ルツェルンとラフマニノフ

 ルツェルンという町は、本当に不思議な町で、ワーグナーが住んでいただけではなく、ここにエドウィン・フィッシャーが居て、シュナイダーハンが教えていてホロヴィッツが休暇を楽しみ、フルトヴェングラーワルター、そして尊敬するカザルスが滞在し、本当に音楽家たちから愛された町だったようです。

 夏のルツェルン音楽祭は、そういう背景があってこその音楽祭なのでしょうね。

 さて、今世紀に生きたピアニスト兼作曲家の中で、最大の人といえば、ラフマニノフではないでしょうか。
 ロシア革命と共にロシアを去り、アメリカで主に活躍することになった彼は、それでも一九三一年に訪れたルツェルンをいたく気に入った巨匠は湖畔に土地を買い、翌年、整地し家を建てたのです。
 土地(なんと2ヘクタール)の中にある大きな岩を爆破して取り除く手配をしたり、家の設計を研究したり、そして更に、庭に何を植えるかまで監督したそうで、ルツェルンの家に大変な入れ込みようだったそうです。
 さて、この家がどこにあったのか、探しているのですが、まだ見つかりません。ご存知の方、居られたら、ご教授いただければと思っています。湖から撮った家の全景の写真の背後にリギの斜めの地層が見えていますのでビュルゲンシュトックの辺りか、ヴェッギスの近くではないかと思っているのですが。

 ここをホロヴィッツが訪ね、一緒に連弾を楽しんだりしたそうですし、夏になれば、トスカニーニやメンゲルベルクといった大指揮者も訪れています。
 この家をラフマニノフは自分の名のセルゲイの「セ」と妻のナターリャの「ナ」と名字から一文字とって「セナル」と名付けてこよなく愛していたようです。

 ここで、交響曲第3番とあまりに有名な「パガニーニの主題によるラプソディー」が作られました。
 「パガニーニの主題によるラプソディー」は、恐らく聞けば、多くの方が「あああの曲かぁ」というほどの名曲です。パガニーニ(十八世紀、イタリアのバイオリニスト兼作曲家)の24のカプリースの第二十四番をテーマにした変奏曲の形態をとっています。
 また、少々マイナーではありますが、交響曲第3番イ短調は、ロシア的な主題、卓越した管弦楽法によって、真に名曲といえるものとなっています。

 ピアニストとして、アメリカのマネージャーと契約していて、大変な競争にさらされていた彼は、大変な練習をこなしていたそうですので、ロシアを去って後、ニューヨークなどに住んでいる時には、ほとんど作曲をしていません。目立ったものと言えば、ピアノ協奏曲第4番位でしょう。
 この頃、ピアニストとしての腕の衰えが来ていて、本人がそれを自覚していたにも関わらず、家族の生活の安定の為には、ヴィルトゥーソとしての道を歩まねばならなかった、ジレンマがあったのではないでしょうか?
 ともかく、ピアニストとして、競争にうち勝ち、安定した生活を送ることをまず第一に考えるという、音楽家としては、随分堅実な性格のひとだったようですね。
 ただ、そのため作曲は、休暇に静かな環境を確保出来たときだけ行われるようになってしまい、残された作品が、それほど多くないのは、残念です。

 セナルでは、彼は作曲に没頭できたようです。もちろん、音楽家を始め多くの訪問があっても、スイスの中央の湖畔の家は、彼に作曲に打ち込める環境を与え続けたのです。

 シーズンをアメリカで過ごし、春から秋までセナルで過ごすのが三〇年代のラフマニノフの年間スケジュールでありました。そして一九三九年八月十一日、アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団とベートーベンのピアノ協奏曲第1番と自身の「パガニーニの主題によるラプソディー」を演奏したのが、彼のヨーロッパとの訣別の音楽となったのです。

 先の大戦で、多くの音楽家がスイスに逃れてきたのですが、ラフマニノフは一九三九年、ルツェルン音楽祭で演奏した後、年末になってアメリカに戻っていますが、それ以降、スイスの家に戻ることはできなかったのは、皮肉です。
 根っからのロシア人であることを自覚していた彼は、一九四〇年になってもまだ、アメリカの市民権をとっていません。死の年の一九四三年の二月一日に始めてアメリカのパスポートを手にしたのです。

 それほど、ロシアに根ざした彼の音楽は、見かけの甘さ、感傷だけでは量れない奥深さ、幅広さを持っていることは、あまり触れられません。確かに、ストラビンスキーのような前衛性を持っていたわけではありませんが、その音楽は紛れもなく二〇世紀のものであることは言うまでもありません。

 もう少し長生きして、戦後になっていれば違っていたのでしょうけれど…。