最近行ったコンサート(2002年)

ご意見等は fukuda (at) j . email . ne. jp まで


キーロフ歌劇場管弦楽団
(2002年11月28,29日、サントリーホール)
曲目
(28日)
ムソルグスキー: 歌劇「ホヴァーンシチナ」前奏曲 「モスクワ河の夜明け」
ムソルグスキー: 交響詩「はげ山の一夜」
ボロディン: 交響詩「中央アジアの草原にて」
バラキレフ: イスラメイ(東洋的幻想曲)
リムスキー=コルサコフ: 交響組曲「シェエラザード」
(以下、アンコール)
リムスキー=コルサコフ: 歌劇「雪姫」より、道化師の踊り
チャイコフスキー: 「くるみ割り人形」より、トレバック
リャードフ: 「バーバヤガー」
(29日)
松村禎三: 管弦楽のための前奏曲
マーラー: 交響曲第9番
指揮
ワレリー・ゲルギエフ

ゲルギエフはここ数年極めて注目されている指揮者の1人である上に、 2年前に マーラーの「復活」の素晴らしい演奏を聴いたので、 今回も期待して、何度か行なわれるコンサートの うちの2回を聴きに行った。

(28日)
2階RBブロック9列2番の席についてまず思ったのが、 前回サントリーホールに来た時と 全く違い、オーケストラを非常に良く見渡せるということ。 やはり、ライブは視覚的な情報が手に入ることが大きいと思う。 そこで気が付いたのが、コントラバスを左翼に置く、 少し変則的な配置を取っていたことである。 ハープが右翼に置かれていたのもちょっと気になった。

今回のプログラムは全てロシア音楽で、 私が良く知っていたのは「はげ山の一夜」と「シェーラザード」のみ、 あとは「モスクワ河の夜明け」をこれもゲルギエフの CD で数回聴いたことが あるだけで、他の曲は全く知らないまま臨んだ。 前半の4曲を聴いていてちょっと気になったのは、 オーケストラのバランスが少し悪い、特にヴァイオリンの合奏が 少し弱いと感じることが何度かあったことである。 ただいつもそうだったわけではなく、 弦楽合奏を含め見事なハーモニーを 聴かせてくれる場面の方が当然ながらはるかに多かったので、 単にゲルギエフの解釈と私のイメージが そこで合わなかったのかもしれない。 特に弦楽のパートが強烈な音を出すベルリンフィルが 私の中のスタンダードになってしまっていることが、 ひょっとしたらそう思ってしまう大きな原因かも。 ホールの響きをオーケストラが完全に把握仕切れていなかった という可能性も、あるような気がする。 あと印象に残ったのは、 2年前に 聴いた時と同様木管楽器が相当に鍛え上げられていて 極めて雄弁な演奏を聴かせてくれたことであった。

後半の「シェーラザード」は印象的なソロが多用されている 聴き答えのある曲であるが、 何と言っても特筆すべきはコンサートマスターのソロが とてつもなく素晴らしかったことである。 シェーラザードの主題を官能的に朗々と歌い上げるというよりは、 緊張感をもってすさまじい求心力を表出させた演奏は、 今まで他の CD などで聴いてきたものとは全く異質であった。 同じ旋律が繰り返し現れるところで表情を 微妙に変えているところも、当然ながら素晴らしい。 そんな中で特に、 第4楽章の最後で現れるシェーラザードの主題では、 ヴァイオリン1本がホールを完全に支配している様に 完全に圧倒された。 演奏全体も非常に聴き答えのあるもので、 他の例えばオーボエやファゴットのソロも実に素晴らしかったが、 とにかくコンサートマスターのソロがあまりに印象が強かった。

プログラムの性格からしてアンコールがあるのは当然であったが、 あれだけすさまじいシェーラザードの演奏を聴かされた後では、 「コンサートマスターのソロの余韻を抱えたまま帰りたかった」 という感も個人的にはあった。 しかし、アンコールが3曲もあるとは思わず、 サービス精神の旺盛さには驚かされたし、 どれも聴きやすい曲で素直に楽しめた。

