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もくじ第3部(13〜16;完結)

〔第3部の内容〕13.飛ぶ矢は飛ばず─ゼノンのパラドックス 14.距離の無限分割は認められるか─実在のかくされた性質をめぐって 15.時間の無限分割は可能か─時間は空間の性質に依存する 16.[補説]新しい定量化の試みを─「変化」推移の定量化

第1部(1〜6) へ ジャンプ

〔第1部の内容〕1.「ゾウの時間 ネズミの時間」 2。空飛ぶ眠り姫の居城  3。計測される時間  4.先人たちの時間観(1)─アリストテレスの時間観  5.先人たちの時間観(2)─ニュートンとライプニッツ  6.先人たちの時間観(3)─カントのコペルニクス的転回

第2部(7〜12) へ ジャンプ

〔第2部の内容〕7.相対性理論の時間観─アインシュタインの場合をめぐって  8.科学的な自然観への異議申し立て─ベルクソンの世界把握  9.混沌をめぐって(1)─荘子の「混沌」について 10.混沌をめぐって─科学における混沌(カオス) 11.回帰する時間─ニーチェの「永劫回帰」 12.時すでにこれ有なり─道元の「時間」について 

第3部

          時は,ようやくその姿を現わしてきたようである。瞬時にして過
         ぎ行く“時”だからこそ,先人たちはその正体を正視しようと努力
         を重ねてきたのだろうと思われる。
          “動く”そこにこそ“時”の生命がある。この“時”を(形容矛
         盾を承知の上で)“静止”の相において眺めて見るとどうなるか。
         謎解きのカギは意外なところに潜んでいたようである。昔から多く
         の哲学者を悩ませてきたという“飛ぶ矢は飛ばず”のゼノンのパラ
         ドックスは,実は足早に去り行く“時”を“静止の相”において眺
         めたものであった。そこで,まずそこらあたりから,謎解きにとり
         かかってみよう。

