1999年7月17日午後

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グッチャルディーニ邸 マキャベッリの生家のあるグッチャルディーニ通りは、名門グッチャルディーニ家の邸宅があったことからその名が付けられた。このほかにも、この名家の名が付された通りがある。ベッキオ橋から少し西側のアルノ川南岸は、グッチャルディーニ河岸通りと名付けられている。この河岸通りには、グッチャルディーニ邸が今も残されていて、観光地図にも載っている。
晩年のマキャベッリは、この名家の御曹司フランチェスコ・グッチャルディーニと親しくなり、法王庁の総督にまで出世したフランチェスコの下で働くようになった。マキャベッリ・ツアーとしては、グッチャルディーニ関係の名所も押さえておきたい。というわけで、河岸の邸宅を見に行く。内部の見学はできないため、外観だけの見学だが、裏と表と、丹念に観る。

この通りの近くには、サンタ・マリア・デル・カルミネ教会がある。
この教会の中にあるブランカッチ礼拝堂のフレスコ画を観に行った。マゾリーノ、マサッチョのコンビが手がけ、リッピによって完成された、ルネッサンスの記念碑的作品と言われる名画である。
もっとも、私としては、いまひとつ感銘を受けるものではなかった。ルネッサンス時代特有の凄みのようなものがないように感じられた。
こういう状況で妙に関心してしまうのが、欧米人観光客たちの熱心さである。私などは、ざっと見渡して「ああこんなものか」で終わってしまうのだが、彼らは、壁面の一つ一つのフレスコ画を丹念に鑑賞し、同行者との間で意見交換をしている。私も、マサッチョがルネッサンス絵画に革新をもたらした、という一応の美術史的な知識はもっていたし、実際に観て、その記念碑的な意義はなるほどと理解できた。けれど、彼らほどには熱心に観ることはできない。美術品や宗教絵画に対する根本的な考え方の違いなのだろうか。

サンタクローチェ教会/マキャベッリの墓標 昼食の後、サンタクローチェ教会に向かった。教会の内部には、マキャベッリの墓標がある。
ただし、この墓標は18世紀に制作されたもので、そこにマキャベッリの遺体が埋められているわけではない。マキャベッリが死んだ当時、墓はちゃんとあったようなのだが、その後、マキャベッリ家直系の後継者が途絶え、墓を管理する人がいなくなった。そのため、共同墓地の無縁仏の扱いになったらしい。

教会の売店では、意外にも、この墓標の写真が絵はがきとして売られていた。
これは、私がフィレンツェで目にした、唯一のマキャベッリ・グッズである。これを買わずして、マキャベッリ・ツアーは成り立たない。というわけで、2枚も買ってしまったのだが、誰かに送れるようなシロモノではない。墓標の写真で、しかもマキャベッリのものである。送った相手から白い目で見られること間違いなし。

パッツィ礼拝堂(サンタクローチェ教会) まあ、絵はがきの売れ行きは芳しくなかろう。
マキャベッリの墓標にしても、立ち止まってしげしげと眺める人は私くらいのものだった。むしろ、ジョット、ドナテッロ、ヴァザーリといった面々が制作した名画や墓標などが観光の目玉である。
それと、ブルネッレスキの代表作パッツィ礼拝堂。パッツィ家は、反メディチの陰謀を企てて失敗し、フィレンツェから追放された一族で、この陰謀の一件は、マキャベッリの「政略論」で詳しく述べられている。徹底的な処刑と追放処分を受けたはずのパッツィ家だが、その礼拝堂は、こうして立派に保存され続けてきた。
そして、その裏手にはメディチ家の礼拝堂もある。ミケランジェロの墓あり、ギベルティの墓ありと、ルネッサンス期のフィレンツェの役者が勢揃いした感じの教会だった。

ホテルに戻る途中、ウッフィツィ美術館の様子を見てみると、名物の大行列が消えていた。
どうやら、夕方になってしまうと、ツアー客が消え失せ、並ばなくても入場できるようだ。ハイペースで歩きまわった疲れもあって、翌日に来ようとも思っていたが、空いていたので入場することにする。切符売場で少し並んだけれど、2人待ち程度。あっさり入場できた。
ウッフィツィ美術館 最初は、お目当てのボッティチェルリの作品を観たら、後は流して観て帰ろうと思っていた。かなり疲れていたのである。しかし、そう簡単に立ち去れるものではなかった。
またしても、名画の洪水。飽きるほど名画は観てきたはずだが、ここでもまた感動の嵐。
ルネッサンスという短い時代の間に、傑作を描く天才がよくもまあ次々に現れたものである。新しい部屋に移るたび、私は首を振ってばかりいた。これでもかと凄い傑作が次から次へと現れる状況に、感銘を受けると同時にあきれかえっていたのである。疲れた体にむち打つ名画の数々。もう参りましたから勘弁してください、という感じ。

かくして、へとへとになってホテルに戻る。疲れで、体調は最悪。
ベッドに横になったら、そのまま眠りこけてしまった。気がつけば深夜。食事に外に出られる時間ではない。
カップラーメンの夜食で済ます。イタリアに来て忙しく動き回り、カップラーメンで夕食をとるというのは、あまりにも空しい。明日からはペースを落とそうと決意する夜であった。


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