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1998年11月
『陋巷に在り 9 眩の巻』
酒見賢一、新潮社

ようやく、子蓉との戦いに決着がいったんつき、[女予](よ)も物語に復帰できそうである。そして孔子は三都毀壊の計の成就に向けてどうも不穏な企みを図っている。対して、忠義の士公斂陽處父(こうれんよう・しょほ)は、成城を守るために必死で対抗する。冥界から帰還した顔回は、不思議な力を身にまとう。そして、顔氏一族の命運は・・・

と、久々に運命の歯車が回りだし、キャラクターも生き生きとしてよかった、よかった。前の話を忘れそうになっていたものな。「始皇帝暗殺」も観たことだし、『十八史略』と『史記』を読み返してみようか、などという気になっている。何が気になるって、義士が自死するときに、「みずから首を掻き切って」と壮絶な最期を遂げるのだけれど、原文ではどうなっているのだろう? という実につまらない好奇心なのだが。

『素人庖丁記・ごはんの力』
嵐山光三郎、講談社文庫

『素人庖丁記』『素人庖丁記・カツ丼の道篇』『素人庖丁記・海賊の宴会』につづく完結編。これですべて文庫に勢揃いである。これだけ豪快に食べるという行為をぶったぎってくれると、もう痛快。健康とか食材の蘊蓄とか料理法の機微とか(という要素もあるけれど)には関係なく、「尺八の煮物」(これは『素人庖丁記』所収)にはぶっ飛ばされた。今回も「烏賊のヒコーキ」「蛸の凧」、「ゴボウの帽子」と期待を裏切らない。

料理関係の本はあまり紹介するつもりがなかったのだけれど、こういう常識とか権威とかブランドにガツン! といくヤツは別格として。

『鍵のかかった部屋』
ポール・オースター、柴田元幸=訳、白水社

ニューヨーク3部作の最後。それにしても同じような感想を並べるのも業腹ではあるが、ちゃんと探偵が出てくることでもあり、まとめをいたしましょう。

要するに同じテーマをめぐる変奏が展開しながらコーダに至るというわけですね。書くという行為、自己と他者、自己が自己である同一性、などなど。

今度はニューヨークを飛び出してパリまで行ったり、抽象度の高かった前作とはうって変わってストーリーはいろいろ動きます。というか、『幽霊たち』が極端に動かない小説だったわけだが。そのぶん、読みやすくもあり、象徴性が薄くなっているが、本質的には同じ奈落へ向かって最後のひと突きですな。

しかしながら、「失踪人捜索」という謎を追うミステリーとしては反則。というより、探すことそのものが主題と密接に結びついているので、ミステリーとして読み直すなんて作業は無効になってしまっている。「探す」とか「捜査」とか「知る」とか「殺す」といった動詞が同じベクトルで、自己と他者との関わりのひとつの指標になっているのかもしれない。逆に、エンタテインメントとしてのミステリーを、オースターの問題意識から照射するってのも面白いかも。

それにしてもあいかわらず理屈っぽいことしか考えないのだなあ、私は。

『幽霊たち』
ポール・オースター、柴田元幸=訳、新潮文庫

ニューヨーク三部作の2作目。こんなに薄いのに時間がかかったのは帰りの電車でしか読まなかったからだ。薄いのを補おうとしてか、訳者のあとがき+オースターについての詳しい紹介に加えて伊井直行と三浦雅士の解説までついている。

まあ、これだけ作品について語ってもらえたらもはや付け加えることはない。しかしながら、今回の読みの目的は「ミステリーとしての再評価」という、誰ももうそんなこと考えてないだろうが、というおバカな試みなのでやってみよう。

主人公の探偵ブルーはホワイトに依頼されてブラックを見張る。これだけである。謎も事件もない。だから退屈で死にそうになったブルーは直接行動に出る。ここにあるミステリー(謎)とは、書くこととは、考えるとは、自分とは、存在とは、といった普遍的問いと言っていいのかもしれないが、ミステリー文学としての「思考する快楽」には欠ける。だが、読んでいて気持ちのいい頭へのマッサージと心への揺さぶりがある。小さなエピソードからこぼれ落ちてくる「物語」=ドラマ性と、次第に穴の底に螺旋状に落ち込んでいくような自分自身の転落と再生が、上質の舞台劇のように進んでいく。

オースターが「探偵」という役を中心にすえたこと自体が象徴的である。まるで炭鉱のカナリアのように、探偵は存在の危機を歌って去っていったのかもしれない。しかしまあ、無理に探偵小説にこだわる必要はまったくないのである。


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