ご意見等は
まで
インバル・フランクフルト放響のマーラーの5番は、 実は5年前に大阪で聴いたことがあるのだが、 その時はトランペットが何回かとちっていたことと、 第3楽章の弦楽ソロのピチカート(*1)が異常に強調されていたこと以外は、 あまり強烈な印象が残っていない。 それは演奏が悪かったというより、 逆にあまりにも演奏が自然過ぎたからという記憶がある。 それから5年経って、 インバルとフランクフルト放響がどう変わったかというよりも、 マーラー受容者としての自分がどう変わったのかがわかるかしら、 と思ってこのコンサートに行った次第である。
例によって、ワーグナーは聴き込んでいないので、細かい論評は略。 ただ、後半のマーラーに非常に期待を抱かせる、 非常に丁寧でスケールの大きい演奏であったように思えた。
さて本題のマーラーであるが、 インバルの指揮はやはり非常に自然なもので、 旋律を美しく歌わせることを何よりも優先しているように思われた。 弦楽が受け持つ旋律は絶品であり、特に私の好きな、 第2楽章で チェロだけがティンパニのトレモロをバックに奏でる旋律(*2)の美しさは、 筆舌に尽くし難いものがあった。 さらに衝撃すら覚えたのは、 第3楽章の弦楽ソロのピチカート(*1) の後のメロディの絶妙な柔らかさで、 オーボエの旋律(*3)の繊細な美しさはこれ以上ないものだったと思う。 あと印象に残ったのは、最終楽章の最後の部分(*4) でオーケストラが完璧にドライブされて 見事な疾走感を生み出していたことである。
唯一不満を挙げるとすれば、 低音がほんの少し弱いという印象があったことだろうか。 ラトルやゲルギエフ のマーラーを聴いた時に、 低音が全体をどっしりと支えていて、 独特の空気を作り出していたのが強く印象に残っていたのだが、 今回のインバルの演奏では、 そういう空気を作るような強いしっかりした低音が、 ほんの少しなのであるが欠けていたように思う。 ただ、インバルは音をそのように積み重ねることよりも、 主旋律を丁寧に歌い上げることを より重視していたということだし、 そういう一つの解釈をインバルは完璧に貫いていた。 もちろんインバルはオーケストラをきっちり統率していたし、 そのようなインバルの解釈が非常に高い水準で結実していた、 素晴らしい演奏だったことは疑いようのないものであった。
今年は今回を含めてマーラーを生で3回聴いたのだが、 どれも非常に高い、 ほとんど望み得る最高水準のマーラーを聴くことができたと思う。 そういう意味では、今年はいい一年だったかしら (まだ11月なのに一年を総括するな、という話もあるが)。
(*1)練習番号11、 (*2)練習番号12の直前26小節、 (*3)練習番号11、22小節目から、 (*4)練習番号34
(2000年11月4,5日執筆)
その他の曲も、どんなに難しい技巧であろうと 平然と、華やかにそして繊細に演奏し切る様に唖然とさせられたのだが、 最も驚いたのは、 右手はギターに全く触れず左手だけでメロディを演奏する部分であった。 ギターの胴を叩きながら弦もちゃんと鳴らしている部分にも驚かされた。 あと、ソルの曲とアンコールの1曲では、 より小さくて古いギターを使っていた。 曲によって楽器を変えるのは福田進一本人のアイデアなんだそうだが、 そういうところまで気を配ることにも感心させられた。
最後にびっくりさせられたのは、 これだけたくさんの曲を演奏したにもかかわらず、 全く疲れた様子もなくサイン会に応じている福田進一の姿にであった。 やはり超一流の人間はそれだけのパワーがあるのか、 と思わずにはいられなかった。
(2000年7月30日執筆)
<I>
この回最も印象に残ったのはやはりウェーベルンであろうか。
この非常に凝縮した緊張感に満ち溢れた曲が
完璧に演奏される様には、聴くこちらの側も強い緊張を強いられて、
この曲が終わる頃にはぐったり来てしまった。
その後のファーニホウは複雑でダイナミックな曲であったのだが、
ウェーベルンの後ではほとんど頭に入らなかった
(たぶんこの曲を単独で聴けば、興味深いものがあったのではないかと思う)。
それから、ベルクの演奏も非常に素晴らしいものであったが、