  ※※

13.飛ぶ矢は飛ばず

─ゼノンのパラドックス─

 運動あるいは時間に関して,よく引き合いに出されるのが“ゼノンのパラドックス”である。そこに提起された問題(逆説・パラドックス)が,看過するには無視しえない本質的な事由をはらみ,謎解きに挑戦するかっこうの問題でありながら,解こうとして,すこぶる難解ということにあったと思われる。ある種の解法が提示されるが,屋上屋を重ねるかのように,さらに新たな挑戦がなされて解法が示される‥‥というのは,解法と称するものの多くが,必ずしも明快でないことに起因するのであろう。
 ゼノンは紀元前5世紀に活躍した古代ギリシアの哲学者(前490?〜430?前)という。〔その“一にして不変な存在”を弁護しようとして“多と運動を否定する”ために彼が提出したというこの逆説は,アリストテレスの『自然学』に再説されて,広く世に知られるようになったという。以下に述べる逆説a〜dは,中村秀吉『時間のパラドックス』からの再引用。〕
 運動に関するゼノンのパラドックスは,以下の4つである。
 (a) 分割のパラドックス“運動は存在しない”
 (b) アキレスと亀のパラドックス“アキレスは亀を追い越せない”
 (c) 飛矢のパラドックス“飛んでいる矢は止まっている”
 (d) 競争場のパラドックス
 この4つのパラドックスの中で,多くの人が一度は耳にしたことがあり,思考訓練にもふさわしいと思われる (b)と(c) のテーマに言及したい(「 」は中村著よりの引用)。
 まず (c)飛矢のパラドックス‥‥「飛んでいる矢は止まっている。なんとなれば,飛んでいる矢も各瞬間には一定の位置を占めている。一定の位置を占めているものはその瞬間,止まっている。ところが,矢の始点から終点までの時間はその間の瞬間から合成される。したがって飛んでいる矢は止まっている。」
 A点から放たれた矢は,B点に付き刺さった(達した)のを人々は目のあたりにし,“矢が飛んだ”のを現実と認めるであろう。
 1)まず,Aから放たれてBに向かって飛んでいる矢は,各瞬間に一定の位置を占めている――これは疑問の余地がない。ついで「一定の位置を占めているものは,その瞬間止まっている。」しかし,すぐに理解されるように,矢が一定の位置に「ある」からといって「静止している」ことにはならない。こう言うべきだろう。矢は「ある位置にありつつ,動いている。」
 ここで,ゼノンの「飛んでいる矢は“ある瞬間に”“一定の”位置を占めるから,その瞬間には止まっていることになる」という表現を,今ふうに議論しなおせば,次のようになるだろう。
 〔AB間の距離は,無限分割されうると仮定しよう。当然に,無限分割された微小部分は幅をもたない,すなわち「点」に等しいとすれば,AB間は無限個の(すなわち無数の)点によって構成される。現実の幅をもつ矢上の部分の位置(微小部分,幅のない点)がAB間のある位置(任意の点)上に重なってあるとすると,その矢上の位置(幅のない点)が次つぎに動いて行ったとしても,AからBに達するためには,無限の位置を通過することになって,ついには矢上の任意の部分(そして矢全体)は,Aに達することができない(「無限の経過後にAに達する」ことは「Aに達しえない」ことと同義である)。こうして,幅のない点上から幅のない次の点上に移動して行く矢の任意の部分(そして矢全体)は,結局,静止していることと同義とみなされよう〕‥‥というふうに。
 この議論のおかしな点は,飛ぶ矢がAB間のある位置にあるとき,その瞬間の状態は,もともと動く前の状態の矢(すなわち静止状態の矢)と同じ性質をもったものと見なす‥‥という点にある。
 言うまでもなく,現代のわれわれは,「動く」矢は任意のある瞬間において,あるベクトル値,すなわち「方向」とある「大きさをもつ量」とを伴っている‥‥ということを知っている。飛ぶ矢がある瞬間に一定の位置を占めている(このことは,静止を意味しない;「占めている」ことは「静止」と同義ではない)とき,矢はベクトル(動きつつあるという値;「動勢」と「運動方向」)をもっている。飛ぶ矢は,飛んでいる間中は,“静止”とはまったく異なる“動いている”状態にある。
 別の表現で議論することもできよう。
