ご意見等は
まで
クロノス・クァルテットをライブで聴くのは、 2000年4月、 2001年6月 に引き続いて3回目。 つくばに来てくれるということで、ありがたく馳せ参じた次第である。
最初の4曲はアルバム「ヌエボ」に収録されている曲。 このアルバムは真面目に聴きこんでいなかったが、 それでもどことなく記憶にあるものばかりであった。 クロノスはこれらの曲では録音による他の楽器とのセッションを行い、 特に「12/12」では、 ヴィオラ奏者が笛を振り回して曲が始まるのが印象的であった。 録音を駆使するのもクロノスの特徴であるが、 そのあとの4曲では彼らのみの演奏であり、 最後のシガー・ロスの曲では電気的な増幅をかなり用いていたものの、 純粋な弦楽四重奏で勝負していることがかえって強い印象を与えるものであった。 「ダーク・ワズ・ザ・ナイト」ではデヴィッド・ハリントンが ヴァイオリンをウクレレのように用いていたり、 「エビック・タキシム」ではヴィオラが主要な役割を演じていたり、 それぞれの曲に個性が感じられた。 前半で一番よかったのは、シガー・ロスの曲であったと思う。 まだ CD になっていないはずなので、是非録音してもらいたい。後半はヴァスクスの弦楽四重奏曲で、これは既に CD になっているものを 聴き込んで今日のコンサートに臨んだが、 CD で聴いた時と同じく、この曲の白眉は第1楽章と第5楽章の両緩徐楽章と思った。 これらの楽章の、 何か地球の音楽でないような静謐さが、実演でも強く印象に残った。 最後、奏者を照らす照明すらもほとんど落されるなか、 消え入るように曲が終わると、 聴衆は誰も拍手ができず、 奏者が楽器につながった線を取って照明が復活するまで ひたすら静寂が続いたことも印象的であった (聴衆にとってなじみのない曲で、 終わったこと自体がわからなかったからかもしれないが)。
アンコールの2曲は、最初はエチオピアの作曲家、次はジプシー音楽であり、 これらの曲も録音を用いない弦楽四重奏のみの演奏であった。 前半の曲もメキシコ、アメリカ、トルコ、アイスランドと様々な国の曲が 演奏されており、クロノスの貪欲な姿勢を改めて知らされることとなった。 また、今回も照明が非常に効果的に用いられていたことが、 普通のクラシックのコンサートとあまりにも異なり印象jに残った。 それから、今回は上にも書いた通り、 録音を用いない弦楽四重奏のみの曲の方が圧倒的に多く、 「他の楽器を(録音という形で)用いてでも、弦楽四重奏の可能性を広げようとする」という、 クロノス・クァルテットに対するこれまでの私の理解に関して、修正を迫られたようにも思えた。
(2003年12月20日執筆)
たまたま同僚と横浜でクレーメルのコンサートを聴くという幸運に恵まれた。 やはり今日一番の期待はバッハのシャコンヌ。 ほとんどの聴衆がそうだったのか、 クレーメルのヴァイオリン1本が大きいみなとみらいのホールを 完全に支配しているように思えた。 私はあまりの緊張に、石のように体を硬直させて、 ただただ呆然と聴いているより仕方がなかった。 クレーメルは余計な思い入れを込めているわけでもないが、 しかしただ淡々と演奏しているというのとも異なる、 何とも言えない印象を残す演奏をしていたように思えた。
次のシュニトケは全く知らない曲であったが、いかにもシュニトケ、いかにも現代曲 という緊張感を楽しむことができた。ズラビスのピアノのサポートも緩急自在の 見事なものであったように思うし、 何よりクレーメルがピアノに襲いかかるように演奏している様が非常に印象に残った。 クレーメルの超高音の弱音が極めて美しかったことも印象的であった。 同僚も言っていたが、やはり現代曲はCDじゃなくてライブじゃないと 緊張感を味わうことは難しいように思うし、視覚的な情報によって初めてわかる 理解というのも多いような気がする。 解説にも色々と書かれていたが、 この曲は、様々な聴いたことある旋律、要素が聞こえてきたような気が して仕方がなかった。 バッハのシャコンヌを聴いた後だったからか、 そのシャコンヌが解体されて曲に取り込まれているようにすら感じられた。
