恋愛映画の骨格はとっているが、本質は「いかに普通の日常が愛おしいか」という映像詩である。本来ならカットしたくなるような余計な映像が、だんだんと胸に迫ってくる。姉とスイカの種飛ばし。父と鍋を作る。市場で魚や大根や春雨を買う。配達の途中で母校の小学校で子どもたちの歌声を聞く。
主人公は最後に死んじゃうのだが、そのことで修羅場になったりはしない。言い争いもケンカもない。感情が爆発するのは主人公が友人と酔っぱらって警察に保護されているときに突然叫ぶところ(しかし、全然覚えていなかった)と、彼女がいつまでも閉店している主人公の写真店に石を投げるところ(ここでカメラを固定した画面構成はうまい)だけである。
難病映画にありがちなお涙ちょうだいシーンはない。悲恋物語のように泣かせるところもない。でも、涙がにじんでくるのはなぜなんだろう? さりげないユーモアは、大笑いではなくってジンとくる幸せな笑いだ。誰も悪人はいない。みんな、こんなにいい人でいいんだろうか?
しかし、しかし、実に丹念にさりげなくしかも計算し尽くして描かれたディテールは圧倒的なリアリティを持っている。誤解を恐れずに言えば、小津安次郎に近い感性か(ローアングルを使っているという意味ではない)。
なお、本筋の恋愛もあまりに淡くて大人の恋というよりは少年少女の恋なのだが、よくできている。「兵士のおなら」にしろ、遊園地にしろ、彼女のファッションにしろ。
素晴らしい。少なくとも東アジア文化圏ならきっとわかってもらえるストーリーと描写である。叫び、争い、モノを壊し、ひたすらコトバで説明しつくそうとする態度とは正反対に、ささやくように、ゆったりと笑いかけてくる。主人公がいつも会うと笑うのも、哀しげでよい。質問を質問ではぐらかして結局答えないのも、よい。わかる人には、わかる。
「人生は思い出作りだ」と昔言っていた人がいて「この人はなんもわかってないな」と思ったが反論できなかった。今なら、この映画を観よ! で済む。思い出なんてのは、生活の屍骸でしかないのである。
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