その中から、ピアノだけにあきたらず、自身で室内管弦楽団を組織して、知られざる作品の発掘(バーゼル・スコラ・カントゥルムの精神でもあります)や、バッハやモーツァルトを指揮したり、ピアノを弾きながら指揮したり(当時は大変珍しいことだったそうです)しています。
残っている録音の中には、自分のオーケストラとのバッハのブランデンブルク協奏曲第五番や、バッハのピアノ(チェンバロ)協奏曲、モーツァルトのピアノ協奏曲二十番などがあり、さらには、フルトヴェングラーの自作自演のピアノと管弦楽のための交響的協奏曲の初演の時?の録音などもあります。
フルトヴェングラーとの交友は特に重要で、ブラームスの協奏曲第二番やベートーヴェンの皇帝など、フルトヴェングラーが他では録音しなかったものも含まれていて、今でも、これらの曲のファースト・チョイスとしての評価を受けている名盤であります。
面白いことに、フルトヴェングラーはこれらの曲を、わずかな例外を除いて、フィッシャーとばかり演奏をしています。
確か一九一七年のシーズンではじめて共演していますから、それからフルトヴェングラーの死の年の一九五四年まで、ずっと続くのです。
さて、ベルリンを中心に活躍していたフィッシャーでしたが、戦争が激化してきた一九四二年にスイスに帰っています。
彼は、ルツェルン湖のほとりにあるヘルテンシュタインに住んだそうです。ルツェルンから船で行けます。但し、本数が少ないのが難点ですが。
ここでも、ピアノのマスター・クラスを持ち、大変情熱的に教えていたそうで、出身のバーゼルの大学からの名誉博士号などをもらい、尊敬の内に一九六〇年一月二四日、永眠しました。
音楽に身も心も捧げたスイスの大音楽家は、やはりドイツ、フランスの文化の十字路で、育まれたのでした。
そして、晩年、ワーグナーの住んだトリプシェーンからほど遠くない湖畔の家で、充実した一生を終えたのです。
スイスは文化の不毛地帯等とは、もう言わせませんよ!
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