前半の2曲のあまりの緊張感にかなり疲れ果ててしまったので、 後半はむしろ気楽な気分で聴いていた。 「バッハの短調の曲はやっぱりいいな」とか、 「リストの編曲は、やはり超絶技巧を要求するものなんやな」とか思いながら、 バッハのピアノソロを聴いていた。 プログラム最後の曲のフランクは、交響曲自体を聴いたことがあるはずなのに 全く記憶になく、白紙の状態で聴いていた。 シュニトケを聴いた後では19世紀の曲であるフランクはあまりに甘く聴こえてきて、 「わざわざクレーメルが演奏する必要があるのか」と思ったが、 最後のプレストなどを聴いていると「さすがクレーメル」と180度反対のことを 思ってしまっていた。 フランクの編曲はたぶんほとんど演奏されることがないのだと思うが、 そういう曲にも光を当てるクレーメルの姿勢には改めて感心させられるとともに、 この曲がもっと通常のレパートリーになってもおかしくないように感じられた。
アンコールでは1曲ピアソラをやってほしいと思っていただけに、 それほどなじみのない曲ではあったものの、明らかにピアソラと わかる旋律が耳に入った時には非常に嬉しいものがあった。 それから、最後のクライスラーは軽妙洒脱という言葉がピッタリ当てはまるような、 聴いていて非常に楽しいものであった。
(2003年10月12日執筆、13日補筆)
アルバン・ベルク四重奏団(以下、ABQ)をライブで聴くのは、 確か6年前のシューベルトイヤーに「死と乙女」を聴きに行って以来、2度目である。 ABQ が間違いなく現代最高レベルの四重奏団であること、 そして数年前に、ABQ の「クロイツェル・ソナタ」の CD にすさまじい衝撃を受け、 何としても彼らのライブでこの曲を聴いてみたいと思ったことが、 わざわざ埼玉くんだりまで足を運んだ動機である。
会場に着いてまず驚いたことは、 曲順が当初の予定から変更されて、シュニトケとヤナーチェクが入れ替えられていたことである。 ヤナーチェクは20分に満たない曲であり(ハイドンよりも短いのでは?)、 シュニトケが35分くらいかかる長大な曲であることを考えると、 後半がヤナーチェクのみというのはややバランスを欠いているように思われた。 しかし結果的には、この曲順でよかったように思う。
最初のハイドンは全く聴いたことのない曲。 いかにも「室内楽」という小規模さ、親密さをしみじみと感じさせる曲、 そして演奏に、 「普通の弦楽四重奏のファンは、 こういう曲を求めているんだろうな」などという ことを思いながら聴いていた。 「ハイドンの代わりにベルクの弦楽四重奏曲でプログラムを組んでくれたら完璧だったのに」 とすら思っていたが、 たまにこういう曲を聴くのも悪くはないなとも思った。 さすがに200年以上の歴史の淘汰に耐えた曲ということもあるのだろう。
シュニトケの第4番は、CDこそあるもののほとんど知らない曲で、 ABQ の CD も持っていたが、敢えてクロノス・クァルテットのCDで予習を試みた。 それでも曲の全体像を頭にたたき込むことができないまま、 今日のコンサートに臨んだ。 もちろんCD とライブの違いというのもあると思うが、 ひたすらエッジの効きまくった音で押し切るクロノスと違って、 切れ味だけでなく、 どことなく音に柔らかさすら感じさせることが印象的であった。 第1楽章など、弱音で弓を使い切って音がふっと消える時の 柔らかさは絶品であった。 第2楽章などは仮借のなさすら感じさせるクロノスの方がいいかもしれないと 思ったりもしたが、 それでも今回の ABQ の演奏は良かったと思う。 今回のツアーでシュニトケを演奏するのは この演奏会だけだというのはもったいないことだと思うし、 今日聴けたことはラッキーだった。
しかし今日の私にとっての白眉は、やはりヤナーチェクであった。 この曲を初めて聴いたのが ABQ の CD であり、 その後、テレビ、ラジオ、ライブなどで聴いた、 この曲の他のどの四重奏団の演奏にも満足できなかったので、 何としてでも ABQ の生演奏でこの曲を聴いてみたいというのが、 ここ数年の宿願であった。 今日の演奏は、期待に違わぬ実に素晴らしいものであった。 やや間の取り方が違うところもあったが、 基本的には CD の演奏とほぼ同じ解釈で、 この曲を初めて彼らの CD で聴いてひしひしと感じた時のままに、 激しい感情をストレートに、 そして極めて薫り高く表現していて、ただ感嘆するよりなかった。 テクニック的には、第2楽章、第3楽章に現れる 駒のすぐ近くで演奏するスル・ポンティチェロの音が、 実に見事にコントロールされて美しさすら感じさせたのが印象的であった。 しかし最も自分の心に響いたのは最終楽章であり、 あまりにも激しい情念がただただ疾走していく様に、 そして「この素晴らしい曲がもう終わってしまうのか」と思うと、 平静さを保つことができず不覚にも思わず涙してしまった。 コンサートを聴きに行って涙したことなど、記憶にないというのに。 この曲に対する思い入れが強すぎたのが、よくなかったような気がする。
