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雪が止んだら



雪が降っている。
静かに静かに雪が降っている。
教室の窓からふと外に目を向けたら、静かに雪が降っていた。

ふわふわと。
ゆっくりと。






若王子先生の柔らかな声が微妙な温度の教室に響く。眠いのか眠くないのか、とてもとても不思議な気分に揺られながら、わたしは窓の外にそっと目を向ける。年末からずっと暖かかったのに、一昨日くらいから急に寒くなって、そうしたら今窓の外には雪。それも吹雪いてるわけでもない、かといって水っぽいぼたん雪でもない、ふわりと優しい一片の雲の欠片みたいなものがどんどん鈍い色の空から落ちてくる……そんな優しい雪。

さん」
「…………」
さん!」

「……えっ?あ、はいっ!」
急に名前を呼ばれてわたしは慌てて立ち上がった。その拍子に机の上のシャーペンとか消しゴムとかマーカーとかが勢いよく転がった。うわっカッコ悪い。若王子先生はゆっくりと机の横まで歩いてくると、大きな体をかがめて一つずつ落としたものを丁寧に拾っては並べていく。その指先がちょっとだけチョークで白くなって、人差し指に小さなささくれがあるのを見つめることもなくじっと見ていた。

「皆さん、外は雪です」
その声でみんなは一斉に窓の外に目を向ける。わーっとかすげーとか騒ぐ声が遠くに聞こえる。

「こんな話を知ってますか?雪が溶けたら何になるんでしょうって質問されたら何て答えますか?はい、佐々木君」
「えっと……水?」
「ぶっぶー、ハズレです。じゃあ、秋野さん」
「普通は水だけど……」
「皆さん、案外頭が固いですねぇ。正解は……春になるんです」

にっこりと笑って先生はまた教壇の方へゆっくりと歩いていった。そして黒板の文字を半分くらい斜めに消して、雪の結晶を綺麗に書いた。そしてそこからちょっと斜めになった矢印を書くと、その先に不器用な花の絵を描いた。
「Spring has come.この花はですね、見えないかもしれないけど水仙です。ワーズワースが感動した黄色い水仙の花。いつか皆さんがイギリスに行くことがあったらぜひ見つけてください。きれいですよ〜」

さっそくみんなが花にすら見えないとか色々突っ込んだけど、先生は知らん顔。話が脱線するのはいつものことだけど、今日はまた一段とかけ離れたことをしゃべってる。でもそんなふわふわと話があっちこっちに飛んでいく先生が好き。



「先生は雪国育ちじゃないから雪を見ると何だかわくわくします。だからさんがよそ見をする気持ちもわからなくもないです。でもね、後10分くらいだから我慢してくださいね、皆さんも。さ、続きをしますよ」


センター試験も終わって、もうすぐ学校に毎日通うこともなくなる。
そして2月が過ぎればすぐ卒業式。春が来れば何かいいことが起こる、とか。
いやいやきっとそれはない。卒業証書と受かれば大学の入学通知がもらえるくらい。わたしが好きになった人はあまりにも遠い存在で、卒業したらそれっきり逢えない。何年かして同窓会なんかで再会して、その時にはさずがの先生だって結婚して子供くらいいるかもしれない。


ああやだな。
こんなことばかり考えるわたし。
ぐるぐるぐるぐる思考だけが空回り。
後何回も授業なんてないのにほとんど頭に入らない。

ああ困った。
こんなんじゃ二次試験どころじゃないよ。

チャイムが鳴って、授業は終わり。途中で脱線したせいかいつもはぴったりに終わる授業が今日は中途半端に終わってしまった。他の先生は黒板の文字をそのままにして出て行ったりするけれど、若王子先生は必ず「消しますよ」って声を掛けてから丁寧に消していく。