(29日)
昨日と違い、今回は1階17列28番という、S席の中でもかなり いい席で聴くこととなった。 開演前にステージを見て気が付いたことは、 昨日と配置が全く変わっていて、 ハープは左翼、コントラバスは右翼と、通常見慣れた配置になっていた ことである。 思うに、昨日の「シェーラザード」ではコンサートマスターのソロに ハープのアルペジオがからむところが何度も現れるので、 ハープを右翼に置いた方がバランスが良いということだったのだろう。

最初の松村禎三は全く知らない曲であったが、 オケはかなりの大編成であった。 最初は オーボエのソロから木管が展開していった (弦楽のパートが手持ちぶさたに見えた)が、 昨日と違って木管のパートがやや荒いように思えた。 昨日までと違い、 曲の性格からして演奏にかなりの精密さを要することを考えると、 ちょっと勝手が違うのかもしれない。 静謐な音楽がどんどん発展していって 大音響が爆発していく様は、素直に楽しむことができた。 この辺りはゲルギエフの得意とするところなのだろう。 曲の印象としては、使える楽器はとことん使うということを感じさせ、 最後はやはり木管のみで終わるところは、 シンメトリーを意識しているのかと思った。 開演前にステージに上る階段が用意されていたことから 想像できた通り、 演奏後にはすさまじい拍手によって作曲者が壇上に迎えられていた。

後半のマーラーの9番は、 オケのメカニックのすさまじいまでの優秀さを見せつけられた 94年のアバド指揮ベルリンフィルの演奏に衝撃を受けて以来、 他の演奏者のライブでこの曲を聴く気に全くなれなくなり、 今回は実に8年ぶりである。 そんな極めて思い入れの強い曲だけに、 「ハズレだったら」という危惧があったが、 今回は残念なことにそれが部分的に当たってしまった。 第1楽章では昨日感じたのと同様の 「ヴァイオリンの合奏が少し弱いように感じられる バランスの違和感」というのが、 この曲ではかなりの欠陥に感じられた。 ただ、これも昨日と同様、 いつもいつもヴァイオリンが弱かったわけではないので、 どういうことなのか釈然としなかった。 それからかなり謎だったのが、 ティンパニの音が、柔らかすぎるせいか、 全体に埋もれてしまうような場面がかなり見受けられたことである。 メリハリを欠くような感がある このような取り扱いは私の趣味とは相容れず、 かなりのマイナスであった。

それに対し、第2楽章はかなり速めのテンポのきびきびした演奏で、 他の指揮者の演奏とはかなり違う解釈に思えた。 その結果として躍動感と疾走感が非常に強く、 オケのドライブ感も爽快で、この楽章についてはかなりの好印象を持った。 それから第3楽章も終始非常に速いテンポで押し切っていた。 最後のプレストは誰でも速いテンポで締めるけれど、 最初からあれだけ速いテンポで演奏されたのは聴いたことがなかった。 「この楽章は崩壊寸前の極限まで速いテンポの演奏を聴きたい」 とずっと思っていたので、 その点では全く文句なしで実に素晴らしかった。 しかし、さすがにオケにミスが散見されたのが、 仕方がないとはいえ惜しい。 速い部分でないところで一度ハープが完全に落ちたのは、 さすがにいただけなかった。

第4楽章は弦楽合奏の美しさが極めて印象的であった。 弱さを感じることもなく、 それが逆に先の釈然としない印象を 強めてしまうこととなった。 ただ、最初に出てくるファゴットのソロがかなり速かったのが、 これも私の趣味に合わずかなりのマイナス印象。 それから、その少し後にもう一度出てくるコントラファゴットのソロが、 また速かったのみならず音が潰れていたのも、 ちょっとどうかと思った。 それからこれは演奏者の責任ではないのだが、 最後の adagissimo の始まる一番大事な休符のところで 誰かの携帯電話が鳴り、 聴く集中力が一気にそがれてしまったのはあまりに痛かった。 最後の弱音による弦楽合奏は、 94年のベルリンフィルでは、 人間が演奏しているとは思えないような、 あまりの揺らぎのなさに気持ち悪さすら感じるほどの鬼気迫るものであったが、 今回の演奏では確かに人間が演奏していると 感じられる暖かいものであった。 それでいながら緊張感にも全く欠くことはなく、 そこの部分はさすがに見事な演奏だったと思う。 携帯電話のせいでこちらの集中力が失われたことが つくづく痛恨であった。