最近こんなことばかり書いているが、 ヤナーチェクを聴いて涙した後では、 アンコールはなくてもよかったのにと思った。 しかし、一転柔らかく美しいドボルザークも、 非常によい演奏であったと思う。
(2003年6月1日執筆)
今回のコンサートはクレーメルを見に行くのが メインの目的だったので、 正直それほど気合いは入っていなかった。 席も最も安いオルガンの下の席(Pブロック2階4列33番)で、 音響についてやや心配ですらあった。
前半のベルクのヴァイオリン協奏曲についてまず驚いたことの1つは、 クレーメルのために楽譜が用意されていたことである。 クレーメルをもってしても、ベルクはそれだけの難曲ということなのだろうか。
肝心の演奏であるが、クレーメルのヴァイオリンはやはり非常に厳しいもので、 その緊張感を十分楽しむことができた。 特に印象に残っているのは第2楽章の冒頭である。 エッシェンバッハとオケのサポートも、 ベルクの官能性を、時には柔らかく抑えた音響で、 そして時には激しい音響でうまく表出していたと思う。 正直なところこの曲は、 20世紀のヴァイオリン協奏曲最高の名曲と 言われている割には、CD で何度聴いてもピンと来ない曲であったのだが、 今回のライブはそれでも楽しむことができた。 しかし、この曲に込められた作曲者の個人的感情を思っても、 20世紀という時期にヴァイオリン協奏曲という形式がどの程度意味を持っていたのか という疑問は消えなかった。
ベルクの後は、クレーメルがアンコールに応えてイザイの無伴奏を独奏した。 冒頭やや音が荒れたような気もしないではなかったが、 それでも最後はさすがクレーメルと思わせるような 素晴らしい演奏であったと思う。
後半のマーラーを聴く直前にやや眠気を感じ、 「5番なんて何度もライブで聴いてる曲やし、起きてられるんやろうか」と思ったが、 聴き始めてすぐに何と浅はかなものの考え方であったかと思い知らされた。 エッシェンバッハの指揮は非常に起伏の激しいもので、 特にテンポを遅くする時の粘り方は、 他の指揮者よりもはるかに強かったように思う。 バーンスタインも10年以上前に亡くなった今となっては、 端正なフォルムのマーラーが演奏されることが多いことを思うと、 このようなテンポの起伏の激しさには、むしろ新鮮さすら覚えた。 第1楽章は特に素晴らしかったと思う。 この楽章の最後、全てのエネルギーを発散するところで、 去年ブーレーズの演奏を聴いた時には 「なんと淡白な」とも思ったが、 今回は奈落の底に落ちるような大音響を素直に楽しむことができた。 第2楽章は、もう少し鋭く演奏してほしいという部分もないではなかったが、 それでも演奏の水準は高かったと思う。 私が好きな、ティンパニのトレモロとチェロの合奏のみで演奏される部分も、 非常にゆっくりとしたテンポのもとで情感豊かに演奏されていて非常に好感が持てた。 第3楽章で特に印象に残っているのは、ホルンが異様なまでにうまかったことである。 やはりテンポを大きく落しながらホルンが消え入るところなどは、 絶品としか言いようがなかった。
第4楽章は、 去年ブーレーズの演奏を聴いた時には、 あまりに情感が排除されていることに、さすがに違和感を禁じ得なかったが、 今回の演奏は情感の点では文句なし。 ただ私の好みとしては、弦楽合奏にもう少し音圧があってもよかったように思う。 それから、この演奏がどうこうというのとは全く関係なしに、 「5番の第4楽章の誰もが認める名演ってのは、誰が指揮したものなんだろうか」 という疑問が頭をよぎった。案外これは難しい問題のような気がする。 最終楽章まで、起伏の激しさも緊張感も全く途切れることがなかった。
これだけのすさまじいマーラーを聴いた後では、 正直なところアンコールは蛇足としか思えなかった。 もちろん演奏は非常にきびきびとした素晴らしいものであったが。 エッシェンバッハという指揮者については、テレビで何度か聴いただけで ほとんど知識がなかったが、 起伏の激しい彼のマーラーは、また機会があれば是非聴いてみたいと思う。
