文化と遺伝子の共進化


思想 / 文化は人間に寄生する生物だと思います が、その寄生者が逆に宿主の遺伝子を選択して、宿主の進化方向を変えてしまう、 という可能性があります。
文化と遺伝子の共進化、あるいは「戦い」だという見方もできます。


むかしむかし、あるところの人間集団で「English」という 言語文化がたまたま生まれたと想像します。
言語は人と人とのコミュニケーションに便利なものなので、 どんどん人間たちの間に広がって行きます。

さてここで、言語的な能力というものが、遺伝的に偏りがあるとします。 つまり、生まれつきの遺伝的制約によって、言語を習得するのが得意な人と、 苦手な人が居る、と仮定します。
言語を習得するのが得意な人は、言語を駆使することによって、 取り引きがうまかったり、人気があったりして、生存率と繁殖率が 上がります。
逆に言語の習得が苦手な人は、意志の疎通がうまく行かなかったりして 生存率と繁殖率が下がります。

これで世代がぐるぐる回ると、次第に言語的能力がすぐれた人の割合が 集団中に増えて行きます。 言語的能力がすぐれた人が多いので、言語そのものがさらに洗練されて 発展してゆきます。
これはお互いに影響しあってループを形成し、

がぐるぐると回り続け、確立します。

これが「遺伝子と文化が共進化する」という仮想的な例です。

そして、とある別のところの人間集団で、「日本語」という言語文化が 生まれたと仮定します。たまたま独立に生まれたものなので、English とは 全く異なった様式をもった言語文化です。
こちらも、同じような仕組みで、遺伝子と日本語文化が共進化します。 しばらく経つと、

がその地域に確立します。

「English」と「日本語」が、文化的にかなり違うものならば、 長い時間の後、それぞれの言語文化に属する人々の(言語的能力に関する) 遺伝子は、かなり違うものが残っているはずです。
例えば、日本語文化の地域で生まれる子供は、生まれつき「日本語」の 学習能力が高く、「English」 の学習能力が低い。 ということがあり得ます。


この2つの仮想的な言語文化の比較で面白いところは、言語文化が 生まれる直前までは全く同じ遺伝子を持つ人間集団で、文化以外の淘汰圧 (気候など)が全く同じでも、そこに生まれた文化が、「たまたま違う」せいで、 全く違う方向に進化が進む可能性がある、ということです。

これは、物理的な淘汰圧以外にも、人為的な気まぐれな文化によって、 淘汰がかかることがある、という例です。
もちろん、言語だけでなく、食習慣や、服装や、音楽や、宗教や、 その他いろいろな文化の影響で、それは起こり得ます。


現実世界で、言語文化がどうなっているか考えてみると、 日本人の子供でも、幼いうちから外国で暮らせば、その土地の言語を 流暢に喋るようになるようですから、上記に示したような文化的淘汰圧は かかっていないように思えます。
もともと、言語というものの構造は、日本語であれ English であれ、 そんなに違わないということかもしれません。 そしてそれは、言語発生以前に構築された、 生理学的な脳の構造が同じだから、(表面的には発音とか語順とかが 違うとしても、本質的には)似たような言語構造しか作れない、 ということに起因するのかもしれません。

(ノーマン・チョムスキーの普遍文法 Universal Grammer というのは、 こういうことを言っているのかな?)

「ことばの不思議」TV番組 1998/06


1998/01/11 T.Minewaki
1999/09/11 last modified T.Minewaki

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