2日とも終演後の聴衆の熱狂はすさまじく、 オーケストラの団員が退場した後も拍手は鳴り止まず ゲルギエフが一人で拍手に答えていた。 上で色々批判的なことも書いたが、 何だかんだ言っても 聴衆を熱狂させる演奏であったと思うので、 当然の反応だろう。

(2002年11月29日、12月1日執筆)


ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団
(2002年11月7日、サントリーホール)
曲目
マーラー: 交響曲第3番
指揮
リッカルド・シャイー
コントラルト独唱
ナタリー・シュトゥッツマン (ミシェル・デ・ヤングから変更)
女声合唱
アルノルト・シェーンベルク合唱団
児童合唱
TOKYO FM少年合唱団

マーラーの宇宙論とも言える交響曲第3番は、 私にとって特に思い入れの強い曲の一つである。 そして、 4年前のアバド/ベルリンフィルの演奏会 でこの曲が演奏され、 音楽の中身があまりにスカスカなことに泣けてきたことも、 はっきり記憶に残っている。 シャイーとコンセルトヘボウのコンビは、 2年前に聴きに行って、 その時のマーラーの4番が実に素晴らしかったので、 「それだったら3番もいい演奏を聴かせてくれるだろう」 と強い期待を持って出かけた次第。

今回の席(1回2列23番)は、 指揮者のほぼど真ん前で、 実際に座ってみてあまりに前過ぎることに気が付いた。 オーケストラが入ってみると、目に入るのは弦楽合奏のパートだけで、 他の木管、金管、打楽器などは全く見えず、 合唱団すらよく見えないことにはちょっと唖然とさせられた。 さらに私の目の高さはちょうど指揮者の靴くらいで、 指揮者が立つとやたらでかく見える。 そして音は弦楽(席が向かってわずかに右寄りなので、特にチェロ) が直接耳に届くのに対し、 金管は上から反射してきた音を聞いているような印象があり、 少しバランスが悪いような気がしたが、 それでも 先月ブーレーズとロンドン響を聴いた オーチャードホールよりは、はるかにいい音だった。 サントリーホール侮り難し。 弦楽の受け渡しが視覚的にもよくわかったというのは、 予想外の収穫だったかも。

肝心の演奏は見事としかいいようがなかった。 シャイーの指揮は前回聴いたときと同様、 極めて自然で懐が深く、 また今回は劇的な緊迫感にも欠かない、 実に素晴らしいものであったように思う。 特筆すべきは第3楽章のポストホルンのソロの完璧さ (あまりに朗々と響くので、実はトランペットなのかと思ったし、 舞台裏で吹いているとはとても思えなかった)、 奥行きの深いシュトゥッツマンの独唱 (ビオラとチェロに支えられながら神に憐れみを乞う第5楽章は 特に素晴らしかった)、 やはり深みがありながら明晰な アルノルト・シェーンベルク合唱団の合唱 (4年前ベルリンフィルと同じ曲をやった時とは、 深みについて全く印象が違った)、 そして、前回同様柔らかく暖かみのある弦楽のアンサンブルだろう。 敢えて難を挙げるとすれば、 第4楽章で少しアンサンブルが乱れたこと、 オーボエのグリッサンドの処理の仕方が ちょっと私の趣味と合わなかったこと くらいだろうか。

これだけの長い曲が、 最初から最後まで全く弛緩することなく演奏し切られたことには、 ただ驚嘆するのみ。 それどころか、演奏を聴きながら、 音楽が終わりにどんどん近付いて行くことが惜しく思えて仕方がなかった (特に第1,5,6楽章)。 極上の音楽に身を浸すことの悦楽を、 そして、 どんなに素晴らしい音楽も必ず終りを告げ、 そして儚く消えていくことを 痛切に感じさせた演奏会であった。

(2002年11月7,10日執筆)