帰る途中、ホールの廊下でクレーメルと至近距離ですれ違った。 びっくりする以上に、「なんでこんなところを歩いているのか」 という疑問の方が強かった。
最後に今回の席の印象を記しておくと、 想像していたよりは音響が良かった。 しかも木管楽器のパートなどが1階席などよりはるかによく見えるし、 当然指揮者もよく見えるので、 今回の席はむしろ「当たり」だったんじゃないかと思う。 打楽器(特に大太鼓)の響きが大きすぎたり、 向きによってはホルンの朝顔がこちらを直撃したりという難点は ないではなかったが。
(2003年5月20,21日執筆)
3日前に聴きに行ったコンサートも かなり重量級のプログラムであったが、 今日は今日でバリバリの現代音楽ばかりの すさまじくマニアックなプログラムであった。 逆に普段聴かない曲が聴けることに期待を抱いて 出かけた次第である。 オペラシティのホールは音響がいいという印象があったが、 今回はあまり席がよくない(3階R1列43番)のが少し残念であった (音響うんぬんより、横を向く必要があって首が痛かったことが)。
3日前の 演奏会はすべての曲がかなりの大編成であったが、 今回のバルトークは弦楽合奏のための曲で、 弦楽合奏の編成もかなり絞り込まれていた。 それでも、3日前の演奏会と同様、 筋肉質で体育会系のストレートで迫力のある弦楽合奏を、 素直に楽しむことができた。 席が悪いことも、純粋に音響の観点からは それほど気にならなかった。
武満の曲は バルトークよりもさらに絞り込んだ弦楽合奏と フルート、オーボエ、ハープのための曲で、 私の記憶が正しければ全く聴いたことがなかったが、 彼特有のリリシズム(特に弦楽合奏)、そして極北を漂うかのような浮遊感を しみじみと味わうことができた。 ソロ楽器の使い方は当然ながらかなり特殊で、 オーボエなどはわざとかなり音を歪ませていたことが かなり印象に残った。 ハープも、ガラスが細かく砕け散るような、 どうやってこんな音が出るのかわからないといった瞬間があった。
ブーレーズの曲は、 独奏のチェロと、 さらに円周上に一列に配された6人のチェロ奏者のための曲であった。 独奏チェロと6人のチェロとの単純な対話を意図した曲でもなさそうに 思えたし、 最初の方で独奏のチェロが6人のチェロ奏者それぞれに 音を絶妙に受け渡す様は面白く感じたが、 この曲の全体の意図という点では ちょっとよくわからないものがあった。
休憩をはさんでラヴェルの歌曲。 今日のプログラムでは唯一大編成のオーケストラが用いられた。 この曲も全く聴いたことがなく、 正直うまく論評はできず、 ただ、武満やブーレーズを聴いたあとでは、 そしてこのあとメシアンを聴いたことを思うと、 「ラヴェルの曲はなんてぬるい曲なんや」と思わずにはいられなかった。 曲が終わったとき、拍手よりもほんの一瞬早く「ブラヴォー」と 聞こえてきたのがうっとおしかった。
最後のメシアンの曲が演奏される前に、 細川俊夫による、やはり俳句を題材にしたピアノ曲が演奏された。 この曲も当然ながら全く知らず、 バリバリの現代音楽だなあと思いながら ただ呆然と聴いているより仕方がなかった。 メシアンの曲は、8人のヴァイオリン合奏と木管、少数の金管、 マリンバやドラなどの打楽器、そしてピアノのためのもので、 ヴァイオリンは右翼に配され、ピアノはほかの楽器から やや距離を置いて孤立したような、やや特殊な配置も印象に残った。 この曲も、ただ音の伽藍に身を浸すより仕方がない という感を抱きながら聴いていた。 ただ、ブーレーズの情感を排した演奏と、 そしてオーケストラのストレートな音が、 このような曲では非常に好ましく思われた。
普段なかなか聴けない曲を水準の高い演奏で聴けるという いい機会を持てたが、それだけにかなり疲れたというのも正直な感想である。
(2003年4月27日執筆)
このオーケストラについてはよく知らなかったが、 ブーレーズの名前につられたので、 また曲目がどれも是非聴いてみたい (ウェーベルンは去年一度聴いているが) と思っていたので、かなり楽しみに思いながらサントリーホールに出かけた。 ホールで席(1階8列25番という、かなりいい席であった) を確認して後まず、 ステージに近付いて、 ベルクとマーラーで重要な役割を果たす ハンマーがどんなものなのか見た。 一辺も高さも6,70センチくらい(に見えた)で4本足の木の台を、 頭を赤く塗った円柱形の、まさにもちつきの杵状のもので 叩くといった感じであった。 また周りを見渡すと、NHK のカメラが何台も立っていて、 マイクも上からぶら下がっていたことから、 おそらく今日のコンサートを録画したものが 後日放送されるのだろうと思い、それも楽しみになった。
