Bon Voyage! HOME > BOOK REVIEW > April, 1998

1998年4月
『パラダイスの針』(上・下)
ジョナサン・ケラーマン、北澤和彦=訳、新潮文庫

もう10作目になりました(9作目は知る限り未訳です)。今回はLAを離れ、不幸な子どももいない。何しろアレックスは家を焼かれたからねえ。ハワイ、グアム、サイパンを経由してやってきた南海の島。アレックスとロビンは、モアランド医師の依頼を引き受けてヴァケーションを兼ねてやって来たのだが。

あんまり異常な事件が起きそうには思えない、さびれつつある島なのに、異常な病理がやっぱり出てくる。なかでも最初に出る症例の「猫女」はけっこうすごい。ビキニ水爆実験や、モアランド医師の不可解な行動、怪しいゲストたち。そして殺した女の骨髄を吸う殺人者。

さらに驚くべき真相も用意されています。次々に起きる事件、深まる謎。ページをめくるのがもどかしいぐらいの面白さなのだが、古典的な謎解きとしては推理の材料が不十分だし、ハードボイルドとしては勇気とか誇りとかはあまりない。残されたメモから秘密の部屋にたどりつく過程は過去の名作の水準には遠く及ばない。

というわけで、ひとつ間違えればただのジェットコースターになりかねないところを救っているのが、老医師モアランドの矛盾した性格と彼が抱えている秘密。最後の最後まで、引っ張ります。趣味が捕食動物(つまり、蜘蛛とか)というあたり、マッドサイエンティストぽくっていかにも。

アレックス・デラウェア・シリーズの珍品です。

『緋色の記憶』
トマス・H.クック、鴻巣友季子=訳、文春文庫

1997年度MWA最優秀長編賞。だからといって、映画のアカデミー賞と同じで信頼はできない(何度裏切られたことか)。しかし、あのクックがついに栄冠をとったという意味ではめでたい。

あの独特の、人間の心の奥のどろどろした暗闇を見抜いて行こうとするアプローチの、ひとつの到達点かもしれない。誰も悪人はいない。しかし、悲劇へと向かうどうしようもない流れは誰にも止められない。シンプルなストーリーながら、少しずつ読者をじらして事件の全体像を見せていくプロセスは巧みです。とくにラストへとたたみかけていくつるべ落とし。これが真相だったのか、と納得しかけてしまうところを次々と裏切っていくのはうまい。

1920年代、アメリカの保守的な東部の風情もよく出ています(もちろん、行ったことないが)。登場人物の陰影も鮮やかで、とくに語り手である老弁護士(事件当時は生徒で、校長の息子)が抱える自由への焦燥感には共感を覚えます。ミステリーとかハードボイルドとかいうジャンル分けをこえて、一種の暗いカタルシスを味わえる小説です。

以前からうまい文体だったけど、雰囲気を盛り上げようと過剰気味だった描写が、だんだんこなれてきて、読みやすくなった気がする。というか、ものすごくわかりやすくて、拍子抜けした。いや、いいんですけど。あの南部の立ちのぼる熱気と、重い情念が懐かしい、というのはわがままか。

今年読んだなかでは、もっとも完成度の高い作品です。

翻訳について少し。原題は"The Chatham School Affair"。『チャタム校事件』ですね。邦題『緋色の記憶』には訳者の思い入れがたっぷり入っているようで、それはそれで構わないし、特別センスが悪いとは思わないけれど、訳者があとがきで書いているほど、この作品でとくに緋色が象徴的に配されているようにはあまり感じられなかった。ケープ・コッドの小さな街、その全体にモノトーンな風景のなかで、緋色が印象的に映えるのはわかるけれど。姦通とか、死とか、ホーソーンの『緋文字』とか持ち出さなくてもいいんじゃない? なんだか、英文学の卒論みたいだ。それに、常識的にあまり使わない日本語を無理に使うのもどうかと思う。「金曜の午後も闌(た)け」なんて、言うか? いくら1920年代とはいっても、「金曜の午後も更け」でいいんじゃない? 全体に訳文がよくこなれ、雰囲気も出ているだけに、ちょっと肩に力が入りすぎているようなのが気になった。