ロンドン交響楽団
(2002年10月29日、東京オペラシティコンサートホール: タケミツメモリアル)
曲目
スクリャービン: 交響曲第4番「法悦の詩」
シマノフスキ: ヴァイオリン協奏曲第1番
バルトーク: 無伴奏ソナタから第4楽章 (アンコール、テツラフ独奏)
ヴェーベルン: オーケストラの6つの管弦楽の小品
バルトーク: バレエ「中国の不思議な役人」
ラベル: 「亡き王女のためのパヴァーヌ」(アンコール)
指揮
ピエール・ブーレーズ
ヴァイオリン
クリスティアン・テツラフ

私がブーレーズのコンサートを聴くのは今回で実に3度目。 今回のブーレーズ+ロンドン響の来日公演の締めにあたる コンサートである。 まず驚いたのが空席の多さ。 1階席は8割くらいくらいしか埋まっていなかった印象がある。 かなりマニアックなプログラムなのは確かだが、 超一流のアーティストがこれだけ意欲的なプログラムを 組んでいるというのにあまりにもったいないよなあ、 と思わずにはいられなかった。

スクリャービンは CD で何度か聴いただけの明らかに予習不足な 状態で聴いていたが、 以前の公演と同様、 オーケストラは完璧にコントロールされているものの、 パワーを出し切っているようにはどうも思えなかった。 それでも圧倒的な迫力を感じさせたところが、 相変わらず不思議である。 このコンサートにつき合ってもらった高校の先輩が 「万力で締めつけるような」と形容してたが、 確かに言われてみると、 じわじわとクライマックスに持って行くような運びを 見事に形容した表現である。 それと、これも(書いてはいないものの) 以前の公演でも感じたことなのだが、 金管の音量はすさまじいものがあった。 明らかに弦が負けているように思え、 「ベルリンフィルなら、絶対弦も負けずに大音量で演奏するだろう」 と思いながら聴いていた。 それでも上に書いた通り演奏の水準は極めて高く、 まだ一曲目というのに、コンサート最後の曲目であるかのような ブラボーの嵐。何かその辺からして、 ちょっと異様な雰囲気のコンサートであった。

シマノフスキはこの曲はおろか、他の曲も一切聴いたことのない、 全くの白紙状態で聴いた。 ブーレーズの好きそうな複雑な曲だとは思ったが、 バリバリの難解な現代音楽という印象はなく、 むしろ後期ロマン派の曲のように思えた。 この曲については、正直強い印象は受けなかった、というより、 他の3曲の印象があまりに強烈だったので、 知識がない分それらに埋没してしまったというのが正確なところかもしれない。 かろうじて印象に残っているのは、カデンツァの朗々とした様と、 最後がチェロ(だったと思う)のピチカートという意外な 終わり方をすることであった。 それから、アンコールでもそうであったが、 テツラフのヴァイオリン独奏は 現代的な明晰さを感じさせるものであり、 「ブーレーズが好みそうな演奏だな」とも思った。

休憩後の最初のヴェーベルンは、 チケットを買った時点では「このコンサート一番の聴きもの」 と思っていた。それはもちろんブーレーズが、 ヴェーベルンの演奏でも第一人者の名をほしいままにしていることを 良く知っていたからである。 今回の演奏も、 曲自体がはらむ緊張感が見事に表出された 素晴らしいものであったと思う。 ヴェーベルンのオーケストラ曲をライブで聴くのは、 自分の記憶が正しければ初めてなのだが、 今回の演奏を聴いて、 ヴェーベルンは ライブの張り詰めた緊張感の中に身を置いて聴かないと、 真価を感じ取ることができないと思わずにはいられなかった (もちろん超一流の演奏を聴くことが前提である)。 ただ、普通の曲では問題にならないようなアンサンブルの極めて小さな乱れ、 音程のほんのわずかの揺れが大きなダメージに感じられるあたり、 ヴェーベルンというのは聴く側だけでなく演奏する側にとっても 恐ろしい曲だということも実感した。 それでも、金管の弱音のアンサンブルの見事さは脱帽ものであった。 あと印象に残ったのは、第2曲の耳をつんざくように突如現われる ピッコロ(フルートかも)が、それほど強く吹かれていなかったことである。 まあ、全体の調和を大事にするブーレーズらしいと言えるかも。 それと、第4曲で銅鑼の音がじわじわと大きくなっていく様を聴いていて、 なぜかラベルの「ボレロ」を思い出してしまった。

