ニューヨーク三部作の第1作。当初は「変わったミステリー」に分類されたといういわくつき。
こういう名作については、すでに偉い人がたくさんコメントされているので、とくに言うことはない。ただ、読んだ人がものすごく評論を書きたくなる作品ではある。謎めいた物語ではあるが、本質は実にわかりやすく、その意味ではアメリカ文学の本流を受け継いでいると言っていい。ただし、小ぶりにして洒落ているという意味ではヨーロッパの香りが漂う。そして、紛れもなくアンチ・ロマンやミニマリズムの洗礼をくぐり抜けてきている。
ミステリーファンの立場からの意見としては、立派に探偵小説として読める。探偵がつねに探偵であると無条件に前提されていた時代は『アクロイド殺人事件』以来、過去になってしまったことを考えれば、このラストは許容範囲内での「意外な解決」に該当するし、事件以前の予兆しかなくても、主人公が何かを求めて自分の存在を賭けるところはハードボイルドの精神性を感じさせる。ニューヨークの碁盤の目を歩き回って暗号(と言っていいのか少し疑問)を解読するあたりは、なかなかのアイディアである。
頻出する分身、意味ありげな名前、書くことへのこだわり、古今の文献からの引用、自己と他者の関係性など、学部生の卒業論文程度ならいくらでもテーマが見つかるし、これにミルトンとかセルバンテスとか聖書とかを絡め、他のアメリカ文学(エドガー・アラン・ポーやホーソーン)と比較して論じればかなりのものがでっちあげられる。というより、ここでそういったもろもろについて書きたくなる誘惑が襲ってくる。
しかしながら、一度読んだだけでも面白いが、おそらくまだ表面的な読みでしかないだろうことを予感させる底の深さが、奥に潜んでいる。これは、世間に向かってはわかりやすい仮面をかぶりつつ、自分の内面で見えない血を流している男の聞こえない叫びのような気がする。あくまでも感じだけどね。
蛇足ながら、残り2作の翻訳者の柴田元幸氏は本書を『ガラスの街』と表記している。語感から言ってもそうだが、だいたいカタカナで「グラス」と書けば、普通、日本ではコップの意味にとるだろうし、英語で考えても「メガネ」なんて可能性だってあり、もしも「草(grass)」なんかに誤解されたら目も当てられない。あくまでも、ガラスが象徴する透明感を大事にしたいものだ。ただし、本文の翻訳は見事なもので、邦題のセンスのなさは出版社サイドの問題ではないかと推測する。あとがきで、そのころトレヴェニアンの『夢果つる街』など、『〜街』という題名がはやっていたから避けたと言い訳してるのではあるが。
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