■東北本線 黒磯−白河旧線■

1.沿革

(1)歴史
 この区間は、旧日本鉄道が第2区線として開業以来、輸送需要の増大につれて、その地形に由来する線形の悪さから輸送上のボトルネックとなっていった。大正年間に入ると東北線を主軸とする鉄道網の発達に従いこの状況が顕在化するにいたり、ついに大規模な路線変更が行われ、旧線の大半は道路に転用された。
 その後旧線跡は、当時の雰囲気を色濃く残しながら80年近くを経た。が、1998年晩夏にこの地を襲った未曾有の水害と、その後の長期にわたる復旧工事により残存していた多くの遺構が失われ現在に至っている。
月日 出来事
1886(M19) 12.1 日本鉄道 第2区線 黒磯まで開業
1887(M20) 7.16 日本鉄道 第2区線 白河まで全通 第3区線白河−郡山開業
1891(M24) 9.1 日本鉄道 青森まで全通
1906(M39) 11.1 政府買収により国有化
1914(T3) 年度 黒磯−白河間路線変更用地買収に着手
1915(T4) 年度 黒磯−白河間路線変更工事に着手
1916(T5) 10.8 白棚鉄道開業(11.29全通)旧線の一部を利用  *1
1917(T6) 白河−久田野間路線変更工事に着手
白河駅改良工事に着手
1918(T7) 久田野−泉崎間路線変更工事に着手
1920(T9) 3.10 黒磯−黒田原間新線供用開始
11.1 黒田原−白坂(白河?)間新線供用開始
1929(S4) 全ての改良工事を終了
1944(S19) 12.11 白棚鉄道営業休止
1959(S34) 7.1 黒磯−白河間交流電化
1964(S39) 黒磯−白河間数次に分けて複線化
1998(H10) 8.27 那須大水害発生
上記年表は
参考文献: 1,2,6,13,25および土木学会誌旧版(一覧表のNoを示す)
を総合的に勘案して作成したが、大規模工事であったせいか竣工時期は、T9、T11、S4と三説あった。新線の供用開始時期については、複数の資料で同一の記述があることから、関連工事(白河駅改良、白河−泉崎間改良など)の取り扱いによる差異と思われる。*1の白棚鉄道については、白河付近で旧線を使用していたとの記録があるが、この区間(白坂−白河間)の新線切り替え時期が判然とせず共用であったか本線切り替え後の利用であったか定かでない。T4に白河駅が現位置へ移動したと読み取れる文献もあった。白河駅、白坂駅などの竣工時期等から見ても工事がかなり多くのステップに分けて行われたことは想像に難くないが、詳細はさらに調査が必要と考えている。
(2)駅
開業時駅名 開業年 改称など 備考
黒磯 1886(M19).12.1
高久 1964(S39).9.1 1914(T3)6.25設置
の信号所を昇格
(旧位置不明)
黒田原 1891(M24).9.1 新線建設により現位置へ移転
豊原 1887(M20).7.16 下野豊原
T14.4.4〜
  S23.8.1
新線建設により現位置へ移転
白坂 1917(T6).2.20
磐城西郷 1959(S34).4.1 新白河
S57.6.23〜
白河 1887(M20).7.16 新線建設により現位置へ移転
現駅舎は1921(T10)竣工
黒磯駅には、開業と同時に機関庫が設けられた。すでに機関庫が置かれていた宇都宮から60kmほどで機関庫が設けられたのは、やはり、前途に立ちはだかる勾配区間を意識したものと思われる。1901(M34)、機関車の運用効率上、宇都宮・福島の機関車折り返し地点を白河とし、やがて機関区も白河へ移転した。
(3)車輌
開業時、日本鉄道に在籍(官鉄より転入)した勾配用機関車は、B2(ダブス製Cタンク、後の1850型)である。2年後には、ナスミスウイルソン1Cテンダ機(後の7600型)が登場しこの区間で使用されたとの記録がある。面白いところでは、1913(T2)ごろ黒磯にアルコ製のマレー機9020型(オリジナルはB−Bであるが先輪を追加して1B−B)が配置されていたとの記録がある。急曲線・急勾配のこの区間に好適と判断されたのだろう。切り替え工事に着手した頃には、9600型なども登場していたが旧線に使用されたかどうかは不明である。

 

2.廃線跡

 2005年1月22日、いつも古絵葉書を提供してくださるNao.S氏と現在線専門の745−89氏の3名で調査を行った結果と、Nao.S氏が1990(H2)1991(H3)に調査された記録をあわせてご紹介する。なお、とちレビでは遺構を中心に取り上げており、全体像の把握には「鉄路」様のHPをあわせてご覧頂くことをお奨めする。
    ■黒磯−黒田原へ
    ■黒田原−豊原へ
    ■豊原−白河へ


3.あとがき

 20年ほど前、ここを始めて訪れたとき強く引くつけられるものを感じた。それは、道路となった廃線跡や周囲の風景が当時の状況を思い起こさせるのに充分な雰囲気を持っていたからであり、その後、幾度と無くこの道を通った。時には、運転する車を列車に見立ててみたりもした。「廃線跡を走って撮影地に行ける」ことも魅力だった。
1998年の水害後程なくここを訪れたとき、その被害が予想以上に大きいことにショックを受けた。あののどかな人々の生活感も、景色も一変していた。災害発生時に何もできなかった自分が情けなかった。好きな場所であったこと事が余計にこれを増幅した。これがトラウマになり、しばらくの間ここを訪れることはなかった。久々に訪れた今回の調査で、河川、橋梁などの復旧がほぼ完了している状況を見たが、被害にあわれた方の心的・物的な傷はこれからも容易に癒える事は無いだろう。これらの方々の1日も早い「完全復旧」をお祈りして、あとがきとする。
参考文献: 1,2,6,10,13,19,25(一覧表のNoを示す)、土木学会誌旧版



トップページに戻る
【お願い】本サイトはフレーム構成です。
フレーム表示されていない場合は
上でいったんトップページにお戻りください



旅先リストに戻る

更新    
作成    2005.3.13

Copyright (C) 2005 Daruma-Kozo. All Rights Reserved