優しく柔らかな檻から抜け出すことなど不可能です。もっとも出してあげると言われても困りますけど、ね」
「ニクスさん……」
「マドモアゼル、いえ、アンジェ」
「はい」

アンジェリークの細い顎に指を添え、ニクスはそっと上を向かせた。その瞳に宿る不安を取り除くことができるなら私はなんでもしよう、例え小さなキスの一つでも彼女の不安を取り除けるのなら何でもしよう。
「瞳を閉じて……、そうそのまま動かないで」、ニクスはそっと囁いてまぶたの上に指を翳すとゆっくりと彼女の瞳を閉じた。そして、柔らかな薔薇色の頬にキスを一つずつ落とし、小さく震える赤い唇に少しだけ長いキスをする。

「居なくなる夢なら私だってよく見ますよ。今朝だってそうです」
「そうなんですか?」
「ええ。だからと言ってあなたの部屋ばかり伺うのもどうかと思ったのです。それであなたと共に植えたこの花壇を見に来たのです」
「ニクスさん……、わたし、あの」

感極まった様子のアンジェリークは、そのままニクスをきつく抱きしめた。まるで抱きしめていないとそのまま煙のように消えてしまうと思っているかのように、きつくきつく。一瞬腕を離したニクスだったが、再度アンジェリークの背中に腕を回しこちらも折れない程度に強く抱きしめる。互いのぬくもりを確かめ合うかのように長く強く。

「まだ私が信用できませんか?」
「そんなこと……」
「仕方の無い事とは言え、些か淋しいものですね」
ニクスはそっとアンジェリークの体を離すと、肩を竦めてため息をついた。アンジェリークの困る顔が見たいための仕草だが、その実本当に泣かれてしまっては自分が困ってしまう。だというのについついやってしまうのだった。

案の定、アンジェリークは途方に暮れた顔でニクスを見上げる。その瞳にはまたうっすらと涙の粒が溢れ始めていた。
おやおや、少しからかい過ぎましたか。ニクスは微笑みが零れそうになるのを抑えて、自身もいかにも哀しいといった顔をする。

あの出来事が終息してからまだ半年。長い時を一人彷徨いながら生きてきたニクスは、今ようやく手にしたこの有限の時間というものを実感している。時間は有限だからこそ、大切にしなくてはいけないもの。誕生日を迎える度に鏡に映る自分の顔にうんざりしたものだ。そんなため息とともに生きてきたニクスだったが、この間自分の髪に1本の白髪を見つけてひどく嬉しくなったものだ。普通なら喜ばないことに喜んでしまう、我ながらおかしい。そうは思うもののこれが人として普通に年を取っていくということかと、しみじみと実感できたのだ。

アンジェリークと過ごす時間ももちろん有限で、だからこそ煌く宝石のようなもの。

「アンジェ、私にはあなたのいない世界など全く意味を持たないのです。ご存知でしたか?」
「ニクスさん……」
「きっとまだまだ二人の絆が弱いのですよ。もっともっとあなたを愛したい。もっとあなたを抱きしめたい。そうすればいつかそんな夢を見ることなど無くなるでしょう」
「わたしも……わたしももっとニクスさんを……」
「そうだ、これをあなたに」
「えっ?」

ニクスはいつも右の中指に嵌めている指輪を外すと、アンジェリークの手を取った。そして優雅な仕草で手のひらにまだ温かさの残る指輪をそっと乗せた。もちろん男性の中指にぴったりと嵌まっていたものなのだから、アンジェリークのどの指にも大きすぎて入りはしない。戸惑うアンジェリークの手に指輪を握らせると「すぐにこれに合うチェーンを探しておきますね」、とにっこりと微笑みながら言った。

「でも、これってニクスさんの」
「いいんですよ、こんなものであなたの不安が除けるのなら安いものです」
「じゃなくて大切なものなんじゃ」
「昔、自分で購入したものです。形見だとか、思い出の品だとかそういう訳ではありません」
「本当ですか?」
「ええ、本当です」

実際は購入したのではなく、碑文の森の奥で拾ったものを加工しただけだった。全てに絶望し深い森の奥で懊悩する毎日を送っていた時、近くに見つけた朽ち果てた女王像のそばでこの黒い神秘的な石を見つけた。この石に邪気を祓うという意味があることを知ったのはそれからまた100年以上も経ったころのこと。以来儚い望みを抱いたまま指輪に加工し指に嵌めてきた。自らの邪気は恐らく彼女の出現によって祓われたのだろう。現に今の自分はきちんと限りある時間を楽しめるようになったのだから。

「ニクスさん?」
「あ、いえ何でもありません。これはね、魔除けだったんですよ私にとっての」
「じゃあ必要じゃないですか」
「いいえ、魔除けが必要なのはあなたの方ですよ、アンジェリーク」
「魔除け?」
「ええ、他の殿方があなたを独占しないように、私だけを見てくれるように」
「そんな心配……しなくたって」
「あなたは日々美しくなっていく。私は気が気じゃないないのです、こう見えて小心者なもので」
「もう、ニクスさんったら」

やっと笑ってくれた。ニクスはころころと鈴のような軽やかな声を上げて笑う最愛の少女を見つめる。自然と自身も笑顔になっていくのがわかる。
「さあ、ブランチの時間にしましょう」、ニクスは優しく少女の方へ手を差し出すと、そっと乗せられた柔らかな指先を包むように握り締めた。一方の手には先ほどニクスが渡した黒曜石の指輪がしっかりと握り締められている。


邸を包むように朝の光が注ぎ、まるで不器用な二人を祝福するかのよう。
陽だまり邸と言う名の謂れを再確認できるような穏やかな朝日が二人をずっと照らし続けていた。



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