わんだふる ヴェトナム山岳地帯 (1)

はじめに

 2011年12月24日(土)から12月31日(土)の8日間、「ヴェトナム最高峰ファンシーパンと世界遺産ハロン湾クルーズ」ツアーに参加しました。ツアーのタイトルにもあるように、ツアー参加の目的はヴェトナムの最高峰ファンシーパン山(3,143m)に登ることでしたが、同行者の家内が出発の10日前に足を少し痛めたため、泣く泣く?山登りはあきらめて、他のメンバーが山登りしている間は”保養地”サパで観光をすることになってしまいました。

 私にとって、”ヴェトナム”といえば、アメリカのヴェトナム侵略戦争とそれに対するヴェトナム民族の輝かしい闘いと勝利が浮かんできます。ヴェトナム侵略戦争反対の行動に参加していた頃(1964年〜1971年)は、ヴェトナムはもちろん、海外へ出かけるなどは夢の中の夢であったのですが、手ごろなツアーがあったので今回参加しました。訪れたところは、ヴェトナム北部の山岳地帯(サパ)とハノイ・ハロン湾という限られた地域ですが、ドイモイ(刷新)政策で発展しつつあるヴェトナムの一部を垣間見ることができたので、その体験の一部と思いを紹介します。

                                                                            2012年1月23日(月)

  1.プロローグ 
  
2.ヴェトナムについて
  
3.ヴェトナムツアー概略
  4.成田からサパへ: 12月24日(土)〜25日(日)
   4.1 成田からハノイ
   
4.2 ハノイからサパ
  
5.サパと山岳民族の村(その1): 12月25日(日)〜26日(月)
  5.サパと山岳民族の村(その2): 12月27日(火)〜28日(水)
  
6.サパからハノイへ: 12月29日(木) 
  
7.ハロン湾クルーズとハノイ: 12月30日(金) 
  

                                                       
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1.プロローグ

 いつも海外ツアーの旅行記で述べているように、最近は「年も年だし、これからは高い山へ行ったり、テント泊をするのは体にきついからやめよう」と考えていたのですが、とにかく時間があり、歩ける間はできるだけ海外を歩いて、見て、感じてみようということで、昨年の11月頃にあちこちのツアーを探して見ました。そこで、3つほど候補を絞ったのですが、1つは満席で断られ、2つめとして今回のツアーを申し込んでみました。このツアーは、山の標高(3,143m)はそう高くなく、登る標高差も約1,200mくらいなので、何とか登れるのではないかと考えました。また、テント泊ですが、亜熱帯地帯(季節は乾期です)の標高3,000m以下での2泊なので、これも何とか我慢できるのかなと思いました。ところが、ツアー会社からは飛行機の座席が取れるかどうか確認してみないと分からないという返事でした。そして、2、3日待った後に、ツアー会社から何とか座席が取れたという連絡があり(実際当日の飛行機は満席でした)、今回のツアーに参加することに決めました。

 今回はヴェトナムの北部山岳地帯にある最高峰ファンシーパン(3,143m)登頂が目的でした。ところが、出発の10日前に、同行者の家内と足慣らしにと出掛けた青梅の高水三山のハイキング(山登り)で、家内が少し足を痛めてしまいました。さあどうしよう。ツアーをキャンセルしようかどうか大分悩みました。それでも、ツアー会社頼んで座席をとってもらっているのでキャンセルは申し訳ないし、またヴェトナムへ行ってみたいという強い思いもありました。それで、「とりあえずファンシーパンの麓の町サパ(標高1,600m)まで行って、そこで登れるかどうか判断する」ということが可能か、ツアー会社の担当者に確認してみました。すると、ツアー会社の方から、「登頂できないのは残念だが、もしそうしたいなら、そのように手続きすることも可能である」という返事が返ってきたので、とにかく山登りの道具類や衣類を準備し、ヴェトナムに行くことに決定しました。

 最終的には、ファンシーパンの山登りはしないで、他の参加者が山登りをしている間は、家内と二人で麓の町サパ(標高1,600m)で4日間滞在し、マーケットやおみやげ店をまわったり、近くの山岳民族の村落(カットカット村)を散策したり、あるいはスケッチをしたりして、時間を過ごすしました。

