ルツェルンとエドウィン・フィッシャー

 一八八六年十月六日、スイスのバーゼルに生まれたエドウィン・フィッシャーは、今世紀前半を代表する大ピアニストです。お父さんはバーゼル管弦楽団のオーボエ奏者で、弦楽器も巧みに演奏し、弦楽四重奏でヴィオラを弾いていたといいますから、多才な人だったんでしょうね。

 四才でピアノを始め、十才の時バーゼル音楽院に入り、ハンス・フーパーに師事した、と略歴にありますが、さてどんな先生についたのでしょう?フーパーについては、知りませんが、十八才までここで学んだのですから、技術的にも精神的にも、最も重要な時期のほとんどをここで過ごしたわけです。
 十八才の時、父が亡くなります。この年ベルリンに出て、シュテルン音楽院で名教師のマルティン・クラウゼに師事。そして翌年にはここで教えるようになっています。
 それから十年、ここで学んだり、教えたりという生活をした後、ピアニストとしてのデビューを果たし、活動を開始します。瞬く間に楽壇のトップに躍り出たフィッシャーは、当時の多くの大音楽家、例えば後々まで深く親交を結ぶことになるフルトヴェングラーやワルターといった大指揮者と共演し、多くのものを吸収していったようです。

 その中から、ピアノだけにあきたらず、自身で室内管弦楽団を組織して、知られざる作品の発掘(バーゼル・スコラ・カントゥルムの精神でもあります)や、バッハやモーツァルトを指揮したり、ピアノを弾きながら指揮したり(当時は大変珍しいことだったそうです)しています。

 残っている録音の中には、自分のオーケストラとのバッハのブランデンブルク協奏曲第五番や、バッハのピアノ(チェンバロ)協奏曲、モーツァルトのピアノ協奏曲二十番などがあり、さらには、フルトヴェングラーの自作自演のピアノと管弦楽のための交響的協奏曲の初演の時?の録音などもあります。
 フルトヴェングラーとの交友は特に重要で、ブラームスの協奏曲第二番やベートーヴェンの皇帝など、フルトヴェングラーが他では録音しなかったものも含まれていて、今でも、これらの曲のファースト・チョイスとしての評価を受けている名盤であります。

 面白いことに、フルトヴェングラーはこれらの曲を、わずかな例外を除いて、フィッシャーとばかり演奏をしています。
 確か一九一七年のシーズンではじめて共演していますから、それからフルトヴェングラーの死の年の一九五四年まで、ずっと続くのです。

 さて、ベルリンを中心に活躍していたフィッシャーでしたが、戦争が激化してきた一九四二年にスイスに帰っています。
 彼は、ルツェルン湖のほとりにあるヘルテンシュタインに住んだそうです。ルツェルンから船で行けます。但し、本数が少ないのが難点ですが。

 ここでも、ピアノのマスター・クラスを持ち、大変情熱的に教えていたそうで、出身のバーゼルの大学からの名誉博士号などをもらい、尊敬の内に一九六〇年一月二四日、永眠しました。

 音楽に身も心も捧げたスイスの大音楽家は、やはりドイツ、フランスの文化の十字路で、育まれたのでした。
 そして、晩年、ワーグナーの住んだトリプシェーンからほど遠くない湖畔の家で、充実した一生を終えたのです。

 スイスは文化の不毛地帯等とは、もう言わせませんよ!