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1998年10月
『三人目の子にはご用心! 男は睾丸、女は産み分け
竹内久美子、文藝春秋

この人が『浮気人類進化論』(晶文社)でデビューしたときには驚愕・狂喜したものだ。それは、十分にアタマもココロも柔らかい人間が酒でも飲みながら学識と人間観察を駆使して、ムチャクチャに面白くってしかも論理的に説得力のある、思いつきの仮説を開陳しまくるセンセイ方(たとえば、小松左京、米山俊直、梅棹忠夫、多田道太郎、石毛直道そして日高敏隆ら)の宴から抜け出てきたような突拍子のなさだった。

以来、ずーっと新刊を買い続けているのではあるが、どうやら動物行動学という分野はますます面白くなってきているらしい。「おしどりは浮気しているのか?」という疑問への答えも出してくれるし、「船員の妻はどうやって妊娠するのか?」も解決する。このおかげで浮気疑惑を払拭した単身赴任家庭もあるのではないだろうか?

しかしながら、最近の刊行間隔から言って、いろいろな話題をとりとめもなく紡いでいる印象を拭えない。出版社サイドからのプレッシャーがきついのかもしれないが、どうも出来に差が出来てしまっているようだ。そのなかでも本書はなかなか読みごたえがある。

なお、感動のあまりに「浮気の方が子どもが出来やすいんだよ!」と結論だけを吹聴すると、あなたは誤解を招きます。もしも論理的に証拠を挙げて説明しようとすると、必ず途中で突っ込まれて立ち往生します。とくに女性を相手にこの話題を取り上げるのは危険です。身をもって実感した私からのささやかなアドバイスです。

『アップル 世界を変えた天才たちの20年
ジム・カールトン、山崎理仁=訳、早川書房

ビジネス書とも、ボードルームスリラー(役員室のドラマ)とも、マッキントッシュ衰亡史(盛衰史ではない)とも言えるが、どれも少しずつ違う。もっとも当てはまるのは原題の直訳であろう。"Apple : The Inside Story of Intrigue, Egomania, and Business Blunders "『アップル:陰謀、傲慢、経営的失策の内幕』、つまり、パーソナルコンピューターという夢を現実にした素晴らしい製品と、大成功したブランドと、才能も意欲もある研究開発陣と、さらに資金もありながら無惨に失敗を重ねた企業の歴史だ。

マック信者は、読みながら「ああ、そんなことするなよ!」と、ゴール前のビッグチャンスで空振りどころか敵にパスしたフォワードを責めるように地団駄を踏むことだろう。邦題のサブタイトルの「天才」という言葉が皮肉にしか思えないぐらい、傲慢、判断ミス、無駄、迷走、保身、謀略が渦巻いている。

1984年以来、アップルのなかで何が起きていたのかを知る意味では、いい史料であり、教訓を見いだす経営者は多いだろう。しかしまた、ここでは偉大なる"Macintosh"の魅力の秘密は何ら解き明かされていない。単なるGUIの先進的なOSという枠を飛び越えて、マックは福音を告げる使者でもあった。その熱狂の源を感じない著者にとっては、爆発的に成長している分野での失敗企業の事例でしかなく、まさにウォールストリート・ジャーナルの記者らしい視点とまとめ方ではある。

それにしても、アップルの役員・幹部として入れ替わり登場する人物の数の多いことよ。しかも、エンジニアからIBM、マイクロソフト、サンなども含めて綿密なインタビューにもとづいているため、膨大な取材を煩雑にならずにまとめた手腕は認めるものの、城山三郎や高杉良のように読みやすいわけではない。だが、読み始めたら止まらない不思議なドライブ力がある。これでもしアップルが消え去っていたら、不可避の運命に無益に抵抗する勇者たちへの挽歌として感動の涙を誘ったかもしれない。しかし、現実では、アップルは愚者の営みの末に、再起を賭けて反撃を開始した。天才たちとは、「世界を変える」可能性を信じ続けたクレイジーな人々とは、有名なエンジニアたちではなくて、凋落しつづけるアップルに個人的利害を超越して踏みとどまった一般社員たちのことかもしれない。

MacOSは、限定した市場で生き残るのか、新しいCPUあるいはインテルとのコンビで起死回生の逆転を成し遂げるのか? 挫折を知った者の知恵の結実に期待したいのだが・・・

『ローマ人の物語7 悪名高き皇帝たち』
塩野七生、新潮社

毎年1巻ずつ、2006年に完結という「それまで生きてるだろうか?」って感じの壮大なシリーズであるが、今のところ順調に刊行されているのはめでたいことである。版元はギボンの『ローマ帝国衰亡史』よりも描いている時代が長いと自慢しているが、そりゃあ相手は『衰亡史』であって『盛衰史』じゃあないんだから。