最後のバルトークは、ブーレーズがシカゴ交響楽団と録音した CD を何度も聴いて予習していた。 その CD と、前回までの2度のコンサートで抱いた印象から、 こんな感じで始まりそして展開していくのだろうという イメージがあったのだが、 実際の演奏はそのイメージとは全く異なっていた。 何度も書いた通り、 今まで「このオーケストラ100%本気出してないやろう」 とずっと思っていたが (念のため改めて書いておくが、「だから駄目だ」では決してなく、 それにもかかわらず凄い演奏であることに 驚き呆れていたのである)、 最後の最後ついに本気を出して来たという感があった。 ブーレーズは CD での演奏よりもわずかに速めのテンポでぐいぐい 押していき、 オケが醸し出す音は別の指揮者が別のオーケストラと演奏しているかと 思えるくらいの、今までとは全く異質の凄絶さをはらんでいた。 曲の性格の違いもあるのかもしれないが、 今までのブーレーズ、 今までのロンドン響は何だったのかとすら思えるくらいの変容ぶりである。 しかし当然ながらアンサンブルは相変わらず緻密で、 そこに緊張感と迫力がさらに倍加されたようなものであるから、 演奏の印象としてはすさまじく強烈なものがあった。 ブーレーズという指揮者の、 そしてロンドン響というオケの超一流ぶりを、 これでもかと見せつけられたような感もある。 「ここまで水準の高いバルトークは、もう二度と聴けないかもしれない」 と真剣に思わずにはいられなかった。 少なくとも、「中国の不思議な役人」は、 他の演奏家のライブを聴きに行く気には当分なれないと思う。

そんな超人的な水準のバルトークを聴いた後では、 アンコールの「亡き王女のためのパヴァーヌ」 は正直なところ蛇足にしか思えなかった。 演奏としてはバルトークとはうって変わった、 本来のブーレーズらしい抑制の効いたものであったように思う。 終演後オケの団員が退場しても拍手は鳴り止まず、 ブーレーズが単独でもう一度登場し拍手に答えていた。 21日、23日のコンサートでは見られない光景であった。

このコンサートは、 今回同行してくれた先輩に「一緒にコンサート聴きに行きませんか」 と誘いのメールを出した時、 いくつか候補を出した中から先輩が選んだもので、 もしそうでなければ「ブーレーズ3回聴くのもなあ」と思って、 今回のコンサートを切っていた可能性が極めて高い。 今回のコンサートの印象は、 自分が今まで聴いてきた数多のコンサートの中で 確実に3本の指に入る強烈なものであった ことを思うと、 よくぞ先輩がこのコンサートを選んでくれたと 感謝の念を抱かずにはいられなかった。

(2002年10月30日執筆、11月1,6日加筆)


ロンドン交響楽団
(2002年10月23日、Bunkamura オーチャードホール)
曲目

バルトーク: 弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽
マーラー: 交響曲第5番
指揮
ピエール・ブーレーズ

ブーレーズの CD はそれこそ山のように聴いてきたにも かかわらず、 前回の公演(一昨日) を聴きに行って、 ブーレーズの指揮者としての特質を 言葉で説明することが極めて難しいことに気が付いた。 「指揮者として特異的な評価を受けているブーレーズの特質とは何なのか」。 前回の公演以来頭を離れないこの疑問を解決する手がかりが 得られればと思いながら、再びコンサートに出かけた。