席に戻りしばらくすると開演。 ベルクの演奏のためにやたらに多くの演奏者が出てくることに まず驚かされる。 しかも彼らがみんな自分より若い (このオーケストラは、「ユーゲント」という名が示す通り、 26才以下の若者の集まりである)ということに 愕然とさせられる。 そして、女性の割合がかなり多いこと (特に弦楽パートは8割くらい女性に見えた)も意外であった。 ベルクの「3つの小品」は、全く仮借のない極めて厳しい音楽という 印象を持っていたが、 今回聴いていると、 むしろ柔らかさすら感じさせる音楽に思えた。 ブーレーズの演奏を去年聴いた時の 「緊張感すら、純粋さの追求には邪魔なのかしらん」 という思いが再び頭をよぎったが、 この柔らかさはベルク特有の官能性の、 別の形の発露なのかなという気も少しした。 だが、そんなことを思ったのも最初の2曲だけで、 最後の「行進曲」の厳しさはすさまじいものがあった。 (私が正しく数えていれば)5回鳴らされたハンマーも、 腹を揺さぶるような音圧にはただ圧倒された。 しかし、 この曲が終わった時には明らかにフライング気味の拍手が聞こえてきて、 かなり興醒めしてしまい腹立たしいものがあった。
去年ウェーベルンの「6つの小品」を 聴いた時に、ロンドン響にとってすら、 1音1音が重い意味を持つ、抑制された弱音に貫かれた この曲がとてつもない難曲だということを認識させられたが、 グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラは 何か軽々と演奏しているように聴こえて、極めて驚かされた。 ただ、曲全体を貫く緊張感という点では、 たとえミスが耳についたとしても 去年のロンドン響の方がわずかに上だったように思う。
休憩時間に、右翼の2階席でカメラのフラッシュの放列が見えて、 「一体誰が来ているのか」と最初思ったが、 良く見ると2階席の2つのシートに赤いカバーがかけられていた。 「これは、これからやんごとなき人たちが来るに違いない」と思い 係員に聴いてみたところ、全くその通りで、 後半は天皇、皇后両陛下がそこに座るとのことであった。
休憩時間が終わって団員が席についたころに、 天皇皇后両陛下が登場。 会場は聴衆のみならず、団員までも拍手を送っていた。 生まれて初めて見る生の天皇は、私の席からはフロアこそ違えど、 表情も見ることができるくらいの近さであった。 テレビなどで見た通りそのままに、両陛下は手を我々に向けて振っていた。 「天皇はベルクやウェーベルンは嫌いなのだろうか」 と一瞬思ったが、後半から現れたのは単なる警備上の問題などなのだろう。
「しかし、天皇皇后両陛下に気を取られて、集中力が削がれてしまったやん」 と思ったが、 マーラーの最初の音がすさまじい緊張とともに鳴った瞬間、 そんな浅はかな考えは一瞬で吹き飛び、 彼らの音楽の圧倒的な迫力にただただ呆然と聴いているしかなかった。 最初の弦楽パート(特にチェロとコントラバスの低弦)の音の激しさは、 ベルリンフィルすら彷彿とさせるものであった(*)。 ブーレーズは終始速いテンポでぐいぐいと押していき、 またベルクやウェーベルンの極度に強い緊張から解放されたせいか、 オーケストラものびのびと演奏しているようにすら 思われた(マーラーだって当然とてつもない難曲なのに)。 第1楽章と第2楽章は、全く文句のつけようもない完璧な演奏であった。 ただ、第3楽章は、去年ブーレーズがロンドン響と マーラーの5番を演奏した時に、 アダージェットを聴いて思ったのとほとんど同じ感想を持った。 つまり、あまりに叙情性が排除されているように思われたのだ。 もちろん彼の解釈の首尾一貫性を思えば、 そう演奏されるのはよく分かるのだが、 それでも、ここはもっと叙情的で切ない響きを醸し出してほしいと 思わずにいられなかった。 第4楽章は再び圧倒的な印象を与える完璧なものであった。 ベルクの時と同様、ハンマーの鈍い響きは実に効果的に使われていた。 ベルクの時は真上に持ち上げてハンマーを鳴していたが、 マーラーの時は後ろから振りかぶって鳴していたので、 より腹にずしりと響くこととなった。 あと記憶に残っていることを少し書いておくと、 当然ながら「3回目のハンマー」は鳴されていなかった。 それから、2回目のハンマーには銅鑼などがかぶせられることが多いが、 今回私が聴いた限りではそのような処理はなされていなかった。 あと、むかしベルリンフィルを聴いた時、 3人同時にシンバルを鳴している様に驚いたことがあったが、 今回は一度、5人同時にシンバルを鳴しているところがあり、 思わず呆然としてしまった。