ファーニホウの後で聴くと、
ベルクでも何と厳しさに欠ける甘い曲なのか、
と思わずにはいられなかった。
ストラヴィンスキーはほとんど印象に残っていない。
<II>
バルトークの演奏もその見事さに感嘆せずにはいられなかったが、
私にとってのこの回の、いや今日の演奏会全体の白眉はリゲティとしたい。
楽器と演奏者だけではなく、こちらの聴覚の限界をも試さんばかりの
高音のトレモロや、
奏者ごとに位相だけでなくテンポも異なるピチカートを聴いていると、
「音楽を聴く」ということとは全く異なる経験をしているかのように、
言い方を変えれば、音楽を聴いて刺激されるのとは
全く異なる頭の部分が刺激を受けているかのように思わずにはいられなかった。
この一曲を体験できただけでも、
この演奏会に来た価値は十分あったように思う。
さらにクセナキスも、
木の重いドアが開閉するような音や、
まるで電気的な変調がかけられたかのような歪んだ音が、
何の仕掛けもないアコースティックな弦楽器から出てくることに
強い驚きを禁じ得なかった。
リゲティにしろクセナキスにしろ、
音楽というものの可能性を広げる試みとして非常に興味深く聴くことができた。
クルタークは非常に短い楽章を連ねるという点ではウェーベルン的であったが、
音楽を貫く厳しさ、緊張感はウェーベルンとは比べるべくもなかった。
悪い曲ではないのかもしれないが、リゲティの後ということもあり、
退屈な曲に思えて仕方がなかった
(ちなみに一緒に行った連れは、この曲の時は寝ていた)。
<III>
ヤナーチェクは私にとって昔から非常に思い入れの強い曲で、
その思い入れが強過ぎたせいか、
今日の演奏には「荒れ」のようなものを感じてしまった。
たぶんヤナーチェクの現代的な側面を強調していたのだろうし、
そういう点では興味深く聴ける部分もあったのだが、
この曲の自分にとっての最善の演奏だったとはちょっと思えなかった。
それでも、
楽譜なしの CD などによる観賞では絶対にわからない音の受け渡しが、
生演奏だとよくわかるので、そういう意味では興味深く聴くことができた
(ちなみに私が持っている CD はアルバン・ベルクQによるもので、
高い薫りと激しいパッションを
絶妙なバランスと完璧なテクニックで描き切った、壮絶な演奏である)。
リームは静と動の対比という点では面白かったが、 これもやはりリゲティを聴いた後では、 どうしても甘さというか、凡庸さを感じずにはいられなかった。 それから、アンドリーセンは 今回のコンサートを含む一連のイベントのテーマ作曲家なんだそうだ。 この「死に向かって」は 最初の陽気な響きが聴き手の気がつかない間に陰惨な響きになるという形で 死に向かう道のりを描いた20分程度の曲なのだが、 聴いていてその緩慢さがどうにも我慢できなかった。 それに、上に書いたことは解説に書いてあったのだが、 解説を読まずに聴いてそのようなプロットがわかるのか、 解説のあるなしで受容の仕方が変わっていいのか、とも考えてしまった。
、、、などと思っていたら、 実はアンドリーセンが私のほぼ真後ろでずっと聴いていたことが、 彼が奏者の呼びかけで舞台に向かっていったことでわかってしまった。 もちろん、私がこんなことを考えながら聴いていたなんて、 わかるはずがないからいいのだが。
<IV>
シュニトケはあまり聴いたことがないし、
もちろん今日の曲も聴くのは(少なくとも私の記憶では)初めてなのだが、
どう聴いてもシュニトケと一発でわかる曲であった。
それだけ誰とも違う独特のスタイルをシュニトケが持っていたことを
改めて認識させられた。
細川俊夫、西村朗という日本人による2曲は非常に素晴らしいものであった。 細川の「沈黙の花」はその題名の通り、 静謐でありながら非常に凝縮した厳しい表情を見せるもので、 路線は全く違うもののウェーベルンを彷彿とさせるものがあった。 西村の「光の波」は、 細川とは完全に対照的に、 複雑なテクスチャによる激しい動きと躍動感に満ち溢れたものであった。 しかし何よりも驚嘆したのは、 疲労の極致にあるであろう奏者が、 このような激しく複雑な曲を 何の乱れもなく演奏することであった。 私は日本人作曲家と言えば武満くらいしか作品を聴いたことがなかったのだが、 武満以外にもこれだけ高い水準の作品を書ける作曲家が日本人にいると わかっただけでも勉強になった。