 「飛ぶ矢」のテーマで‥‥,AB間を矢が移動する「時間の総体」は,移動する「各瞬間の総和」である‥‥とするとき,各「瞬間は幅をもたない」と仮定している。とすると「各瞬間(時間幅をもたない,すなわちゼロ値)の総和は,いつまでもゼロ値のまま」に留まる。
 矢がAB間を移動するための「時間の総体」(ある時間幅)の無限分割である「瞬間」をもとの「時間の総体」に合成してもどそうとすると,こんどは「ゼロ値をいくら集めてもゼロ値のまま」という奇妙キテレツなことになってしまい,これではテーマ自体が矛盾(すなわち誤り)を含んでいるニセ命題ということになり,‥‥そもそもテーマ(の表現)自体が成立しなくなってしまう。
 2)今度は (b)「アキレスが亀を追い越せない」では‥‥,歩みののろい「亀の後の位置から」足の速いアキレスが「出発する」と,アキレスが亀を追い越すには,まず亀の出発点に達しなければならない。そのときには亀はもっと先の地点にいる。すると,アキレスは次にその亀の地点ま達しなければならない。しかし,そのときには亀はされにその先の地点にいる。以下同様である。「こうしてアキレスが亀を追い越すためには」「一つ一つ無限の地点に触れなければならない。これは不可能である。したがって,アキレスは亀を追い越せない。」
 アキレスの速さが亀の歩みより2倍速いとする。到達目標地点をA,アキレスの出発点をBとし,アキレスが出発するとき,すでに亀はAB間の中点C に達していると仮定する。そうして,アキレスがAB間(その距離を x メートルとおく)の1/2(Aより1/2 x)の地点Cに達すると,亀はACの1/2地点(Aより x / 2×2の点)Dにいる。アキレスがDに達すると亀はその先のE点(Aより x /2×2×2の地点)にいる。そして順々に‥‥アキレスがAより x /(2のn 乗) に達すると亀はその先のAより x /(2のn +1乗) の地点に達している。こうして‥‥亀より足が2倍速いアキレスは,Aに到達するまえに限りなく亀に近づいてはいくが,亀に追い付くためには無限の点を通過しなくてはならず,ついに「アキレスは亀に追い付けない」(常に亀はAとアキレスの間の1/2点に達しているので,追い越すどころではない!)‥‥〔この議論は,アキレスの速さが亀の歩みの何倍の速さであっても,まったく同様に議論できる。〕
 すぐ見てとれるように,このテーマ(の文章)の成立を前提として,AB間の距離(線分)は無限分割されることが可能であり,無限分割された線分(微小線分)はゼロ(に限りなく近い)値としている。ゼロ(に限りなく近い)値を,幅のある線分にもどすためには,その微小線分を無限個加える必要がある。したがって,Bから出発して,AB間の無限分割された微小部分を次つぎに通過して,Aに達するためには,「無限個の微小部分を通過」する必要があり,それは「無限の時間」を必要とする‥‥云々。
 実は(a) も (c) と酷似した議論の立て方である。速いスピードで議論の筋道をたどると,いかにも論破は不可能かに見える。しかし,このテーマはよく見ると,アキレスがAより x /2 の地点に達するのに(途中を走っているという経過をまったく無視して)いきなり(Bより瞬時に!? ジャンプして)アキレスは“気がついたら”x /2 の地点に立っていた(静止して!)‥‥とする議論に等しい。結局,アキレスや亀の「速さ」などはまったく問題にならず,AB間の点の位置‥‥すなわち距離(線分)を無限分割された点の位置だけの問題に帰着する。
 解法としては,(c) の場合と同様に‥‥アキレスは「静止して」Aよりx /2 の点に立っているのではなく「走りつつ」,すなわちベクトル量で表現される値をもった「運動体」として,そこを通過している‥‥と解釈しなおすことによって,テーマ(b) がそのことをまったく考慮していないという「欠陥のあるテーマ(偽命題)である」ということに,帰結しよう。
 そして,それ以上に,この議論の行き着く先は‥‥AB間という(数学上の観念的なぎろんとはまったくちがった)「現実の距離は無限分割されうるか」,関連して「現実の(経過する)時間は,無限分割されうるか」という重大な問題をはらんでいることに気付く。