『探偵家族』
マイクル・Z.リューイン、田口俊樹=訳、ハヤカワ・ミステリ

97年10月の邦訳なんですが、基準緩和ということで。

舞台はイギリスのバース。イタリア系のファミリービジネス(原題は"Family Business")と言えば、誰でも考えるマフィアではなくて、なんと探偵事務所。しかし、かつて扱ったことのある殺人事件はただ1件。今回の依頼は、「(夫が温かい飲み物を作ったのに)洗剤が、私の置いた場所から動いていないのはなぜ?」という夫人から(ちなみに表4のプロット紹介では逆に説明している。気持ちはわかるが、よく読んでほしい)。さあ、おじいちゃん、おばあちゃん、その子の兄弟姉妹、孫と3世代のルンギ一家がてんやわんや。

これが「コージー」でなくてなんだろう? これが実験を繰り返してきたリューインの着地点か? 罵倒するようで気が咎めるが、訳者によるあとがきは完全に的外れ。家族それぞれの個性と、別々のエピソードが次第に交錯していくところは楽しいけれど、かなりこじつけだし、緊迫感に欠ける。まるで、できの悪いTVシリーズの台本。今までのリューインとはまったく別ものと考えたい。

これはこれで面白く読めるけれど、なんか才能の無駄遣いという気がする。

『負け犬』
マイクル・Z.リューイン、石田善彦=訳、ハヤカワ・ミステリ (原著は1993、邦訳は1995刊行)

う〜ん、こんなのが出てたっけ? 記憶ないぞ。リューインの新作は必ず買うはずなのに。てなわけで、3年前の本ですが、今頃読みました。ここに載せるのは、最初は「3か月以内の新刊」という枠をはめてたけど、まあ柔軟に考えようと方針転換。

さて、リューインといえば、私立探偵アルバート・サムスンかリーロイ・パウダー警部補か。インディアナポリスを舞台に、この2人が表になり、影になり、ストーリーを紡いできたわけですが、前々作『そして赤ん坊が落ちる』では、なんとケースワーカー、アデル・バフィントンが主人公になるという展開を見せてあっと言わせた。前作『豹の呼ぶ声』では、リューインの変質が騒がれ、そしてこの『負け犬』。この流れから行くと、本当にリューインは変わったみたいです。

しかし、なんか妙に埃っぽくてリアルで独特の風合いは、それでも変わらない(ような気がする)。今回の主人公は、初登場の自称自営業(ビジネスが口癖)のホームレス。無学だが独自の論理と倫理を持つ彼から見た世界は、少し歪んでいて、そこはかとないユーモアとちりばめられた笑えないジョークが、ホンキートンク・ピアノみたいなリズム。だんだん、フリートウッド部長刑事やパウダーが出てきて、おなじみのメンバーが揃ったと思いきや、事態は意外な展開をする。

はっきり言えば、実験作というより失敗作なのだろうが、私にはけっこう印象的。地べたからの視線というか、社会の枠組みからはずれて生きる誇り(少なくとも卑屈とはまったく正反対)に好感がもてる。しかし、ストーリーに力がなくて、ラストのカタルシスが肩すかしに終わっているのが残念。ナンセンス・コメディというよりは、視点をずらしてみたハードボイルドと言えないこともない。

赤瀬川原平の名画探険 フェルメールの眼』
ヨハネス・フェルメール、赤瀬川原平、講談社

フェルメールの全作品(とされる)36枚すべてのカラー図版と、そのかなりのものについて部分拡大図版を掲載。これだけでも、買う価値あり。似たようなテーマごとにグルーピングされているのでわかりやすいとも言えるが、年代順に並べた方がいいという人もいるだろう。私は、このくらいの図版点数だったら、年代順に並べた上で、人物が1人のもの、2人のもの、手紙のもの、図像象徴のもの、などについて小さい図版で比較できるようにしてくれたら嬉しいのにと思ったくち。

