最近行ったコンサート(2001年)

ご意見等は fukuda (at) j . email . ne. jp まで



ベルリン交響楽団
(2001年11月6日、ノバホール)

曲目
シューベルト: 交響曲第8(7)番「未完成」
マーラー: 交響曲第1番「巨人」
ブラームス: 交響曲第1番 第3楽章(アンコール)
指揮
エリアフ・インバル
先日ウィーンフィルを聴きに行ってから それほど日が経っていないのだが、 つくばにわざわざインバルがマーラーを演奏しに来るというのは、 去年 素晴らしい演奏を目の当たりにした私としては、 さすがに無視できなかった。

「未完成」を生演奏で聴くのは実は初めて。 非常にオーソドックスで柔らかい演奏であった。 「ラトルならもっと神経質でピリピリした演奏をするのかなあ」 と思いながら聴いていたし、 実際私としても、 これだけポピュラーな曲なら斬新な解釈で聴きたいというのが 正直なところだったが、 インバルはそんな奇をてらうような人ではないし、 これはこれで非常に安心して聴ける良い演奏でよかったのではないかと思う。 「未完成」を聴くこと自体が実はかなり久しぶりなのだが、 改めて聴いてみると、 第2楽章はかなり唐突に終わっているような印象があった。

後半のマーラーは実に素晴らしかった。 特に第1楽章の若々しくみずみずしいメロディーの叙情性、 第2楽章の颯爽としたすがすがしい疾走感、 第4楽章の圧倒的なパワーは見事としか言い様がなかった。 第3楽章は自分の好みとしてはもう少し情緒過多でもよかったかなあ と思ったのだが、 解釈の首尾一貫性を考えれば、あのような演奏でよかったのだろう。 去年と同様、 インバルの解釈は全く無理や奇をてらったところがなく実に自然で、 メロディメーカーとしてのマーラーを特に強調していたように思う。 正直始まる前は「『巨人』も飽きるほど聴いたしなあ」と思っていたのだが、 それでもこのような新鮮で見事な演奏にぶち当たることがあるのが マーラーの恐ろしく、そしてやめられないところである。

敢えて難を挙げるとすれば、 弦楽のパワーが(特にトゥッティの時に)少し弱かったような 印象を受けたことである。表情の豊かさでは全く文句はなかったし、 問題があるというほど弱いわけでもなかったから、 望んでいる水準が高すぎるのかもしれないが、 ベルリンフィルなら、 どれだけ金管楽器が全開であろうと、 打楽器が派手に打ち鳴されようと、 弦楽のパートが自分の存在を主張できず埋もれてしまうことは 全くなかったと思う。 プログラムに載っていたインタビューで、インバルは 「私はこのオーケストラを、4年のうちにベルリンフィルに 優るとも劣らない水準に鍛え上げると約束します」 と言っていたので、今日よりもさらに素晴らしいコンサートが 将来聴けることを楽しみにしたい。

(2001年11月6日執筆)


ブランフォード・マルサリス
(2001年10月27日、ブルーノート東京)

演奏者
サックス: ブランフォード・マルサリス
ピアノ: ジョーイ・カルデラッツォ
ベース: エリック・レビス
ドラムス: ジェフ “テイン”ワッツ
ジャズのライブは
2月に森山威男クァルテットを聴きに行って 以来2度目、その時に誘ってくれた人が今回も連れて行ってくれた。

ドラムのすぐ近くに陣取って鑑賞したので、 ドラムの音ばかりが印象に残っているが、 スティックは片方の端だけでなく両端や側面を使ったり、 ブラシでも柄の方を使ったりするなど、 知識のない私としては見ていて結構面白かった。 スティックを1本落しても、平然と残りの1本で叩きながら もう1本スティックを取り出す様には驚かされた。

ブランフォード・マルサリスは本番はテナーサックス、 アンコールはソプラノサックスと使い分けていた。 私がわかった曲は、 聴衆のリクエストでアンコールの最初に演奏した "Happy Birthday" だけであった。 非常に曖昧なものの言い方だが、 比較的スッと聞き流せる印象の曲が多かったような気がする。 ドラムのパワーにはかなり圧倒されたが (連れて来てくれた人はワッツが目当てだったようだ)、 カルテットとしては、むしろ2月に聴いた森山威男クァルテットの 「破調」さの方が、より私の好みに近いと思われた。

客席を見ていて驚いたのが、 聴衆のほとんどみんなが リズムに乗せて体を動かしながら聴いていたことである。 森山威男クァルテットの時はそんなことはなかったような気がする。 私は体を椅子にもたげて微動だにせずに聴いていたが、 実は結構浮いていたのかもしれない。

