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金木犀、かおる


「彼女は私のものだ。手を放し給え」
「あ……零一さん」
「待たせたな」









待ち合わせは森林公園の入り口で午後2時。
土曜日の昼下がり。

わたしは春に結婚したばかりの夫と待ち合わせをしていた。午前中は授業があるというのに彼はどうしてもわたしの買い物につきあうと言って譲らず、携帯を気にしながらわたしはおとなしく彼を待っていた。
ぼんやりしていたのか、腕を取られて初めてナンパされていることに気がついた。ああ、またこんなところを見られたら零一さんに叱られちゃう。もうわたしだって立派に人妻なんだから毅然とした態度で断らなくちゃ。


「ちょっと何するんですか?止めてください」
「いいじゃんいいじゃん。さっきから見てたけど誰も来ないじゃん」
「来るんですっ!(とってもこわ〜い人がね)」
もういい加減にしてよね。わたしは腕を振りほどこうと体を思い切りひねってみた。
「こっちだ」と言う低い声が聞こえたと思ったら次の瞬間わたしの体はそのままよく知っている香りに包まれていた。




で、最初のセリフの場面に戻ることになる。
ナンパ男を追い払う間、わたしの体はずっと零一さんの腕の中に閉じこめられたまま。
静かに、それでいて強い意志を持って相手と対峙する姿に、その昔初めてデートめいたことをした数年前のことを思い出した。


あの時もこんな風に待ち合わせに早く来すぎたわたしはナンパされてもおどおどするばかりだった。はっきり断ればいいものを「彼氏と待ち合わせ?」という声に戸惑ってどうしていいのかわからなくなってしまったのだ。
そこに現れた「氷室先生」があの時何と言ったのか緊張のあまりもう覚えていないけれど、彼女さんだったらきっとこんな風にかばってもらえるんだろうなと思ったことだけ覚えてる。

「まったく君は……相変わらずだな。あ、いや、すまない。少々遅くなった」
「ううん、絶対来てくれるのはわかってたし」
「そうか。じゃあ行こう」
「はーい」

あの頃は想像の世界でしかありえなかったあなたとの距離。
今のわたしとあなたの距離はたぶん小さな物さし1本くらいのもの。
この場所にいることが、走ってきたのが判る距離にいることが幸せなのだと思う。

車に置いてきたのかスーツの上着もネクタイもなく、結婚してからたまに着るようになった薄いストライプのワイシャツのボタンは上から二つ開いている。昔は見たことがなかったラフな雰囲気。
そして駐車場からここまでの距離をよほど急いできたのか、いつもきっちりとまとめている前髪が額にはらりとかかっていて不思議な感じがする。
こんな顔、きっと生徒さんには見せることはないのだろう、わたしだって付き合うまではロボットみたいな人だと思ってたくらいだから。

どこへ行くのか、何を買うのか、それはいくらするのか。
あなたはもう何も言わない、というよりさすがに高校生相手ではないからか何も言わなくなった。

「先生?」
「こら、俺は今君の先生ではないだろう」
「ふふっそうねぇ。でもあなたはわたしに取ってはいつまでも先生よ」
「何だそれは。俺は君を一人の人間として対等に接するように努力しているのだが」
「その努力はよく判ってるわ。だからこうやって隣を歩いてるでしょ」
「まあ、そうだな。どうかしたのか?」
「ううん、何でもない」
「それが何でもない顔か」
「じゃあ何だと思う?」
「言ってくれなければ判らない」
「どうしてわたしが良かったの?」
「……?」

今更君は何を言っているんだ。そんな顔。でもね、聞きたいの、年に1回くらいははっきりあなたの声で聞きたいの。わがままなのは判ってるけど。
夕飯の買い物をして、手をつないで森林公園を歩きながらの会話。駐車場まで後たぶん5分くらい。ふとあなたの足が止まって、わたしをじっと見ている。9月も半ばを過ぎてそろそろ夕暮れが早くなってきた頃。
あなたは両手に紙袋と食材で膨らんだエコバッグを持ったまま、すっとわたしを自分の方へと引き寄せた。

「理由などいらないだろう」
「判ってる……わ。でもね」
「誰かを好きになることに理由など不要だと言うことを教えてくれたのは君だろう」
「先生……」
「零一、だ」

理由なんてない。そんなことわたし自身がよくわかってる。
あなたがわたしの先生だったから出会っただけで、もしも学校の先輩だったとしても、もしもバイト先で出会ったとしても、どこで出会ったとしてもきっとわたしは好きになったに違いない。
あなたがあなたである限りわたしはこの不器用で大きな人を好きになるだろう。

「もし……」
「……?」
「もしも零一さんと違う形で出会っても見つけられたかな」
「この大きさならば見つけやすいのではないか」
「かも」
「しかし、君はどうだろう。俺の視界に入ってくれなければ見つけられない」
「そう来ますか」
「いや、俺が下を向けばいいだけだな」
「ええ、少しくらい猫背になってもわたしを見つけてくださいな」
「了解した。さあ、帰ろうか」

ひんやりとしたエコバッグの感触と温かなあなたの腕の感触と。
すっかり暮れなずんだ森林公園の大きな木の陰でぎゅっと抱きしめられて、わたしは黙ってその胸に頭を預けて心臓の鼓動に安心する。
並んで歩く遊歩道の彼方から気の早い金木犀の香りが柔らかな風に乗って漂ってくる。

こんな穏やかな日がずっと続けばいい。
永遠なんて無くてもいい。

この人と過ごす日々は永遠じゃなくてもいい。
何度も何度も繰り返し出会って恋に落ちてこうやって隣を歩きたいから。


ねえ、あなた。

「金木犀か」
「金木犀ね」

両手がふさがっていて、手をつなげなくても心はきっと繋がっている。
それが一緒にいることの意味。


ねえ、あなた。





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