結論としては、第3楽章が自分の趣味に合わないなどと 難癖をつけるのが全く的を外しているように思えるほど、 今日のマーラーの6番は素晴らしかった。 自分にとっては、 アバド/ベルリンフィルの9番、 ラトル/バーミンガムの7番の次くらいに 強烈な印象を受けたマーラーであったと思う。 この曲については、 バーンスタイン的な主情的演奏も聴いてみたいと思うのだが、 おそらくこれほど高い水準の演奏は、 もう二度と聴く機会はないのじゃないだろうか。 またしても「二度と他で聴く気が起こらない曲」ができてしまった。
当然ながら終演後の拍手はすさまじいものがあり、 またブーレーズがステージに呼び戻される時に、 団員が足踏みして拍子を取っているのも、 見たことのない光景で印象的であった。 さらに、ブーレーズはオーケストラの団員が解散した後も、 2回もステージに呼び戻されていた。 あと、天皇皇后両陛下も、 ブーレーズとは別に2回の拍手に答えていた。 今日は、演奏の水準のすさまじい高さという点でも、 天皇皇后両陛下が列席という非日常ぶりでも、 何か異様な雰囲気のコンサートであったように思う。
(*)22日の朝日新聞朝刊の文化面に、 18日の大阪公演(全く同じプログラム)の評が載っていたが、 評者はオーケストラを「体育会系」という言葉で形容していた。 全くぴったりの形容だと思う。 ベルリンフィルも「体育会系」的なところがあるし。
(2003年4月22日執筆、23日加筆)
私は弦楽四重奏曲についての知識は多くはないが、 それでも、 20世紀の弦楽四重奏曲を語る上で、 バルトークとショスタコービッチの名前を外すことは 考えられないだろうということはわかる。 その中でもバルトークの4番は かなり好きな曲の1つであり、 また、同じく好きな曲であるショスタコービッチの ピアノトリオ2番と密接な関係のある8番も、一度是非聴いてみたいと 思っていた曲である。 その2曲が同時に、しかも最近評判のハーゲン弦楽四重奏団で 聴けるということで喜び勇んで行った次第である。
バッハの「フーガの技法」は、家に CD が転がっているものの 恥ずかしながらどんな曲だったか全く覚えていなかったので、 ただ虚心にバッハの短調の荘重さを楽しむことにした。 ハーゲンSQの音色は決して鈍重にならないシャープなもので、 席がかなり端の方(2階L列30番)だったにもかかわらず、 音量の点でも満足の行くものであった (奏者の技量だけでなく、ホールの音響特性も良いのだろう)。
期待のバルトークは、決して悪い演奏ではなかった、 いやむしろ、かなり水準の高い演奏だったと思う。 しかし、 切味の異様なまでの鋭さと音の豊潤さで常軌を逸していた アルバン・ベルク四重奏団の CD の演奏(年末年始に聴き込んでいた)と、 どうしても頭の中で比較してしまっていた。 「アルバン・ベルクのすさまじい演奏と比べたら、 何をどうしたってどこかは劣る」 という思いがぬぐえず、 虚心に聴けなかったことが返す返すも残念であった。 連れとその話をしていて、 「(聴衆の側は他の弦楽四重奏団の演奏を聴いても満足できなくなり、 演奏する側はどうしても比較されるから) アルバン・ベルクQは『人を不幸にする弦楽四重奏団』だな」 という結論に達してしまった。 しかし今から冷静に思い返すと、ハーゲンSQの演奏は楽章を進めるごとに どんどん水準が高くなっていき、 特にピチカートのみで演奏される第4楽章、 一気に疾走して行く第5楽章の緊張感は見事だったと思う。