あと、演奏以外で私が最も驚いたのは、 私の前に座っていた人が次々と楽譜を出して読みながら聴いていたことである。 この手の現代曲の楽譜は普通輸入しないと手に入らない上に、 著作権が切れていない場合もあるので、かなり値段が高いものなのである。 世の中にはとんでもないマニアがいることを改めて認識させられた。
今回のアルディッティ弦楽四重奏団は、 前に聴いたクロノス・クァルテット とは違い、(声を一度使っていたリームを除いて) あくまでも4つの弦楽器のみを使って、 その可能性の極限を追求するというという姿勢を貫いていた。 どちらがいいとか悪いとかいうことはもちろん言うことはできないわけで、 どちらのやり方も、 音楽の地平を広げようとする刺激的な試みとして高く評価されるべきだと思う。
休憩時間も含めれば7時間ということもあり、 当然ながら聴いていてかなり疲れたのだが、 疲労感よりも充実感の方がはるかに強い、 素晴らしい演奏会だった。 聴く方より演奏する方がはるかに疲れるのだから、 最後まで高い水準の演奏で貫き通したアルディッティ弦楽四重奏団には、 ただ圧倒させられ、頭が下がる思いである。 このような充実した意欲的な企画が、 何か別のテーマ、形で再び行なわれることを切に願ってやまない。
(2000年5月28日執筆、11月5日一部加筆)
他に特に印象に残ったのはアンコール1曲目「ミザール・ツイスト」 のドラムの録音との疾走感あふれるセッションと、 「オアシス」の静かな緊張感(ウェーベルンを一瞬連想してしまった) に貫かれた演奏である。 「ディアブロ山の葬列」における、 いかにもな騒々しい、 安っぽさすら感じさせる打ち込みシンセの録音との競演には、 「弦楽四重奏とこんなシンセをわざわざ合わせる意味があるのか」 とも思ったが、それでもこれはこれで面白い音楽であったと思う。
私は会場について初めてプログラムを見たのだが、 知っている曲が一つもなく、 作曲家もライヒとシュニトケくらいしか知らなかったので、 「最後まで耐えられるのか?」と思わずにはいられなかった。 それでも実際には、 終始緊張感と刺激に満ちた音楽を楽しむことが出来たので、 非常に充実した素晴らしい演奏会であったと思う。 録音と一緒に演奏するという、 典型的なクラシックの観点からすれば「邪道」 とも考えられかねない手法を取ってまで、 弦楽四重奏という形式の可能性を広げようとする彼らの姿勢には、 今までのコンサート経験とは全く異なる意味で 色々と考えさせられるものがあったし、 あと音楽だけでなく、 曲の途中でも曲調に合わせて色を変化させるような照明の使い方も 面白く見ることができた。
(2000年4月19日執筆、11月5日一部加筆)
前置きが長くなった。まずはバッハ。 私はかなりのマーラーフリークを自負しているにもかかわらず、 バッハの編曲をしていることを知らなかった (作曲小屋にはバッハの楽譜しか置かないというくらい、 マーラーがバッハに対して傾倒していたことは知っていたのだが)。 それに、バッハの管弦楽組曲自体、ド有名な「G線上のアリア」 しかちゃんとは知らない私としては、細かい論評はできない。 ちなみに、「G線上のアリア」については、 原曲とマーラーの編曲の何がどう違うのか、 聴いてるだけではさっぱりわからなかった。 ただ、演奏は無理のない非常に丁寧なものであったし、 単純な旋律の力強さに、 バッハの魅力を改めて認識させられた。
本題のマーラーの4番について。 まず一抹の不安を抱いていたシャイーの指揮は、 確かに強烈な主張を感じるということはなかったが、 音楽の流れを重視する非常に自然なものであったように思う。 私はCDやラジオでマーラーを聴いていて 「どうしてマーラーが全身全霊を込めて刻んだ音をそんなに粗末にする!?」 と思うことがしょっちゅうあるのだが、 シャイーとコンセルトヘボウはマーラーの音、 旋律を非常に大切に扱っていることがひしひしと感じられ、 そこに強い共感を覚えた。 オーケストラの技量も予想通り非常に高く、 特に弦楽合奏の美しさ(第3楽章の始まりは涙ものの素晴らしさであった)、 コンサートマスターのソロ(特に第2楽章の「死神」を模したソロ) は出色であったと思う。 あとソプラノのユリアーネ・バンゼも、 清潔感あふれる、 この曲にふさわしい素晴らしい歌唱であった。 私はこの人を知らなかったのだが、 最近マーラー歌手として様々な指揮者、オケと共演している というのもさもありなん、と思う。