14.距離の無限分割は認められるか

─実在のかくされた性質をめぐって─

 ゼノンのパラドックスの解釈・解法をめぐって,実に多くの人々を悩ませ続けた理由の一つは,「動く」ものを「静止」の状態に還元して,議論を組み立てたことにある――「動き」を距離や時間と切り離して,長さ(線分)の分割の問題に置き換えたことにある――と思われる。
 そして,現代でも広く
 (A) 現実の距離(ある長さ)は無限分割されえる‥‥一つの線分は幅をもたない点の集合である;
 (B) 現実の時間は今(瞬間,幅のない時間値)の経過(未来→現在→過去)の姿である;
と信じられているところに,ゼノンの問題の解決困難(あるいは混乱)のナゾがひそんでいる‥‥と思われる。
 まず (A) の実在としての「現実の距離」の問題から,ナゾ解きにとりかかってみよう。
              *
 多くの人が信じているように,果たして「現実の距離は無限分割されえる」のだろうか。ひよっとしたら,現代の人々は(小学1年生で学習を始める「算数」そして中学生からの「初等数学」などの知識が身に染み込み過ぎているために)“現実”を“観念の中にある数学の世界”とまったく同一視してしまっているのではないか。だから,数学上の観念である「線分の長さ」(すなわち距離)と現実の空間の幅(距離)とを同一視してしまうのだろう。
 「線分」は無限に分割されえる(それは数学的思考の前提である!)。線分上の任意の点は幅をもたない(その数学的値はゼロ値)。
 このように数学での思考の対象となる距離〔空間の内部の2点間の幅;3次元の空間なら,その1次元(方向軸)上の2点間の距離〕は,その内部にいかなる実在も含まない。すなわち空虚である。しかし,現実にわれわれを取り巻く空間は「物質」によって満たされている。それが現実の「実在」というものだ。
 現実の実在は,さまざまな物質によって構成され,その物質を限りなく分割していくと,いわゆる「素粒子」の姿がほの見えてくる。観念的に想定される「真空」は,現実では限りなく「真空に近い状態」(真空ということばで示される状態)でありえても,「空虚・無」としての「真空」は存在しない。いわゆる「何もない」はずの“真空”の状態は(別の表現では)あるエネルギー値をもった状態に置き換えられる。とりもなおさず物質(あるいは原物質・前物質)の広がり(相)の中にある。
 いま「エネルギー値をもった状態」と表現したが,その極微の局所に注目して見よう。その極微の局所に「占める」ある状態は,かならず「広がり」をもち,ゼロ点ではありえない。極微の局所が「広がり」をもつからこそ,素粒子がある「空間の広がり」に存在し,それは大きさ(と状態の姿,すなわち性質)をもち,そのひとまとまりが,原子であり,分子であり,化合物としての物質であり,ひとまとまりずつの無生物体や生物体を構成し‥‥全体として,宇宙(この世の中)の総体を形作るに至る。
 観念的に(数学上で)想定されるある距離(線分)上の点は幅のないゼロ点でありえても,現実の世界(実世界)における微小の局者は,必ずある広がりをもっており,幅のないゼロ点というものは存在しない。
 引き絞った弓から放たれた矢が空中を飛ぶとき,アキレスや亀が走るとき,‥‥その経過はゼロ点の連鎖の中を進むのではなく,常にある「広がりをもった」状態の中を移動する。そのとき,空間の中の微小な局所と,それに隣り合う微小な局所とは「つながって」(連続して)いて,その間に空虚(無)は存在しない。矢が飛びアキレスが走るとき,矢やアキレスはある大きさをもった(広がりをもった)「最小部分」としての「微小な局所」から隣り合う「微小な局所」へと移り行く。
 そのときの移動は,どの「微小な局所」もある値(最小値)をもつので,ある値(最小値)から,隣に位置するある値(最小値)へと“連続的に飛躍して”おこなわれるはずである。このように考えると,ゼノンが実在のへだたり(距離)を(観念上の線分の分割と相等と見なして)無限分割されえるとして,「その一つ一つをたどっていっても,目的地には達しえない(目的地に達するには無限の時間を必要とするから)と仮定したことの根拠が失われることが,理解できるだろう。

※ 原子や分子の中の電子は,原子の中深部の原子核(陽子と中性子で構成)に引き付けられて,その周辺を運動している。水素の場合は,陽子1個の核のまわりを1個の電子が陽子をとりまくように回っている。水素より重い原子の場合は,原子核をかこんで,何個かの電子が幾重もの層(と表現される状態)になって分散している。その層は殻(電子殻)と呼ばれる。〔原子核に近い方の内側から順にK殻・L殻・M殻‥‥などと呼ばれ,K・L・M‥‥の各殻に入ることのできる電子の最大数は,それぞれ2・8・18‥‥などとなっている。〕そして原子の中の電子は,特別にきまった運動状態(K・L・M‥‥殻)にあるときだけ,一応安定にある(定常状態)。そして,この定常状態は不連続なとびとび分布のエネルギー(その一つ一つがエネルギー準位)をもつ。すなわち,電子が原子核のまわりを安定的に回る(分布する)しかたは,任意のどこにあってよいというのではなく,とびとびの(エネルギー準位の)値をとる状態に限定される。
 そしてこのことは,実在の微細な局部が,無限分割可能な状態にあることは不可能だ(実在の無限分割の不可能性)ということを示している,といえよう。
 なお参考までに,並木美喜雄『量子力学入門』の叙述を引用すれば‥‥,現代の最先端の物理学である量子論(量子力学)によれば,「量子論でも,最低エネルギー状態を真空と呼ぶが,それはゼロでないゼロ点振動をもち,大層騒がしい真空である」という。