休憩中に連れと話をしていて、 「どうしてトリがショスタコービッチなのか。 普通この曲目ならバルトークがトリじゃないのか」という点で意見の 一致を見ていた。 しかし実際彼らの演奏するショスタコービッチを聴いて、 これがトリであることに納得するしかなかった。 緩徐楽章の静謐さも、アレグロの堅固さは見事であった。 アレグロでは、 第2楽章で使われるピアノ三重奏曲と同じ旋律、 そして第3楽章の三連符のはらむ緊張感が記憶に残っている。 そして、最終楽章の最後の消え行くような弱音が実に素晴らしく、 極めて深い印象を刻み込むものであった。 ハーゲンSQの演奏を聴いていて、 ショスタコービッチは実に美しく叙情的な旋律を残していることを 改めて実感させられた。 ショスタコービッチが良いメロディメーカーであることは ちゃんと認識しているつもりであったが、 改めてそういうことを実感させられるということは、 それだけハーゲンSQの演奏が、 ショスタコービッチのそういう特質を 完璧に再現していたということの証左であろう。
バルトークとショスタコービッチを聴くのに かなりの緊張を強いられたのみならず、 つくばからはかなりの遠出だったこともあり、 ショスタコービッチを聴き終わった時点で完全に疲れ果てていた。 そんな状態だった上に、いわゆる古典派の弦楽四重奏曲については ほとんど全く知識がないので、 アンコールでは集中力を保つことができなかった。 個人的には、アンコールはウェーベルンの小品で スパッと締めてほしかったし、 むしろアンコールなしで、 ショスタコービッチの緊張感に満ちた弱音の余韻に 浸ったままで帰りたかったという気持ちもあった (演奏時間からして、アンコールなしというのは考えられないのだが)。
(2003年3月2,5日執筆)
マーラーが世に問うた交響曲は全部一度は ライブで聴いている私であるが、 さすがにマーラーが未完で世を去った第10番を今まで聴く機会がなく、 今後もなかなか聴く機会はないだろうと思い出かけた次第。 世間一般に流布しているクックによる補筆完成版ではなく、 今回の指揮者バルシャイによる完成版というのは少し気になったが、 誰が補筆しようとマーラーの意図を完全に再現できないわけだし、 むしろどういう違いがあるのかを楽しみにしていた。
わざわざクック版でないものを使うからには、 どのように通常のクック版と異なるのかについての 詳細な解説が手に入るものと思い込んでいたが、 プログラムにはバルシャイによる1ページのメッセージと、 簡単な解説しか載っておらず、 楽器編成が載っているのはかなり参考になったものの、 かなり期待外れであった。 バルシャイ自身による解説を和訳したものとか、 誰か音楽学者が楽譜を分析した解説とかを、 できれば載せてほしかった (舞台を見るとパート譜は全てきっちり印刷されていたから、 音楽学者が事前に手に入れることも不可能ではなかったはず)。
偉そうなことを言っていても、 私は10番はクック版(指揮ラトル、シャイー)と マゼッティ版(スラトキン)を CD で聴いたことがあるだけで、 もちろん楽譜なんぞ持っていないので細かいことは書けないのだが、 今回のバルシャイ版では、 オーケストラ(特に打楽器)はかなり増強されていて、 プログラムの楽器編成から打楽器を記しておくと
ティンパニ、シロフォン、マリンバ、アンティーク・シンバル、 グロッケンシュピール、チューブラーベル、ゴング、カスタネット、 ムチ、ウッドブロック、 ルーテ、トライアングル、シンバル、タムタム、タンブリン、小太鼓、大太鼓、 チェレスタとなっていた(私には、名前からどんな楽器なのかわからないものもある)。 いくらマーラーがありとあらゆる打楽器を用いていたとはいえ、 マーラーが完成したとして これだけの打楽器を本当に使ったのかというのは、 疑問に思わないでもない。 それでも、チェレスタなどはかなり効果的に使われているように感じた。 打楽器以外にも、 ギターを使っていたことには完全に虚を突かれる思いがあった。 ギターはマーラー自身は交響曲第7番にしか使っていないはずだし、 これもマーラーが完成したとして使ったのかどうかは疑問だが、 それでも面白い試みだと思った。
肝心の演奏であるが、これについては疑問符をつけざるを得ない。 特に第1楽章で重要な役割を演じるヴィオラのアンサンブルが 全く安定していなかったし、 また第1楽章のクライマックスをなし、第5楽章でも回帰する 強烈な不協和音に全く精気が感じられなかった。 後者についてはオケの技量不足かバルシャイの解釈なのか 判然としなかったが、 どちらにしろ鮮烈さの全くない不協和音は 私には到底受け入れられないものであった。 バルシャイが東京都交響楽団への初の客演であること、 マーラーの10番のバルシャイ版というもの自体が 楽団にとって全く新規なものであったことを 考慮に入れないといけないかもしれないが、 東京都交響楽団は音楽監督のベルティーニにもっと 鍛えられているかと思っただけに、かなり残念なものがあった。