(2001年11月3日執筆)


ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(2001年10月20日、サントリーホール)

曲目
ベートーヴェン: 交響曲第2番、第5番
(アンコール)ドボルザーク: スラブ舞曲 変イ長調 作品 46-3
指揮
サイモン・ラトル
普段なら高い金を払ってベートーヴェンを聴きに行くということは しないのだが、
3年前 に実際にライブを聴いてその音楽の素晴らしさとすさまじい集中力に 度肝を抜かれたサイモン・ラトルの指揮とあってはとても無視できず、 幸運にもチケットが手に入ったので、 期待に胸膨らませながらサントリーホールに赴いた。 普通のコンサートではまず目にすることのない 「チケット求む」の紙を持つ人を見ていると、 自分の幸運に改めて感謝せずにはいられなかった。

肝心の演奏であるが、 終始かなり速いテンポの一言で言えば「現代的」な、 別の言い方をすればラトルらしい演奏であった。 ベートーヴェンといえばフルトヴェングラーしか受け付けない人には かなり辛いものがあるのだろうが、 カラヤンのベートーヴェンをかなり聴いていた私には、 テンポの速さに違和感を覚えることはほとんどなかった。 しかし、「運命の動機もえらくあっさりしたもんやな」 という感覚もなきにしもあらず。

つくづく感心したのは、 速いテンポの部分におけるラトルの歯切れのよい完璧なドライブと、 弱音の部分で息もつかせぬ緊迫感を醸し出していることであった。 現代のトップレベルの若い指揮者はだいたい オーケストラをドライブする能力が非常に高いが、 ラトルはその中でもずば抜けた水準を示していると思う (私の印象では、 あと肩を並べるとしたらチョン・ミュンフンくらいかな)。 弱音の緊迫感は、3年前に マーラーの7番を聴いた時に受けた 衝撃を思い起こさせずにはいられなかった。 ウィーンフィルはバリバリのメカニックなオーケストラでは 決してないと思うのだが、 ラトルの解釈と指示 (おそらくウィーンフィルにとってなじみのあるベートーヴェンとは かなりの距離があるような気がする) を忠実に、そして音色の柔らかさを全く損なわずに 再現するあたりはさすがと思わせた。

あと印象に残ったのは、強弱の変化をかなり入念につけていたこと。 おそらく楽譜の指示に忠実にということなのだろうが、 そこにはある種の「執拗さ」すら感じさせた。 細かいことでは、5番の第1楽章のオーボエのソロの後で普通なら すぐに運命の動機が戻ってくるところが休符になっているように思えた。

強いて不満を挙げれば、 私の好みとしてはもう少しマッシヴな響きがあってもよかったかな、 という個所がいくつかあったことである。 しかし5番の第4楽章のパワーに不満はなかったし、 ラトルの解釈として音を抑えていたのかもしれない。 もともと編成を絞っていたことも一因だろうし、 2階席がせり出している下で聴いていたから、 そう言う印象があったのかもしれないし、 いずれにしろ大した不満ではない。

最後のアンコール (ラトルは日本語でアンコールの曲目を紹介していた)では、 最初の合図を出した後ラトルがすぐに指揮棒を置いて ティンパニのところに行き、 そのまま指揮台には誰もいないままで最後まで演奏されたのには 非常に驚いた。 まさかウィーンフィルがそんな「芸」を見せてくれるとは 思わなかったからである。 指揮台が空のままで綿々と音楽が紡ぎ出されている光景は 私にはかなり異様な印象を与え、 オーケストラの演奏で指揮者がいるということを当然と思い 今まで何の疑問も持っていなかったことを認識させてくれた。

もう一つ特筆しておきたいのは、プログラムがタダであったことである。 外国のオケを聴きに行く時は、高いチケット代を払った上にさらに 1000円以上するプログラムを買うはめになることにいつも憤りを覚えていたが、 プログラムを手渡された時に逆にびっくりした。 作りはそれほどいいものではなかったが、 それでもプログラムは当然ついてくるというのが あるべき姿なんじゃないだろうか。

自分の期待以上のすばらしいコンサートであり、 ベートーヴェンのすごさも改めて認識できたように思えた。 私は5番の最後で人間が運命に打ち勝つ様にどうも共感を覚えることが できなかったのだが、 それが一面的な理解であるということを思い知らされた。 むかし5番について私がそんな話を後輩としていた時に、 彼が「いや、5番は絶対音楽として素晴らしいと思います」 と言ったことの意味がやっとわかったような気がする。 今回東京ではベートーヴェンの全曲が演奏されるのだが、 この1回しか聴きに行けないことはあまりに惜し過ぎる。

