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『好き』の理由



気が付くといつもわたしの瞳は先生を見つめている。
何がきっかけだったのか、そんなことはもう忘れてしまったけれど、とにかくいつも目で追ってしまう。

さん、先生の観察日記は順調ですか?」
「えっ?あ、はい、いえ」
「どうかした?コーヒー冷めちゃいますよ」
「すみません」
「いえいえ」

先生はゆったりと微笑むと向い側に座って、参考書をめくりながら何かメモを取っている。わたしはと言うと、勉強を教えてもらおうと思って化学準備室にやってきたというのに、いつものようにビーカーコーヒーをちびちびと頂きながら先生をちらちらと見ているだけ。
わたしがいつも見てることに先生は絶対に気付いてる。あれだけ見てて気付かないわけがない、いくら「ぼんやりしてる」と言われてる若王子先生でも。

授業中もついつい黒板じゃなくて先生を見てしまうから、うっかり目が合うこともある。その度に先生は万人向けの優しい笑顔を向けてくれる。その笑顔も嬉しいけれど、できればわたしだけに笑顔を向けて欲しいと思うのはものすごく我侭なことなんだろうと思う。


さん、ここで質問です」
「はい」
「誰かを好きか嫌いかって理由がいると思う?」
「はい?」
「うーん、何と言えばいいのかな、とりあえずさんが誰か男の子のことを好きだなって思った時、何か理由を付けたりしますか?」
「どうでしょう、理由なんて無いんじゃないですか?」
「へぇ、そうなんだ」
「先生はどうなんですか?」
「先生?そうですね、先生は逆に大人だから色々考えますよ、好きになったら」
「……」
「あ、もうこんな時間だ。さん、暗くなる前にお帰りなさい。先生はもうちょっと仕事が残ってますから一緒に帰れませんけど」
「はい。じゃあ失礼します」



『好き』って感情に理由はいるの?
うーん、いるのかな、いらないのかな。

ところでわたしが先生を好きな理由、それは何だろう?
きっかけは何かあったと思う、でもたぶん、小さな感情が積み重なって気が付いたらわたしは先生に片想いをしていたんだ。

いつも違う方向に跳ねてる柔らかそうな髪も、黒板にゆっくりと化学式を書いていく爪の短い指先も、すれ違いざまに匂う石鹸と薬品とコーヒーの混じった匂いも、くるくる変わる目の表情、優しいけど淋しそうな笑顔も、全部が好きなんだと思う。ちょっとくたびれた白衣も、反対にぱりっとしてるシャツも、部活に出てる時のジャージ姿も、全部若王子先生で、全部好きなんだと思う。

最初に好きになったのが何だったのか、そんなことはもう覚えてない。
でも、毎日毎日わたしは降り積もる雪のように先生への気持ちを積み重ねていく。たぶん、最初に好きになった理由なんてとっくの昔に心の深いところで根雪みたいになってしまったんだと思う。

それなのに、1秒ごとに好きな気持ちは新雪となって今も降り積もってるんだと思う。






「先生、大人って大変なんですね」
「やっ、どうしました?何か悩みでも?」
「悩みは……そうですね、その内解決するかもしれませんし、永遠に解決しないかもしれません」
「難しい悩みなんですね」
「はい。先生は悩みってありますか?」
「あるよ」
「えっ?」
「すごく深刻な悩みが一つだけ。でも誰にも教えません」

わたしはまた質問があると言って化学準備室でコーヒーをごちそうになりながら、先生の隣に座っている。
先生はわたしの意味不明な質問にもにっこり笑ってわたしの頭をぽんぽんとリズミカルに叩いた。こういうことをされるのは嫌いじゃないけど、それでもなんだかやっぱりわたしは子供にしか過ぎないんだなーって嫌でも自覚させられる。まったく無視されてるよりはいいんだろうけど、この先生のぽんぽんは佐伯くんのチョップとは意味が違う。大人が聞き分けのない子供を宥めてるみたい。



わたしの好きな人は学校の先生。
たったそれだけのことがわたしの感情に時々重い蓋をする。
それでも好きな気持ちは変わらない。

さん。この間先生言いましたよね、大人だから好きになってもいろいろ考えるって」
「はい、そう言えばそんなことおっしゃってましたね」
「ただ、そこに理由はないんだよ、やっぱり」
「理由……ですか?」
「うん、どうして好きなんだろうってこと」
「はぁ」
「考えるのはその瞬間瞬間じゃなくて先のことを心配してしまうだけ。大人は難しいからね、何かと」
「わたしは……わたしは今が大切です。でも、先のことだって考えます」
「ごめん、そうだね。さ、帰ろう。今日は送っていきます」


僕の悩みは……、と先生は小さな声で言いかけて止めた。
白衣をハンガーに掛けて振り返った先生の顔はいつもと違って真剣で淋しそうだった。それでも、笑顔を作ろうとしているのがわかる。だから、わたしも先生ににっこりと笑いかける。

「先生の悩みが解決したらいいですね」
「そうだね。君の悩みもね」

さぁ帰ろう、何かを振り切るように先生は言って、化学準備室の戸締りをした。
わたしもかばんを手にして外へ出た。廊下の窓から見える空は、あまりに見事な夕陽で何だか涙が出そうだった。
意味なんてわからないけど、ただ先生が好きだってだけで、泣きそうになった。



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