バルシャイ版についての印象をもう少し書いておくと、 上に書いた通り楽器がかなり増強され色彩感や迫力という点では かなり倍加されていたものの、 どうしてここでこの楽器が使われなければいけないのか と思うこともあった。 マーラーが世に問うた9曲の交響曲と「大地の歌」では、 どの楽器の存在も有無を言わさぬ必然性を感じさせるだけに、 どうしてもその辺りの詰めの甘さを感じずにはいられなかった。 ただ、マーラーが単純な反復を嫌ったということを鑑みて、 わざわざ色々な楽器を使うことにしたのかなとも思った。
現役の指揮者が補筆した版を他の指揮者が使うとは 考えにくいこと、 楽器編成からして「色物」ととらえられかねないことを考えると、 バルシャイ版が広く流布するとは私には思えないが、 面白い試みであること、もっと鍛え上げられたオケで聴いたら また違う印象を持つかも知れないことを思うと、 それはそれで残念でもある。 それに、マーラー自身による完成版が絶対に望めないわけであるし、 様々な試みがなされること自体は この曲の更なる理解、受容にとって確実に必要なのだから、 バルシャイ版がこのまま埋もれたら不幸なことであると思う。 上に書いた通り、オーケストラの出来が決して良くなかったこともあり、 非常に複雑な気分で会場を後にした。
(2003年2月8日執筆)
チョン・ミョンフンは私が高く評価している指揮者の一人であるが、 私の目(耳)に止まったきっかけといえば、 テレビで幻想交響曲を演奏しているのをたまたま視聴して 圧倒的な印象を受けたことである。 その幻想交響曲を、しかもつくばで演奏してくれるとなれば、 行かないなどということは全く考えられなかった。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、 前にいつ聴いたか全く思い出せないどころか、 どんな曲だったかすらよく覚えていない状態で聴いたので、 細かい論評はパス。 しかし樫本大進の演奏は極めてのびやかで、 スケールも大きなものとして好感を持ちながら聴いていた。 若いとは言っても、これだけ騒がれているだけのことは あるなあと思わずにはいられなかった。 あと、チョン・ミョンフンと東京フィルのサポートも 水準に達していたと思うが、 独奏ヴァイオリンが奏でられている時と、 そうでない時のオーケストラの音圧の違いが大きく感じられ、 「やっぱり協奏曲の伴奏は難しいのかなあ」とも思った。
肝心の幻想交響曲はやはり素晴らしく、 オーケストラを極めて鍛え上げていることがよくわかる演奏であったと思う。 印象に残ったことの一つは、 弦楽合奏が極めて柔らかいものであったことである。 チョン・ミョンフンはより鋭利な表現を求めているものと 思い込んでいたので、少し意外な感があった。 正直なところ、私は鋭利な弦楽合奏の方が好きなので、 少し弱さを感じさせるところもないではなかった。 だが、鍛え上げられていることはまぎれもない事実であり、 こういう方向性もありかなと思い直すと、 この弦楽合奏もやはりかなりの水準だと思う。 私の好みが「わかりやすい」ものを求める 偏ったものだということなのだろう。 それから、木管(特に第3楽章の冒頭など)、 金管(自分が特に印象に残ったのは第5楽章の鐘が出てくる以降) の見事さも印象的であった。 これらは単に個人個人の奏者の水準が高いだけでなく、 オーケストラ全体のバランスという点でも素晴らしく、 この辺はチョン・ミョンフンも誉め称えられるべきなのだろう。 この曲は舞台裏にも楽器を配して演奏されるのだが、 どこで別働隊が使われているのかが案外分からず、 予習をちゃんとしておくべきだったというのが、 この演奏会について後悔したことである。
アンコールのカルメンは通常の演奏よりもやや速めのテンポで 新鮮なものがあり、 疾走感と躍動感という点で 全く申し分のない素晴らしいものであった。 こういった何度も演奏され、聴く方も何度も聴いているはずの曲で これだけ新鮮なものを感じさせるということには、 驚きを覚えずにはいられなかった。
(2003年1月13日執筆)