ただ、ゲルギエフの指揮で2番を聴いた時 や、 ラトルの指揮で7番を聴いた時 のような、次に何が起こるのか、と思わせるような凄まじい緊張感 がそれほど感じられなかったこと、 木管楽器がもっとどん欲な自己主張をしてもよかったんじゃないか、 ということが少し不満として残った。 しかし、これも私の期待があまりにも高かったからだろうと思うし、 上にも書いたように、演奏のレベルが相当に高かったことには異論はない。 もともとこの曲自体、凄まじい緊張感と両立しにくいタイプの曲だから、 最初からないものねだりをしてしまっていたのかもしれないし。
それにしても、最近私はマーラーがまたわからなくなってきた。 共感できないということではなく、 マーラーが作品に込めた真の意図が読み取り切れないということである (「大地の歌」なんて、わからないの際たるものである)。 今回の4番もマーラーの中では聴きやすい曲ということになっているが、 歌詞には牛や羊をためらいもなく殺すといったことが平然と語られていたり、 メルヘン調の響きに、それに似合わない哀切極まりない旋律が続いたり、 「マルタ様が料理人だ」といったどうということのない歌詞に、 そこはかとない悲しみをはらんだメロディーがついていたり (3番では、神に憐れみを乞う歌詞がこの全く同じメロディーに伴っている) と、考えれば考えるほどわからないことだらけである。 今日のコンサートで何か新しい発見があるか、とも思ったのだが、 謎は全然解決しないままである。
(2000年2月18,19日執筆)
期待が大きいと、 それが裏切られた時のこともつい考えてしまうのだが、 最初の音が鳴った瞬間に、 その音のすさまじくはりつめた緊張感が、 それは愚かな杞憂だったことを証明した。 一昨年5月にラトルの指揮するマーラーの7番を聴いた時もそうだったのだが、 一時も息をつくことのできないような密度の高い演奏に ぐいぐいと引き込まれるような感があった。 歌劇場のオーケストラだからというのもあるのかもしれないが (注:私は基本的に、オペラはテレビでやる時くらいしか聴かないので、 オペラに対する知識のなさから来る偏見が入っているかもしれない)、 この指揮者とオーケストラは、 マーラーの2番という非常に劇的な要素の強い曲を演奏する間合いという ものをよく理解しているように思えた。 ゲルギエフは私が事前の情報でイメージしていた通り、 音を組み立てること以上にその劇的表出を重視する、 近年では珍しい主情的な指揮者であるように思われた。 あとマーラーが他の作曲家と一線を画す、 異なる楽器の音を有機的に結び付けることで醸し出される 独特の音響的空間というものを見事に描き切っていたことには 非常に感心させられた。 それから私が座っていた席は 低弦の真正面の前から7,8列目くらいのところだったのだが、 そういうこともあってか低弦の強い圧力を感じた。 木管楽器の音の豊かさも印象に残った (マーラーにおいては どの楽器も音響空間を作る重要な役割を演じているのだが、 2番においては特に木管楽器の果たす役割は大きいと思う)。 合唱も、この曲にぴったりの非常に骨太な力強さを感じさせるもので あったように思う。
あまりに密度の濃い演奏に、 終わった時に強い疲労を感じずにはいられなかった。 私が今までライブで聴いたマーラーで最も印象に残っているのは、 アバド/ベルリンフィルの9番(94年)とラトル/バーミンガム市響の7番(98年) なのだが、その時も今回と全く同じように疲れ果てた記憶がある。 今回の演奏は、それらに完全に匹敵する、 私のマーラー受容史に新たな一ページを刻み込む特異的なものであった。
(2000年1月28,29日執筆)