「あ、そうそうさん。放課後化学準備室にいらっしゃい」
「はい?」
「ああっと、別に深い意味はないけど何か悩んでるなら相談に乗れるといいかなと先生思いまして」
「…………」
「大丈夫、ただ一緒にコーヒーでもどうかなと思っただけだから」
「行きます」
「うん、待ってます」

化学準備室のビーカーコーヒー。噂では先生オリジナルのサイフォンコーヒーを飲むと1週間くらい頭が良くなるってことだった。初めて聞いた時はそんなバカなって思ったけど、クリスマスプレゼントに「頭脳コーヒー試飲券」っていうのがあって、当たったわたしが券を持っていくと嬉しそうにビーカーでコーヒーを淹れてくれた。頭が良くなったのかどうかは結局よくわからなかったけど。


放課後の補習が終わって、ふと廊下の時計を見上げるともう5時前。おいでって言われてたけど今から行っても大丈夫かな。一応行くだけ行ってみよう。いなかったらいなかったで今日はうまく会わなかっただけってことで諦めよう。



さん、遅かったね」
化学準備室の引き戸を前に大きく一つ深呼吸。ノックをしようと手を上げた途端に、中からゆっくりと扉が開かれて笑顔の先生が立っていた。ちょっとちらかったデスクの上にはいつもビーカーが二つ。

「さ、早く早く。冷めちゃうから」、と早口で言いながら先生はそっとわたしを部屋の中へ招き入れた。古ぼけた電気ストーブしかない小さな部屋は、いつから先生が暖めていたのか思いの外暖かくて頬が赤くなった。

「寒かったでしょう、日本の学校は暖房がないからね。えっとさんはミルクを入れるんですよね。あ、ごめん、ちょっとぬるくなっちゃうかもしれませんねぇ、さっき自動販売機で買ってきたばかりだから牛乳が冷たいんだ」
「猫舌なのでちょうどいいです、たぶん」
「そう?ならいいんだけど」

二人してぎしぎし言う事務椅子に腰掛けて向かい合う。とりあえずは温かいコーヒー牛乳をいただこう。そうしたら帰ろう。

「元気ですか?」
「は!?」
「いや、授業中心ここにあらずって感じで雪を見つめてたから……」
「特に意味はないです」
「本当に?」
「はい」

なんて、実は雪が止んだ後のことを考えてました。って言ったらどういう顔をするんだろう?
雪が止んだら、春になったら、わたしと先生の関係はそこできっと終わってしまう。
そしてただの卒業生の一人になってしまう。
そんなことを考えるとちくっと胸が痛くなるんです、なんて言ったら先生は何て言うんだろう?
きっと思春期特有の症状でって言われるだけだろう。
だってわたしは先生から見るとただの生徒だから。



さん」
「はい」
「雪が止んだらお花見に行きませんか?」
「お花見……ですか?」
「うん、去年の春に行ったよね、森林公園。今年も一緒に行けるといいなぁなんて、ね」
「…………えっ?」
「えっと、ああ、そう、そうだった。さんもうコーヒー終わりましたね。寒いし帰りましょうか」
「はぁ……」

えっと、どうしたらいいんだろうわたし。
今年もお花見って卒業しても先生と会っていいんだろうか?
いいってことなのかな。
えっと、それって一体どういう?

「ささ、帰りますよ」手早くビーカーをすすぐと、コートを羽織って準備室の鍵をちゃらちゃらと回してる。「はーい」とわたしも返事をして鞄を持ってコートを羽織った。

さん、雪が止んで綺麗に溶けたら新しい季節になります」
「はい、春になるんですよね」
「そう。花を見に行きましょう。ワーズワースが好きだった黄色い水仙を見に公園まで」
「約束……ですか?」
「そうですね、さんがよそ見せずに授業を聞いてくれて、大学に受かったらね」
「うわっ、それ片方はすごい大変」
「大丈夫、君ならできるよ。僕が応援してる」

にっこりと微笑む先生の優しい瞳。
たぶん今日のこの笑顔だけでわたしはもっとがんばれる。





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