1曲目の「弦チェレ」は、やはりブーレーズ指揮の CD で 何度も聴き込んだ好きな曲の1つ。 ライブで聴くのは初めてで、 2部に分かれた弦楽合奏が完全に左右対称に配置され (だから、コントラバス奏者が左側にもいる)、 指揮者の目の前のど真ん中にピアノが鎮座している様は、 普通のオーケストラ曲の配置を思い起こすとかなり異様に思えた。 ビオラの弱奏で始まる第1楽章を聴いたまず抱いた印象としては、 前回の「火の鳥」と同様なもので、 弱音は極めて精緻にコントロールされているものの、 会場の雰囲気を一気に引き締めるような緊張感は それほど感じられなかった。 全ての楽器、特に弦楽と ピアノが大活躍する第2楽章を特に楽しみにしていたが、 ピアノの音が少し濁って聞こえ、 さらに弦楽が2部に分かれていることから来るステレオ効果が あまり明瞭に感じられなかったことが残念であった。 今回の席(1階21列31番)は前回と 違ってかなり良い席のはずなのに、 オーチャードホールの性質なのか音が明瞭でなく (このホールは天井が高いように思う)、 何か薄い膜を通して聞こえてくるような感じがどうもぬぐえなかった。 ただピアノが濁って聞こえたのは、 明瞭にピアノが分離した CD の録音に耳が慣れ切っていたからかもしれない。 このように、 自分の耳の嗜好とホールの響きとの乖離になかなかなじめず、 完全には楽しめなかったというのが正直なところ。 同行の友人は「弦が上にすぽんと抜けるような感じがした」 と言っていたが、同感。 できればこの曲をもう一度同じメンバー、違う環境で聴いてみたいと 強く感じた。

後半のマーラーは、期待を抱きながらも 「マーラーの叙情性はブーレーズの特質には合わないのではないか」 という危惧もあるという、かなり複雑な気分のもとに聴き始めた。 しかし、第1楽章においては 弦の暖かみと厚みがむしろ強い叙情性を醸し出す意外な出だしであった。 それに対しマーラーの曲の中で最も有名な第4楽章のアダージエットは、 弦楽の厚みはもちろん十分であったが、 この曲に込められた叙情を徹底的に排除しているように感じられた。 この楽章はブーレーズの嗜好に最も合わないように思えて仕方がないのだが、 「一体彼は何を思いながらこの楽章を指揮しているのだろう」と 疑問に思わずにはいられなかった。 しかし第4楽章以外は全く違和感を抱くこともなく、 むしろ極めて精緻にオーケストラがコントロールされた 非常にいい演奏であるように思えた。

全般的に印象に残ったことの1つは、一昨日 と同様、ソロが大見得を切って鳴り響くことは決してなかったことである。 マーラーはソロを印象的に使っている個所が非常に多いと思うのだが、 このようなバランス重視の抑制した姿勢は、 むしろ曲全体の見通しを良くしていて好ましく思えた。 あと、全奏(特にフィナーレ)を聴いていると、 大音響で圧倒されるという感じは決してないのに 音量的に物足りないなどということも全くなく、 すさまじい緊張感に貫かれているというわけでもないのに 弛緩を感じることも全然なく、 だからと言って「平凡」「中庸」などという言葉で語るには あまりにもふさわしくない演奏に、 ただひたすら不思議な印象のみが植え付けられた。

結局、一番最初に書いた疑問は解消されるどころか、 より大きな疑問として私の頭に残ることとなってしまった。

(2002年10月23,25日執筆、11月1日加筆)


ロンドン交響楽団
(2002年10月21日、東京文化会館)
曲目
ブーレーズ: 弦楽のための本(1988年版)
バルトーク: ピアノ協奏曲第1番
ストラヴィンスキー: バレエ音楽「火の鳥」全曲(1910年版)
ストラヴィンスキー: 「花火」(アンコール)
指揮
ピエール・ブーレーズ
ピアノ
マウリツィオ・ポリーニ

自分にとっては「生き神」的な存在であるブーレーズを、 もうちょっとましな言い方をすれば、 ストラヴィンスキーの受容に間違いなく決定的な役割を果たした ブーレーズのストラヴィンスキーを この耳、目で体験したかったから、 コンサートに赴いた。 暴言を承知で言えば、ポリーニなんてどうでもよかった、 もっと言えば、 「ポリーニのせいでチケットの値段が余計に高くなってしもたやんけ」 とすら思っていた私。

東京文化会館に着くと、尋常じゃない数の人が開場を待っていた。 そして人だけではなく、NHK のカメラも。 聴衆の入場の様のみならず、 プログラムを買い求める人たちをも撮影していたのは、 やはりこのコンサートが「ポリーニプロジェクト」の オープニングだからなのか。 何となく漂う異様な雰囲気は、 やはりブーレーズのせいではなく ポリーニのせいなのかしらとも感じた。 大体「ポリーニプロジェクトTシャツ」なんぞ売ってたもんなあ (「ブーレーズTシャツ」は当然なかった)。 ともかく、私がプログラムを買う様は確実に録画されているので、 ひょっとしたら NHK の「芸術劇場」あたりで、 私の姿が映し出されるかもしれない。