もっとも、これは「赤瀬川原平」が案内する初めての人のためのフェルメールの世界なのであって、より深くフェルメールの森へと分け入ろうという人は、専門書を見てくれ、ということなのだろう。原平さんは『東京ミキサー計画』(今はちくま文庫に入っているはず。最初はたしかPARCO出版局刊)以来、大好きなのだが、このフェルメール探険はあんまり好きになれなかった。カメラのようなピントの当て方にしろ、精密なのに部分的に筆触が荒いなどというのは、すでに指摘されている点で、とくに面白いわけではない。筆触の天才的ラフさならベラスケスという達人もいる。

ともあれ、難解で抽象的な文言を弄して煙に巻く御仁よりは、よっぽどいい。個々の絵の良し悪しもはっきり書いていて、従来の解説書の枠を越そうとしているのは見てとれるのだけれど、この文章量ではいかんともしがたい。

なお、CD-ROMで新潮社から『フェルメール』が出ています。MacもWindowsもOKのハイブリッド版、画像、テキスト、音声のハイパーリンク(Expand Book)でお薦めです。ただし、索引機能に難あり。私はずっと前にあせってフランス語版を買ってしまったので、せっかくの解説が(テキストなら読めるかもしれないが、ナレーションでは!)わからないのです。くしゅん。

『楽園の骨』
アーロン・エルキンズ、青木久惠=訳、ミステリアス・プレス文庫(ハヤカワ文庫)

エルキンズには「スケルトン探偵」ギデオン・オリヴァー教授のシリーズと、美術館学芸員(これ、キュレーターって訳した方がいいと思うけど)クリス・ノーグレンのシリーズがあり、どちらもミステリアス・プレス文庫から出ています。両方とも主人公の個性がはっきりしていて、ユーモアがあり、異国情緒を味わえて、なかなか楽しく、どれも水準を行っています。悪口を言えば、古い枠のミステリーにいろいろ読者サービスの味付けを施した焼き直し、とも言えないことはない。つまり、安心して読める。探偵はなぜか必ず難事件に遭遇し、そしてその推理力と行動力で、最後には必ず事件を解決する、というわけです。

しかし、昨今、長くて暗いサイコサスペンスが流行するなかで、このさわやかさは貴重です。この作品はスケルトン探偵シリーズの最新刊です。今回はタヒチへの旅。コーヒー農園についての蘊蓄。そうそう、なんでスケルトン探偵かというと、彼は骨からその人の人種、年齢、性別、職業などを当てちゃう形質人類学者なんです。今回は腓骨から、「ヒラメ筋」が発達する職業は何か? を推定する。

実は、私はけっこう好きですけどね。登場人物は気のいいアメリカ人そのもので、プロットはシンプルながら伏線も意外性もそこそこ充実し、何よりいつものメンバーが繰り広げるドタバタは、全盛期のアメリカン・TVドラマみたい。日曜のブランチのあと、テラスで読書なんてシチュエーションに軽くいかが?(と言いながらわが家にテラスはない。ブランチのあとは馬券を買うシーズンだし)。

『報復』(上・下)
ブライアン・フリーマントル、戸田裕之=訳、新潮文庫

久しぶりのチャーリー・マフィン。英国情報部の窓際スーパーマンは、今回はいやいやながら「生存(サヴァイヴァル)術」を新人に教えることになる。新しい部長と次長は例によってチャーリーを煙たがる。そのとき、中国では情報提供者である聖職者に危機が迫っていた。一方、ナターリヤはロシアでのKGB再編の荒波をかいくぐって昇進を果たしていたが、それを不満に思う守旧派は反撃の機会をうかがっていた。

長さを感じさせない緊密な構成、チャーリーらしい生き延びるための細やかなテクニック、砂塵と匂いが漂ってきそうな北京の描写。あっというほどのドンデン返しではないけれど、行き届いた伏線には知的興奮を誘うものがある。

読んでておかしいぞ、って思うところにはあとでちゃんとフォローがある。いまどき、花が合図だったりというのは時代遅れではないのか? なぜ逮捕のタイミングがわずかに早かったのか? 優秀とはいえなぜ新人をいきなり北京の現場に送り出したのか?