 それでは、ヴェトナムで見たこと、聞いたこと、あるいはヴェトナムについて本で読んだことなどを、以下にまとめましたので、お付き合いください。

2.ヴェトナムについて

 国の正式名称は”ベトナム社会主義共和国(Socialist Republic of Vietnum)といい、国土は、東側は南シナ海に面して、南北にS字形に長く延びた地形をしています(南北1,650km、東西600km)。国の北側では中国と国境を接しており、西側ではチュオンソン山脈が太平洋岸に平行して南北に走っており、山脈を隔ててラオスとカンボジアと国境を接しています。国土の面積は約32.9万kuで、日本よりやや小さな面積です。

 北部では紅河(ホン河)が流れ、南シナ海に向かってデルタが拡がっており、首都ハノイや港湾都市ハイフォンが位置しています。また、南部ではメコン川が流れ、メコンデルタが拡がり、最大の都市ホーチミン市があります。中部には古都フエや港湾都市ダナン、ホイアンなどがあります。

 気候は高温多湿の熱帯モンスーン気候帯に位置していますが、国土が南北に長いため、北部では亜熱帯性気候、南部では熱帯性気候となっています。今回訪れた北部についていうと、5〜9月が雨期、10月は台風シーズン、11〜4月が乾期となります。ハノイでは、6〜8月は特に暑く、最高気温は30度を超え、湿度は90%近くなり、蒸し暑さが続きます。ただし、北部の山岳地帯では、年間を通して比較的過ごしやすく、11〜12月は秋、12〜3月は冬にあたり、日本の晩秋のような気候です。したがって、この季節が登山のベストシーズンとなりますが、霧雨が多く、最低気温が0度近くまで下がることもあり、登山に当たっては防寒対策が必要です。

 ヴェトナムの人口はおよそ8,600万人です。首都は北部のハノイ市で、人口は約640万人です。最大の都市は南部のホーチミン市で、人口は約720万人です。



 ヴェトナムは多民族国家で、54部族があるとされております。その中でキン族(またはベト族)が85%ほど占めています。それ以外の民族はいわゆる少数民族となりますが、今回訪れたサパのまわりにはモン族とザオ族という山岳民族が住んでいます(北部山岳には、もちろん他の山岳民族も住んでいます)。モン族は”黒モン族”とも呼ばれ、女性は袖口に刺繍が入った藍色シャツに、スカート、ソックスを着用し、髪を束ねて筒状の帽子をかぶります。男性も藍色の服装をしている人がいますが、一般には普通の服装をしているので、観光客は見分けることができません。ザオ族は赤ザオ族とも呼ばれ、女性は刺繍が入ったパンツと襟と袖口に刺繍が入った黒い上着を着用し、眉毛や髪も剃って、頭に鈴や房飾りをつけた赤い布を巻いています。

 その他に、公用語はヴェトナム語です。通貨単位はヴェトナム・ドン(VND)で、1US$当たり約19,000ドン、日本円換算では、1,000ドン当たり約4.2円となります。日本円はほとんど使えませんが、USドルは大体どこでも支払い用に使えます(つり銭はドンで帰ってきます)。通貨の数字の桁数が大きいので、買い物をするときはその価値のイメージがわからず、戸惑いました(実際にだまされるという経験もしました)。宗教は仏教(大乗仏教)が大半を占めていますが、ヴェトナム革命で多くの寺院が破壊されたとのことです。

 ヴェトナムの現代史についても、簡単に述べます。1858年にフランス(帝国主義)がヴェトナムを含むインドシナ半島に侵攻し、1882年にはハノイを占領し、1887年に仏領インドシナ連邦としてフランスの植民地となりました。1900年代になると民族運動が高まり、1930年にはベトナム共産党が結成され、ホーチミンのもとで激しい独立運動が展開されました。第二次世界大戦において、フランスがナチスドイツに降伏した機会に便乗して、日本(帝国主義)が仏領インドシナに進駐し、フランスとの二重支配を行いました。1945年3月(日本の敗戦の年)形式的なベトナム帝国(王政復古)が一時的に成立しました。しかし、日本の無条件降伏の後フランスが再び懲りることなくヴェトナムに侵攻し、南部ヴェトナムを征服して、長い南北分裂が始まりました。