私にとっての生き神ブーレーズは、 77才とはとても思えない颯爽とした歩みとともに現われた。 最初の「弦楽のための本」は DVD で一度視聴しただけで臨んだが、 やはりそれだけでは何のことやらさっぱりわからなかった。 私の印象としては、「アルバン・ベルクの『抒情組曲』(弦楽合奏版) から『抒情』をさっ引いた曲」。 現代音楽的な緊張感は心地好く楽しむことが出来たが、 席がそれほど良くなかった (ど真ん中とは言え、3階席の一番後ろであった)ので、 弦楽器の響きが薄く遠く感じられたのが残念。

「弦楽のための本」が終わった後、ピアノを設置すべくステージの再配置。 最初からステージの隅にあったピアノが真ん中に配置されるのかと思ったら、 舞台袖から突然もう1台ピアノが出てきて、 指揮台の前のステージのど真ん中に設置された。 どうやら最初からあったピアノは「火の鳥」用のものらしい (恥ずかしながら、 「火の鳥」にピアノが使われていることは全く知らなかった)。 NHKは当然コンサートの模様も収録しているわけだが、 ポリーニ用のカメラとマイクもこの間に着々と設置されていた。

やはり今日の聴衆のほとんどは目当てがポリーニなのか、 バルトークが演奏されている間は 温度が 2,3 度高いようにすら感じられた。 バルトークのピアノ協奏曲もかなり慌てて CD で予習したので まともな論評はできないが、 そんな状態だったのでむしろ、例えば第2楽章でピアノと打楽器が 執拗に対話を繰り返す様が新鮮に感じられたりした。 また、(そんなこと絶対あり得ないとは思うが) 「ブーレーズがとちったのか?」と思うような、 一瞬では決して理解できない複雑怪奇極まり無い音楽の進行が 現われたことにも驚かされた。 ともかく、一連のコンサートのために最近バルトーク漬けになっていた 私としては、 バルトークの音楽の面白さを再認識させる面白い演奏であったと思う。 しかし最初に書いたようにポリーニに全然思い入れのない私には、 ソリストがポリーニである必要性が全く感じられず、 まさに猫に小判豚に真珠金返せ状態。 ブーレーズがひいきにしている若いピアニストが誰か確実にいるはずで、 そいつがピアノを弾いてくれた方が私としては絶対ありがたかった。 ただそれでも、ポリーニはブーレーズと馬が合いそうという 感じは何となくした。 当然ながらポリーニに対する拍手はすさまじいもので、 休憩を知らせるべく客席が明るくなっても鳴り止まず、 ポリーニが舞台にもう一度呼び戻される有り様であった。

休憩時間が終わる直前、突然まばらな拍手が起こり 開演を待つ聴衆が次々に立ち上がって下を覗き込んでいた。 何事かと思ったが、状況から考えて、 ポリーニが次の演奏を聞くために客席に現われたのであろう (結局確かめることはできなかったが)。

そして今日の私の最大のお目当ての「火の鳥」。 確かに見事に計算され尽くした精緻極まり無い演奏ではあったが、 予習を兼ねて聴き続けていた CD に収録されていた、 シカゴ響との演奏があまりに完璧だったので、 「オープニングのチェロとコントラバスの合奏にもう少し緊張感があれば」 とか「打楽器の強弱のコントロールがちょっと甘い」とか 感じたりもした。 しかし、これはもうないものねだりにも等しいものであろう。 それから、 紡ぎ出される音が想像していたほど鋭くないようにも感じた。 ただこれも、若い指揮者(サイモン・ラトルやチョン・ミュンフンなど) のエッジの効きまくった音を最近耳にする機会が多いからだと思うし、 むしろ、 「精緻」と「鋭い」は必ずしも同時に成り立つ性質ではないと いうことなのだろう。 あともう一つ印象に残ったのは、 ソロパートの奏者が決して旋律を朗々と歌い上げて いなかったことである。 こう書いてるとけなしてばっかりのように思われてしまうが、 ブーレーズが全体の構成を何よりも大事にしていることの現われと 考えるべきである。 エンディングの全奏も、オーケストラは 80%程度のパワーしか出していないように思えたが、 オーケストラが最後まで完璧にコントロールされた快感の方が はるかに勝っていた。 オーケストラがぎりぎりの能力を出し切ったという 演奏とは全く違ったのに、 それでも強烈な印象を心に刻み込まれたことに、 非常に不思議な気分を抱きながら拍手をしていた。