15.時間の無限分割は可能か

─時間は空間の性質に依存する─

 もう一つ残っている命題〔前出―14(B)〕についてはどうだろうか。それは“現実の時間”は,“幅のない瞬間”である“今”が未来から現在(このときが“今”の顯現)そして過去へと経過している‥‥とする,大多数の人にとっての暗黙の信念によって裏打ちされる。
 しかしことここに至っては,この命題についての細かい議論はあまり必要ではないと思われる。
 実在としての空間は,前出の議論のように,無限分割は不可能であり,その極微の任意の局所は,ある量的な広がりをもって(量子化された状態として)存在する。もし,時間が(数学的に観念化された抽象の空間において可能であるように)無限分割されえると言いつのったとしても,時間は本性上「空間の性質に依存する」のだから,任意の時間幅の無限分割(その極限値が,時間幅のない現在の瞬間,すなわち“今”)は認められない。極微の局所における今(瞬間)の値は,ゼロでなく,空間に依存しつつ,空間の変化(空間の微小単位の組み合わせの推移)にともなって,有限の値をもつだろう。すなわち“時間の無限分割は成立しない”と推論される。
 〔このことを比喩的に,空間は小さなツブツブでできているから,空間に依拠する時間も,ツブツブの様相を示す――とでも表現すれば,理解してもらえるだろうか。〕
 あるいはこう言うべきだろう――時間の無限分割が観念的に可能であったとしても,それは,空間(実在)との相関から切り離された“思考の現象”にとどまって,実在との相関を要求する視点からは,何らの有意性もありえない,と。
              *
 以上の論議の進め方〔命題(B)に含まれる,時間の無限分割に関して〕は,あまりにも常識とかけ離れたものだ,と否定される向き(気分的にも好意をもちえない人や,論理的におかしいぞと思う人)でも,次の表現は認めざるをえないだろう。
 すなわち――「時間は,空間の中に生起する変化の推移を知るるための,便宜的な認識手段である」と。この場合の“便宜的な認識手段”を,そのように考えるしかない「思考の枠組み」(それは,思考というものの形成・成立がそのような枠組みの中でおこなわれてきたから)と言い換えることも可能だろう。もっと単純に表現しよう。

             時間は,空間の変容である

と。すなわち“始めに空間ありき”である。「空間こそが,実在と称すべきもの」であり,いわば「時間は,空間の影」にすぎない。あるいは「空間は実在するが,時間は実在しない」ということである。
 「時間」は観念の中でありえても,現実には存在しない。そして空間は,存在によって満たされており,空間すなわち存在である。それこそが,実在の姿である。存在は「物質」によって成立するとすれば(というように,「物質」を規定すれば),「実在とは,物質に満たされた広がりである空間の多様な表現である」と言うことができるだろう。