(2001年10月21日執筆)


クロノス・クァルテット
(2001年6月30日、トッパンホール)

曲目(括弧内は作曲者)
カリウム(マイケル・ゴードン)
サンライズ・オブ・ザ・プラネタリー・ドリーム・コレクター (テリー・ライリー)
マイセルフ・フェン・アイ・アム・リアル(チャールズ・ミンガス)
タブー(マルガリータ・レクオーナ)
少女の死(エンリケ・ランヘル)
4つのミルバ(ベリサリオ・デ・ヘスス・ガルシア・デ・ラ・ガルサ)
センセマヤ(シルベストル・レブエルタス)
(休憩)
弦楽四重奏のためのオペラ「アン・ズオン・ヴォン〜信頼と裏切りの潜行」 より3つの情景 (P.Q. ファン)
パリ・インテルヴァロ(断続する平行)(アルヴォ・ペルト)
トリプル・クァルテット(スティーヴ・ライヒ)
(以下アンコール)
レスポンソ(アニバル・カルロス・トロイロ)
ドイナ(オズヴァルド・ゴリジョフ)
トゥナイト・イズ・ザ・ナイト(ラハル・デウ・ブルマン)
クロノス・クァルテットは、
去年も聴きに行って 非常に強烈な印象を受けたことをはっきりと覚えているが、 今回も充実した演奏会であった。 ライヒのトリプル・クァルテットは前回聴いた時も 衝撃的であったが、 今回もその鮮烈な音楽には強く魅せられるものがあった。 実演×1+録音×2というアイデアからして、 ライブで聴かないと面白くないという話もあるのだが、 それでも曲自体が非常に魅力的なのだから、是非録音された ものを CD で聴きたいと思う。

その他に強い印象を受けたのが、最初の曲「カリウム」。 ビオラのソロで始まるこの曲、 いきなり電気的に歪まされてノイズまでも入っていることに驚いた。 その後は上昇音階や下降音階を執拗に繰り返す、 ミニマルっぽくも普通のミニマルともちょっと違う音楽が繰り広げられ、 最後には演奏が終わってもなかなか消えない強いエコー。 「弦楽四重奏」という言葉からイメージされるものとは かけ離れたその音楽にはただただ圧倒された。 あのような曲を演奏するにはとてつもなく高いテクニックが 要求されることを思うと、 クロノスのすごさには改めて感心させられた。

あと笑えたのは P.Q. ファンの音楽。 開始の時にメンバー4人が全て本来の弦楽器を手から離して 打楽器を手に持ち、 「ハァーッ!!」というかけ声とともに、その後1分ほどひたすら 打楽器を打ち鳴らす様を見ていると、 「これって弦楽四重奏のコンサートなのか?」 という根本的な疑問が頭をよぎった (その後徐々に弦楽器が復活)。 さらに第2曲では、第2ヴァイオリンのジョン・シェルバ がドラを取り出し、 第2曲の間再びヴァイオリンを手にすることはなかった。 ドラを取り出した瞬間、笑いをこらえるのに必死だった私である。

その他にも、「タブー」を聴いててなぜか美空ひばりの 「真っ赤な太陽」を思い出したり、 「センセマヤ」を聴いていて「怪獣映画のサントラかいな」 と思ったりして(実際は蛇狩りの歌らしい)、 「よくぞこれだけ面白い音楽を集められるよな」 と感心せずにはいられなかった。 様々な魅力的な音楽を紹介する、 そしてそのような音楽の創造を刺激するクロノスの姿勢は、 どれだけ高く評価してもし過ぎることはないであろう。

あと演奏とは全く関係なく印象に残ったのは、 リーダーのデヴィッド・ハリントンがどんな曲を演奏する時でも 全く表情を変えることなく、 強い緊張をはらみながらも淡々としていたことである。 それから、前回のクロノスの演奏会では ヘッドホンを演奏者が使っていた意味を図りかねたのだが、 今回聴いていてやっと意味がわかって自己満足。 録音と合わせて演奏する時に、 録音のパートが無音になるとヘッドホンでテンポを刻み、 後で出てくる録音とずれないようにしているのだろう。 あと、アンコールの最後の曲は、アルバム「クロノス・キャラバン」の 一番のお気に入りだったので、ライブで聴けて非常に嬉しかった。

(2001年7月1,2日執筆)


東京フィルハーモニー交響楽団 第648回定期演奏会
(2001年6月16日、サントリーホール)