冷戦後のスパイの活躍の舞台を中国に求めたのは、きっと天安門事件の印象が強烈だったんでしょう。原著は1993年刊です。もう一方の舞台のロシアでは、ナターリヤが会心のワナをしかけます。この全然別々に進むストーリーはチャーリーの手でつなぎ合わされ、「報復」が成し遂げられます。

なんか熟練の時計技術者みたいな、いかにもプロが作ったという感じの作品です。しかし、新味はあまりない。最初の『消されかけた男』の衝撃が凄すぎたのだろうか。

それにしても、翻訳のペースが遅い。しかも、シリーズでは前作に当たる1989年に原書刊行の"Comrade Charlie"は未訳。そのためにエピソードがわからなくなっているというのは、なんか事情があるにせよ、不満。

『絶対音感』
最相葉月、小学館

羨ましいなあ、 あればいいなあって単純に思っていました。なんか神秘的な感じもするし。しかし、実際は必ずしもいいことだけではないらしい。そして、当然かもしれないが、 絶対音感は芸術家へのパスポートではない、ということも明らかになる。絶対音感とは、ある音程を認識して音名をラベリングできる能力であり、よい音楽を創造する能力ではない。ただ、あった方がいいらしい。

この本は生半可なルポではありません。まだまだ奥がある。 メルロ・ポンティ、アウグスチヌスまで引用して音楽の謎に迫る。そう、 なぜ、音符の列が感動を、エモーションを引き起こし、 心に響くのか?

科学者のアプローチ、教育者の努力、そして音楽家はどう考えているのか、膨大な取材とインタビューがテキストを支えています。ただし、よく整理はされているけれども、狙ったであろうドラマティックな構成には残念ながら到達していない。しかし、かなり高いレベルであることは確かです。もっと「捨てる」ことが上手になれば、この作家はもっと伸びるでしょう。

私は個人的に移調の問題について解決がついて気持ちよかった。つまり、歌いやすい、弾きやすい調にしたらなんか問題があるのか? 特定の調には特定のカラーがあるのか? 相対的な音の配列が変わらなければいいのではないか? ということです。よく「ベートーヴェンのハ短調には独特の・・・」とか言うけれど、調性に個性なんてあるの? と疑問に思っていたわけですが、結論から言えば、絶対音感の持ち主にとっては調性は重要で、それぞれに色彩感やイメージが(たとえばハ長調は白とか)あるのだそうです。そうか。じゃあ、安易に移調したらいけないんだ。カラオケでキーをいじるってのは作曲者に申し訳ないんだ。(なお、このあとにモンテゾンの調性格論を知りました。調性ピッチの問題ではなくて各調に固有の音階なんですね。こういいながらやっぱりよわかっていない。1998/11/07記)

さて、本題に戻ると、「演奏できる」から「人を感動させる」までの深くて暗い溝、音楽は心だ、という当たり前の結論の重みを言葉ではなく、実感として腑に落ちるまでの過程が印象深い。誰もが「テクニックだけではダメ、表現力がなければ」と言うわけですが、実際に音に気持ちを乗せる人たちのすさまじい、全人間的な努力を見せられると感動を覚えます。 五島みどりの例は圧巻です。そこにあるのは、音楽を介在して、人間の自立へと戦う母子の姿です。

早期教育は非人間的か? という批判もあるでしょう。そのへんについては判断停止しています。実際に音感と演奏テクニックを身につけるためには早い時期の練習が必要で、しかも音楽家になるためには、さらに高い壁「人を感動させるための人間力」を身につけなければならない。そうした現状を考えると、一概に排斥できないでしょう。ただ、絶対音感を流行ブランドのように祭り上げてレッスンに子どもを送り込むのには違和感を感じます。

あ、もちろん絶対音感を教えてきた歴史はキチンと押さえています。書名からはそれだけを書いた本のように思われがちかもしれないけれど、決して本質を見逃さない、いい本です。


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