16.[補説]時間の無限分割は可能か

─「変化」推移の数量化─

 以上で,ようやく時間についての」考察のあらましを経巡ってきた。時間は空間の変容,空間の動きゆく姿に付随する事象であり,時間が実在に先立って現象することはありえない。この点,時間についての深い洞察者であった道元の見方は,まさしく逆向きの結論であった。すなわち,空間は実在の容れ物,あるいは,実在はすなわち空間の多面性であって,時間は空間(実在)に先行することは許されず,空間の変容としてのみ,その顯現・現在性を獲得することができるだけである。
              *
 この論考のはじめの方(前出―3,8)で瞥見した「時計」(機械時計)は,一定間隔で時刻を刻む(時間を測る)道具であった。そこで計量される“時間”は,人工の産物である“時計の針が示す空間”の差を量的に記述するにとどまる(生活の多くの場面で,アナログ時計がデジタル時計に置き換わっている現在においても,その意味する事情は,帰するところ同じである)。すなわち,流れる時間の跡付けである「時計の時間」は「空間」の一つのあり方にすぎなかった(ベルクソンの見方)。
 このように見てくると,時間が空間の変化(部分の動き)によって生起するとすれば,空間に従属する時間についての,新しい定量化の試みが着想されるのは,当然であろう。
              *
 放射性原子核の寿命をあらわす便利な量の一つに「半減期」がある。これは,原子核にもともとあった核種の数が,放射性の崩壊によって半分になるまでの時間を示す。〔ちなみに「核種」とは,ある原子において,その原子核の中に含まれる陽子数と質量数(陽子数と中性子数の和)のおのおのを指す。〕
 この“半減期”を空間の局部の“変化”の尺度として用いることはできないか。たとえば,1兆個の原子・分子で構成される構成物(組織体)が変化して,5千億個に減じるまでの時間を(h)とおく。そして,その場合の構成要素の種類・大小をまったく問わず,出発点から構成要素が1/2の数になるまでの時間を,無差別に,等しい(h)の値とする‥‥ということである。
 これは,逆向きに,5千億個の要素(分子・原子,など)で構成される構成物(組織体)の構成要素が2倍の1兆個になるまでの時間を(H )とおく‥‥ということでも,言おうとする事情は同じである。いや実は,(h)の場合の1/2,(H )の場合の2倍‥‥と限定しなくても,異なるものを比較するための“回数・度数”などを等しい数(E )などとおくことでも認められよう。(鬼面人を驚かす類の“原子核の半減期”などということを持ち出したのは‥‥,1/2数,2倍数‥‥のように措定する方が,変化し続ける量が大きい場合の比較という点で,取り扱いが相対的に簡便だ‥‥というのが,着想の理由である。)
              *
 ここで(この論考の冒頭部で言及した)『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄著)での話題を借用して‥‥,心臓がドキンドキンと打つ鼓動の“回数”を「ネズミで測り,イヌで測り,ウマで測り,ゾウで測り」などして,その生涯における“ドキンドキンの回数が等しければ,その寿命は等しい”とみなす‥‥ということである。なおこの場合の寿命とは,用語の用い方を1回変換させた“メタ寿命”とでも称すべきものであろうか。本川達雄氏の文章を真にうけて,ゾウもネズミも,そして人間までもが,その一生の間に心臓をドキンと打つ回数がどちらも等しく“20億回”だとすれば,ゾウの寿命(メタ寿命)もネズミのそれも,さらには人間の一生すらをも,ほぼ等しいと見なそう‥‥ということである。そうなると,長寿で名高いゾウも,短命で一生を終わるすばしこいネズミも,わが人類も,一生という長さ(メタ寿命)は等価である‥‥といえよう。(“長寿百歳・万歳”と祝いたがる現今の世相に逆らうような余計な一言を記せば‥‥過不足ない平穏な長寿と生き急ぐ短命とは,価値において相等である,とも言えようか。)
              *
 なおここでの「時間」は,従来の「時計で計測される推移」の固定尺度をそのまま用いる。このように時間計測尺度はそのままにして,生物であれ無生物(有機物・無機物,等)であれ,その変化の度合を比較して,AとBという別々の物質あるいは事象の変化の度合が等しくなった時点で,(Aが変化してその1/2が他に変わった経過時間を1億年とし,一方のBが1/2になるまでの時間が50分だった‥‥というような場合,AとBの半減期は等しい‥‥というように)AとBの“変化の時間価値”(いわばメタ時間)を等しいと措定するということである。〔なおこの場合,Aが2倍になる時間幅とBが2倍になる時間幅とを“等しいメタ時間”と措定する‥‥ということでも,考え方の消息は同じである。〕
              *
 このように考えてくると,“鉄のメタ時間”“石のメタ時間”や“植物のメタセコイヤのメタ時間”“皮膚の組織細胞のメタ時間”‥‥などということも(冗談でなく本気で!)考察の対象にすることができる。そして,通常の時間概念で測った変化の(変化量が1/2倍,または2倍‥‥などとなった)時間幅を“メタ時間 t が等しい”と措定する。なおこの場合「鉄」のメタ時間はよいとしても,「石」はその組成のどの部分か全体か,「メタセコイヤ」は平均部分の総体かどうか,「細胞」はどの部分の細胞を指すのか‥‥等々の限定は,当然に必要である。
 なおこのメタ時間(比較のための新しい数量)は,陽子・中性子・電子などといった素粒子を扱う“極微の世界”や,惑星・恒星・銀河・宇宙といった“巨視的世界”の生成・発展といった現象の理解に新たな有力な武器となりえると思われるが,どうだろうか。
 そういう観点から眺めれば,“ビッグバン”“インフレーション宇宙”などといった宇宙創成にかかわる時間幅を計算する場合の10のマイナス何10乗という極端に微小な数値とか,陽子崩壊の時間が「1兆年の1兆年の100億倍くらい」であり「これは宇宙の年齢の1兆倍の1兆倍と長い」(『岩波百科事典』による)といった巨大な数値表現を,ため息とともに受け取る‥‥といったわれわれの“感受のしかた”にもある種の変化が生じるのではないだろうか。
              *
おわりに】ここらで「時間」についての考察の筆をひとまず擱くことにしよう。「時間は空間の変容である」し「空間は時間に先行する」との考えは,筆者が長年抱き続けてきた時間・空間についての見方であって,ここにようやく素描のかたちながら,記録に留めることができて,ほっとする思いがある。
 時間については,@DNA像を含めて考えた生命的時間,Aエントロピーをめぐる世界と時間との関連,B時間の矢‥‥等々の問題など,時間と関連しての興味ある論題が,なおいくつか残されているが,それは別の機会にゆずりたい。
〔この論考は,93年9月にここに掲載した形にまとめたものである。現在もとくに改訂すべき理由もないので,ここに再掲して,大方の批判を待ちたい。なお,ご通読いただいた方には深甚の敬意を表します。〕