曲目
マーラー 交響曲第2番
指揮
チョン・ミョンフン
(旧)東京フィルと新星日響の合併と、 世界的に有名な指揮者チョン・ミョンフンが 「スペシャル・アーティスティック・アドバイザー」 という肩書で運営にかかわっていくということは一般紙でも報道された通りで、 今回は合併後初めての演奏会である。

チョン・ミョンフンの演奏と言えば、 オーケストラをドライブする技術の非常に高いレベルでの完璧さと、 そこから得られるすさまじい緊張感が、 テレビや実際の演奏で私の印象に残っているので、 当然そういうものを期待して行ったわけである。 その意味では、必ずしも期待通りだったわけではなかった。 具体的に言うと、弦楽の力強さや緊張感がほんのわずかだが 弱かった時があったように思う。 もちろん低いレベルのものだったというわけでは決してないし、 私の期待があまりにも高かったということ、 それからチョン・ミョンフンの就任からそれほど時間が経っていない ということを考えると仕方がないのだろう。 逆に言えば、 これから東京フィルがもっと成長する余地があるということに なるんじゃないだろうか

だからということになるのか、私が気づいていなかった、 「歌心」を非常に重視するというチョン・ミョンフンの別の特質が 明らかになっていたような気がする。 チョン・ミョンフンの音楽の組み立ては非常に自然でかつ丁寧なもので、 その意味では安心して聴けるものであった。 あと、東京アカデミッシェカペレと、 (是非はともかく)楽譜の指定にない児童合唱(東京少年少女合唱隊) まで用いて補強された東京オペラシンガーズによる合唱は 響きの美しさという点でも厚みという点でも文句のつけようのない 素晴らしさで、最後のクライマックスにおいて 圧倒的な感動を呼ぶことになった。 演奏が終わった後の聴衆の熱狂はすさまじいものがあった。 オーケストラのメンバーが退場しようとしても拍手は鳴りやまず、 チョン・ミョンフンとともにメンバーが再びぞろぞろと出てきて、 その後オケのメンバーが退場し終わってもまだ拍手は鳴りやまず、 結局チョン・ミョンフンが再び一人で出てきたくらいであった。

(2001年6月17日執筆)


森山威男クァルテット
(2001年2月24日、PIT INN 新宿)

演奏者
ドラム: 森山威男
ピアノ:田中信正
ベース:望月英明
テナーサックス:音川英二

ジャズをライブで聴くのも、 ライブハウスという空間を体験するのも初めてで、 チケットを買うのではなく予約してその場でお金を払うというシステムも、 酒を飲みながら音楽が聴けるというのも かなりの驚きであった。

私の結論を先に言えば、 この音楽は、 録音じゃなくライブでないと決して味わうことのできないものである ということである。 あの迫力と緊張感は、録音で伝わるものではないと思う。 私はジャズについては超ド素人であるにもかかわらず、 「ジャズはライブでないとわからない」という考えを持っていたのだが、 まさにその通りであった。

ジャズにも色々な種類があると思うが、 森山威男クァルテットの音楽は非常に激しい 「体育会系」(このライブに連れてってくれた人の言葉)のものであり、 ビリビリとした緊張感を音楽に求める私には、 強く訴えかけるものがあった。 それから、 ジャズに限らず音楽の重要な要素としての「対話」が 特にドラムとピアノ、 ベースとピアノの間で非常にわかりやすい形で提示されていた。 こういう対話は、 ド素人の私には録音で聴いてもわかりにくいものがあるが、 視覚的にもはっきりわかる形で提示されたのがありがたかった (特にベースとピアノの対話は、 火花が飛び散りそうな激しさで、楽しむことができた)。 あと、ドラムを叩くのには普通のスティックだけでなく ブラシも使うというのは、ド素人の私には勉強になった。 スティックもブラシも、 叩き方で全く違う音を生み出すことなど、 全く知識のない私でも、 森山のテクニックのすごさにはただただ感心させられた。

最初の曲を聴いて「ベタベタなマーチやなあ」と思っていたら、 実際題名が「マーチングなんとか」(すいません、忘れてしまいました) だったので、 「私の耳もある程度の感覚を持っているやん」 と思ってしまった私であった。 あと少し疑問に思ったのは、 サックスが比較的しっとりとした旋律を奏でる最中に ドラムがかなり強引に割って入って来る曲が2曲ほどあったことである。 ドラム主体のクァルテットであるからそういうものなのかもしれないが、 ちょっと不自然さを感じずにはいられなかった。

(2001年2月27日執筆)


最近行ったコンサート
fukuda (at) j . email . ne. jp