最後のアンコールに答える時に、 ブーレーズは「火の鳥」のスコアを床に投げ捨てて 客席の笑いを誘っていた。 「花火」は「火の鳥」と同じ CD に収録されていたにも かかわらず、ほとんど聴いておらずかなり後悔。 バルトークの時と同様、「とちったのか」と思うような 複雑怪奇な音の進行に驚かされた。

(2002年10月21日執筆、11月6日一部改訂)


ミルバ 「ブエノスアイレスのマリア」
(2002年5月18日、Bunkamura オーチャードホール)

ピアソラがフェレールの台本に音楽をつけたタンゴ・オペリータ。 最近ピアソラには結構はまっているし、 ライブで滅多やたらに聴ける曲ではないので、 クレーメルの CD を聴きまくって予習して臨んだ。 ミルバの歌はテレビで聴いたことしかなかったが、 ピアソラから絶大な評価を得ていたことは知っていたので、 かなりの期待を持って行った。

ミルバは想像していた通りのすさまじいオーラを放ち、 圧倒的な力強さとともに心をわしづかみにせんばかりの 素晴らしい歌唱を聴かせていた。 語りのダニエル・ボニージャ・トーレス、 バリトン(5役)のホセ・アンヘル・トレージェス の声の渋さもこの音楽にピッタリであったと思う。 特に語りのトーレスは、 ミルバに負けないくらい、 舞台を一本筋の通った緊張感に貫かれたものにしていた (特に第1部の始まりと第2部の最後)。 クレーメル盤では台本のフェレールが語りをやっているが、 そのフェレールよりも今日のトーレスの方が 雰囲気を出していてよかったと思う。

サポートするタンゴセイス・アンサンブルもいい演奏をしていた。 クレーメル盤の編曲ではギターがカットされていたが、 今日の演奏を聴いていると、 ギターがないとあまりに雰囲気が変わってしまって良くないように 思えてならなかった。 あとジャズで使われるようなドラムもクレーメル盤では使われていなかったが、 音楽にアクセントを与えるという点で、これもあった方がいいと思う。 それから、今日の演奏ではフルートが使われていなかったが、 それほどの違和感はなかった。ただその可否については何とも言えない。

今回は字幕つきの上演で、歌詞はおろか正確なストーリーも知らずに クレーメル盤を聴いていた私には勉強になっていいかと思ったが、 歌詞は実にシュールでかつ難解で (「古心臓屋」などという単語が出てきたり、 観客に台本の完結性を尋ねたりする下りすらあった) 結局よくわからなかった。 解説や新聞での紹介記事を読むと、 歌詞の言語であるスペイン語を母語とする人にとっても難解なものらしいので、 一度見てわからなくても仕方がないだろう。 しかしこれだったら、歌詞なしの上演にして 舞台と音楽に集中してもらうという選択肢もありだったのではないか。

舞台演出(井田邦明)は非常に抑制されたもので、 下手に過剰な意味付けをするよりははるかに良かったと思う。 パンフレットでダンサーが2人いるというのを知った時は かえって鑑賞の邪魔になるのではと思ってしまったが、 実際に舞台に接してみるとそんなことは全くなかった。 むしろ、踊っている時にも字幕に目が行っている自分に気が付いて ダンサーが気の毒に思えたくらいであった。

上演が終わったときは、 ただただ「いいものを見せてもらった、 聴かせてもらった」という感が強かったが、 唯一残念だったのは、 オーチャードホールのような大きなホールでなく より舞台と客席が近い距離を取れる 小さいホールで聴いてみたかったことである。 そうすれば PA をガンガンに使う必要もなく、 ミルバの圧倒的な存在感も今日以上に楽しめたのではないかと思う。

(2002年5月19日執筆)


最近行ったコンサート
fukuda (at) j . email . ne. jp