                      ※※※

【参考文献】
*この論考を進めるにあたって,参照したり引用したりした文献の主要なものを列挙して示す〔論考の過程で参照した,おおよその順番で示す。なお『世界の名著』や『日本思想体系』などの冒頭の人名は,編集責任者や編者などを示す。〕
・本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間』中公新書
・「月刊百科:No.243;特集・時」(角山栄「シンデレラの時計」,佐々木三男「人間の時間認識と体内時計」)平凡社
・田中美知太郎『世界の名著:8;アリストテレス』中央公論社
・田村松平『世界の名著:9;ギリシアの科学』中央公論社
・川辺六男『世界の名著:26;ニュートン』中央公論社
・下村寅太郎『世界の名著:25;スピノザ・ライプニッツ』中央公論社
・カント(篠田訳)『純粋理性批判:上中下』岩波文庫
・野田又男『世界の名著:32;カント』中央公論社
・澤潟久敬『世界の名著:53;ベルクソン』中央公論社
・小川環樹『世界の名著:4;老子・荘子』中央公論社
・手塚富雄『世界の名著:46;ニーチェ』中央公論社
・D.ルエール(青木訳)『偶然とカオス』岩波書店
・大野乾『大いなる仮説』羊土社
・東京大学公開講座『混沌』(高橋陽一郎「混沌の数理」,木村龍治「天気はどこまで予測できるか」)東京大学出版会
・寺田透・水野弥穂子『日本思想体系:12・13;道元ー上下』岩波書店
・玉城康四郎『日本の名著:7;道元』中央公論社
・三宅剛一『時間論』岩波書店
・滝浦静雄『時間』岩波書店
・渡辺慧『時』河出書房新社
・渡辺慧・渡辺ドロテア『時間と人間』中央公論社
・中埜肇『時間と人間』講談社現代新書
・伏見康治・柳瀬睦男編『時間とは何か』中央公論社
・藤井保憲『時間とは何だろうか』岩波書店
・松田卓也・二間瀬敏史『時間の本質をさぐる』講談社現代新書
・中村秀吉『時間のパラドックス』中公新書
・デイヴィス(戸田・田中訳)『宇宙における時間と空間』岩波書店
・モノー(渡辺・村上訳)『偶然と必然』みすず書店
・並木美喜雄『量子力学入門』岩波書店
* なお,論考の中で使用する用語の名称や正確さを期するために,岩波書店『岩波科学百科』を大いに参照させていただいた点を特に付記して,謝意を表したい。
              《以上》

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