というわけで、退屈だったが勉強になった最初の3巻(政治史・経済史・法制史としての価値は認めるが)、カエサル、アウグストゥスら英雄きらめくつづく3巻の次は有名な皇帝たちの出番である。ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロと悪い評判ばっかりなのだが、結論から言えば「そんなに悪くも愚かでもなかった」ということなのだ。しかし、欠点はもちろんあるわけで、この作者らしく、最近のローマ史研究の成果を踏まえつつ、個々にそのパーソナリティを描き出していくところは熟練の筆、と言いたいところだが、この文体は時に粘着質で(主語が自在に変わるし)読みにくい。軍制や属州統治の仕組み、市民権などについて、最初の3巻を読んでおかないとポイントが頭に入りづらいかもしれない。

それにもかかわらず、大きなパースペクティブで人物が躍動し、社会・文化・政治・軍事の下部構造・上部構造も把握した上でダイナミックに展開する歴史は読みごたえがある。カプリ島に隠遁したティベリウス帝の憂愁、カリグラを刺した大隊長の煩悶、皇帝の妹・妻・母でありながらネロに殺された小アグリッピーナなど、いずれも長篇小説の題材にある素材でもあるだけに、むしろいかに簡潔に書くかが課題であったはずだ。ドラマに走りたくなるところを、史料の吟味やタキトゥス批判に心をくばるあたりが、いかにもライフワークにしようという意気込みのあらわれとみたが。

とにかくカエサルが大好きだという嗜好、女心がわからない歴史家なんてという自負、古今の文献史料を精査した蓄積という味付けがほどこされたローマ史の異色の決定版。

『シティ・オヴ・グラス』
ポール・オースター、山本楡美子・郷原宏=訳、角川文庫

ニューヨーク三部作の第1作。当初は「変わったミステリー」に分類されたといういわくつき。

こういう名作については、すでに偉い人がたくさんコメントされているので、とくに言うことはない。ただ、読んだ人がものすごく評論を書きたくなる作品ではある。謎めいた物語ではあるが、本質は実にわかりやすく、その意味ではアメリカ文学の本流を受け継いでいると言っていい。ただし、小ぶりにして洒落ているという意味ではヨーロッパの香りが漂う。そして、紛れもなくアンチ・ロマンやミニマリズムの洗礼をくぐり抜けてきている。

ミステリーファンの立場からの意見としては、立派に探偵小説として読める。探偵がつねに探偵であると無条件に前提されていた時代は『アクロイド殺人事件』以来、過去になってしまったことを考えれば、このラストは許容範囲内での「意外な解決」に該当するし、事件以前の予兆しかなくても、主人公が何かを求めて自分の存在を賭けるところはハードボイルドの精神性を感じさせる。ニューヨークの碁盤の目を歩き回って暗号(と言っていいのか少し疑問)を解読するあたりは、なかなかのアイディアである。

頻出する分身、意味ありげな名前、書くことへのこだわり、古今の文献からの引用、自己と他者の関係性など、学部生の卒業論文程度ならいくらでもテーマが見つかるし、これにミルトンとかセルバンテスとか聖書とかを絡め、他のアメリカ文学(エドガー・アラン・ポーやホーソーン)と比較して論じればかなりのものがでっちあげられる。というより、ここでそういったもろもろについて書きたくなる誘惑が襲ってくる。

しかしながら、一度読んだだけでも面白いが、おそらくまだ表面的な読みでしかないだろうことを予感させる底の深さが、奥に潜んでいる。これは、世間に向かってはわかりやすい仮面をかぶりつつ、自分の内面で見えない血を流している男の聞こえない叫びのような気がする。あくまでも感じだけどね。

蛇足ながら、残り2作の翻訳者の柴田元幸氏は本書を『ガラスの街』と表記している。語感から言ってもそうだが、だいたいカタカナで「グラス」と書けば、普通、日本ではコップの意味にとるだろうし、英語で考えても「メガネ」なんて可能性だってあり、もしも「草(grass)」なんかに誤解されたら目も当てられない。あくまでも、ガラスが象徴する透明感を大事にしたいものだ。ただし、本文の翻訳は見事なもので、邦題のセンスのなさは出版社サイドの問題ではないかと推測する。あとがきで、そのころトレヴェニアンの『夢果つる街』など、『〜街』という題名がはやっていたから避けたと言い訳してるのではあるが。


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