 フランスの南部への再侵攻、ハノイへの攻撃に対して、南および北ヴェトナムにおいてフランスとの闘いが始まり(第1次インドシナ戦争)ました。そして、ヴェトナムは1954年の有名なディビエンフーの闘いでフランス軍を敗退させました。しかし、停戦に関するジュネーブ会議では、ヴェトナム国家は名目上も実質上も南北に分裂させられました。その後、南ヴェトナムでは、アメリカ(帝国主義)がフランスに代って介入を始めました。しかし、南ヴェトナムの傀儡政権に対する反対運動が強まり、1960年に南ヴェトナム解放民族戦線が結成され、アメリカと傀儡政権に対する闘いが開始されました(第2次インドシナ戦争)。アメリカのケネディは本格的な軍事介入を行い、1964年には北部への爆撃を開始し、泥沼の侵略戦争にのめりこんでいきました。アメリカ(帝国主義)の不当な侵略や残虐な戦闘行為(ソンミ村事件や枯れ葉作戦などなど)に対して、日本を含む世界の多くの国で、侵略戦争反対の運動が起こりました。当時学生であった私にとっても非常にショックな出来事で、もちろん侵略戦争反対運動に参加しました。

 1968年旧正月(テト)に、全土で北ヴェトナム軍と南ヴェトナム解放民族戦線による大攻撃があり、アメリカの劣勢が明らかとなり、1973年にはアメリカの撤退が決まりました。その結果、北ヴェトナム軍と南ヴェトナム解放民族戦線は反攻に転じ、4月30日にはサイゴンを陥落させ、長い戦争を終結させました。そして、1976年には、統一国会が開かれ、南北に分裂を強いられてきたヴェトナムはヴェトナム社会主義共和国となり、現在に至っています。


3.ヴェトナムツアー概略

今回のヴェトナムツアーはおおよそ次のようになります。

1.12月24日(土): 成田=(飛行機:約6時間)=>ハノイ=(ハノイ観光)
              夜、ハノイ=(鉄道:約8時間30分)=>ラオカイ

2.12月25日(日): (鉄道)=>ラオカイ=(バス:約1時間)=>サパ
              サパ到着後、近郊村落(ラオチャイ、タヴァン村)を散策

3.12月26日(月)、27日火): ファンシーパン山登山(テント2泊)
   *この間、私と家内はサパに滞在し、町と近郊村落(カットカット村)を散策
4.12月28日(水): ファンシーパン山下山=(バス)=>サパ
              サパ到着後、ハムロン丘(公園)を散策

5.12月29日(木): サパ=(バス:約1時間)=>ラオカイ=(鉄道:約11時間)
              =>ハノイ滞在
6.12月30日(金): ハロン湾クルーズ、水上人形劇感激
              深夜、ハノイ=(飛行機:約4時間30分)=>成田


 簡単に訪れた町を説明しておきます。ハノイはもちろん首都であり、政治の中心地です。ラオカイは中国との国境に接する最北の町であり、中国との間には紅河(ホン川)が流れており、橋でつながっています。現在は中国との貿易が行われていますが、1979年に中国はここからヴェトナムに侵攻してきした。

 サパの町は、ヴェトナム北部の標高約1,600mの山地にあり、ファンシーパン山登頂のベースとなる町です。この町は、フランスがインドシナを植民地統治していた頃にフランス人の避暑地として建設した町です。現在はドイモイ政策を受けて観光地(リゾート地)として再開発が進められており、ヴェトナム人を含む多くの人々が訪れています。特に、2000年からホテル客のための寝台列車を走らせるようになり、国境のリゾート地が一気に身近なものになったとのことです。

 このサパの町は普通のヴェトナムの山間の山岳民族の村とは大分イメージが異なります。町自体は小さな町ですが、町にはホテルやレストランがたくさんあり、おみやげ店や露店などもたくさんあります。また、大きな常設のマーケットがあり、いろいろな食料や生活物資、登山用品、みやげ物などを売っており、多くの山岳民族の人々や観光客でにぎわっていました。町のすぐ脇には、きれいな小さな湖(大きな池)や奇岩が多い景勝地ハムロン丘(小さい岩山)という公園もあり、公園には多くの観光客が入って(登って)いました。

 
町の中心街を一歩はずれたまわりには、山岳民族(主に黒モン族と赤ザオ族)の村落が散在しています。村落は山間のやや広い谷に展開しており、棚田(ライステラス)が美しい米作中心の農村(日本の昔の山間の農村のイメージがあります)で、観光料を払ってその村落を散策することができます。観光客相手のおみやげ店や休憩所がところどころあり、
観光客が訪れ、散策しています。

