1999年7月16日午前

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ピッティ・パラス・ホテルの屋上 私が陣取ったホテルは、”ピッティ・パラス・ホテル”という。ホテルのグレードが”パラス”なのではなく、ピッティ宮に近いから付けられた名称(だと思う)。朝食は屋上のバールでとるのだが、眺めはなかなかいい。このホテルの建物は、第二次世界大戦時の空襲で破壊された古い塔を改築したものだそうだ。マキャベッリの生家にも近く、おそらくマキャベッリの生家と運命をともにしたのではないかと思われる。
地下に、中世期の塔の遺構があるというので、朝食の後に行ってみた。なるほど、ゴツゴツした岩があった。しかし、これは自然の岩盤なのか、人がつくったものなのか? ともあれ、おまけの観光ができた。

カテリーナ・スフォルツァ 2日目の観光は、ホテル近くのピッティ宮から始めた。宮殿内にあるパラティーナ美術館を見学。例によって、ラファエロ、ティツィアーノなど、名画の洪水である。この美術館は、あまり作家や年代ごとの整理をしていないため、雑然と様々な絵画が展示されている。しかし、この二人の作品はすぐわかる。作品を観て、これはいいな、と思って近づいてみると、必ずこの二人のどちらかの名前があるのだ。やはり、巨匠の作品には人を惹きつける魅力があるらしい。
この美術館で、思いがけずカテリーナ・スフォルツァの肖像画を見つけた。マキャベッリがフレンツェ政庁書記官時代に、初めての対外交渉の相手となったフォルリの女領主である。マキャベッリの著書にも何度も登場する人物でもある。子どもを人質にした敵軍の前でスカートをめくりあげ、「子どもは、ココでいくらでもつくれる」と、たんかをきったという下品なエピソードでも有名。当時、イタリアNo.1の美女と言われ、彼女の肖像画はおみやげとして売られていた。マキャベッリは、政庁の同僚からそれを買ってくるように頼まれたとか。

今も残る城壁と門 ピッティ宮はその他にも見所がたくさんあるのだが、パラティーナだけにして中央駅に向かう。
昼頃を目途に、マキャベッリが「君主論」を書いた山荘のあるサンタンドレア・イン・ペル・クッシーナにたどりつきたいと考えていたからだ。駅近くの”SITA”というバス会社のターミナルに行く。実は、サンタンドレア行きのバスがあるかどうか、前もって全然調べてなかった。インターネットでかなり調べたのだが、結局情報が得られず、ぶっつけ本番である。案の定、壁に貼ってある時刻表などからは全くわからない。切符の自動販売機を操作してみると、サンタンドレア行きの切符が買えることがわかった。どうやら、SITA社のバスの便がありそうである。
そこで、切符を窓口で買いながら詳細を聞こうと思ったのだが、売場の人が異常に不親切で横柄な人だった。切符を買うのがやっと。仕方なく隣の窓口の人に出発時刻を尋ねると、こっちも同じような態度。時刻表をパラパラめくって、早口のイタリア語で発車時刻を言うなり、パンと時刻表を閉じてしまう。頭に来た私は、発車時刻をゆっくりとメモにとると、それから、睨みつけるようにバスの出る停留所番号を聞いた。相手は渋々もう一度分厚い時刻表をめくりなおして停留所番号を調べ、私に番号を告げる。何ともご苦労な話である。丁寧に対応すれば時間も手間もはぶけるというのに。

オルティ・オルチェラーリ通り とまあ、苦労はしたものの、サンタンドレアへの足が確保できてホッとする。
バスの出る時刻まで時間があったため、駅に近いオルティ・オルチェラーリ通りに行ってみる。ここは、ルッチェライ家の別邸があったところ。失職後のマキャベッリが、オルチェラーリの園」と呼ばれる文化サークルのような集まりに招かれ、若者たちを相手に、自分の著作を読みながら解説したり、議論をしたりしていた場所である。マキャベッリ・ツアーならではの見所である。
しかし、かつての別邸は現存していないらしく、広い庭園だけが当時の面影を留めているだけだ。

駅近くのバスターミナルに戻り、”S.FABIANO”行きのバスに乗り込む。いよいよサンタンドレア・イン・ペル・クッシーナに出発である。
バスの出発時間は12時55分。停留所番号6番。窓口の人とやり合ったためか、念願の場所に行けてうれしかったためか、今でもその時刻と番号をしっかりと覚えている。


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