 ハムロン湾は、ハノイの東方100kmに位置し、石灰岩でできた大小2000もの奇岩が湾内に浮かぶヴェトナムを代表する景勝地です。1994年にユネスコの世界自然遺産に登録されています。この湾内を独特の形をした船(日本の屋形船を大きくしたようなイメージ)でクルージングすることができます。


4.成田からサパへ : 12月24日(土)〜25日(日)
4.1 成田からハノイ : 7月24日(土)


 12月24日(土)早朝、車と京成スカイライナーを乗り継いで、成田空港に向かいました。今回は、19名(ツアーリーダー2名含む)のグループですが、成田、関空、名古屋、福岡と出発場所が分かれており、成田発の参加者は10名(ツアーリーダー1名)でした。8時に集合し、ヴェトナム航空VN311便(日航と共同運航)に搭乗し、予定通り10時に飛行機は動き始めましたが、すぐに停止してしまいました。システム障害が発生したとかいうことで、その回復ののために1時間45分も機内で待たされ、離陸したのはようやく11時50分でした。やれやれです。静岡の上空から富士山が見えたので、写真(左)を撮りました。このような富士山は初めてでしたので、とてもラッキーでした。

 ヴェトナムまでのフライト時間は約6時間30分で、日本との時差は2時間なので、比較的楽なフライトでした。ハノイ国際空港には現地時間3時40分に到着しましたが、成田以外のグループは先に到着しており、成田の飛行機が大幅に遅れたこともあって、本来一緒に行動するところを、待ちきれずに?先に観光に出発したということでした。

 早速、バスに乗ってハノイ市街へ向かいました。ハノイの中心街に着いた頃はやや薄暗くなっていましたが、ホーチミン博物館、ホーチミン廟、一柱寺を巡り、6時にレストランに到着しました。ここで、先発の組と合流し、一緒においしいヴェトナム料理を楽しみました

  
飛行機から見た富士山(情報は河口湖の町)
ハノイ空港前 ホーチミン廟 ホーチミン博物館 一柱寺

4.2 ハノイからサパ : 12月24日(土)〜25日(日)

 食後、レストランを出ると、社会主義国で仏教徒の多いヴェトナム、それも政治の中心地ハノイにもかかわらず、街はクリスマスのイルミネーションとクリスマスソングにあふれ、昔の銀座のようで、圧倒されました。もちろん、家庭を大事にして、家族でささやかなクリスマスイヴを楽しんでいる人も多いとのことでした。世界中の国の多くの人たちで、宗教や政治体制とは無関係でクリスマスを楽しんでいるのですね。

 それから、ハノイ駅へバスで向かいました。ハノイの道路は、アジアのどこの国とも同じく、たくさんのバイク(”ホンダ”と呼ぶそうです)が走り回っており、大変混雑していて、運転が怖い感じでした。ハノイの駅前も、車やバイク、それに多くの人で混雑していました。時間の余裕もなく、すぐに駅の構内に入り(駅は日本のような高いプラットフォームはなく、平坦な操車場といった感じです)、ラオカイ行きの夜行寝台列車に乗りました。車内は1コンパートメントを4名で利用します(2等車は違うようですが、どうなっているのかわかりません)。コンパートメントの中は2段ベッドとなっており、それぞれ毛布と枕、それにミネラルウォーター1本がついていました。最近は日本では夜行列車の旅はまったくしなくなったため、このレトロな雰囲気に少し興奮気味でした。列車は定刻どおり、9時10分にラオカイへ向かってゆっくりと発車しました。

クリスマスで賑わる繁華街通り ハノイ駅前の二人の娘さん 寝台夜行列車(ラオカイ行き) 列車のコンパートメント内

 ハノイからラオカイまでは、紅河(ホン川)に沿って北へ約300kmほど、約8時間走ります。時速はおよそ30kmといったところでしょうか。起きていても外が真っ暗で何も見えないし、ラオカイには明日の早朝に到着するため、列車が発車すると、すぐにベッドに横たわり、寝てしまいました。ときどき目を覚ましましたが、かなりよく眠ることができました。

 5時頃に目が覚め、降りる準備を始めました。予定より10分ほど遅れて、5時40分にラオカイの駅に到着しました。ラオカイはまだ夜明け前でしたが、駅前には明かりのついたホテルやレストランがあり、タクシーなども待機していました。天気は曇り空で、やや肌寒いといった感じでした。荷物の到着を待って専用バスに乗り、6時15分にサパの町へ向かいました。


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