〜心理臨床技術は、新たな地域文化を創造するために有効か〜

      臨床心理士 廣岡逸樹(山口県萩児童相談所、日置フォルケホイスコーレ)

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日置フォルケホイスコーレの焼き芋会

 ○はじめに

 山口県という本州の西の端の人口160万弱の児童相談所の心理判定員として、15年目を迎えている。途中3年間、県立の精神薄弱児施設に指導員として3年間勤務した。

 児童相談所の心理判定員の業務は、クリニック、コンサルテーション、コーディネーションである。中心となるのはクリニックであろう。その基本は今も変わってはいない。しかし、私自身の表現の方法はこの18年の間に随分変わってきたように思う。一言で言えば、「密室の臨床から地域を視野に入れた活動へ」である。私の活動を時系列的に整理することによって、若い臨床心理士の方々へのメッセージとしたい。

 初めの5年間は、研修の機会も少ない地方で、「ケースワーカーに一般行政職でなくもっと福祉の専門家を」とか「もっと長期の研修体制を作らなければ、地方はますます遅れる」などなど悪態をつきながら、プレイルームや面接室の中でのクリニックの力を付けようと一生懸命もがいていたように思う。自主的な勉強会なども同世代の福祉心理臨床の仲間たちと続けていた。エンカウンターグループにも何度も参加した。そのころ出会った小谷英文さんらが開催していた集団精神療法を学ぶグループアプローチ研究会でのグループ体験は、「地域活動を行うときに20人以上の集まりは極力避ける」という今の基本姿勢をつくる上で重要な体験であった。

 しかし、このころはあくまで壁に囲まれた部屋の中での対人関係援助を行う力を身につけることに必死であった。

 

○地方の児童相談所の特異性

多くの世界でそうであるように、大都会と地方都市では格差がある。児童相談所も例外ではない。地方の児童相談所の場合、狭い専門性よりも幅広い、時にはケースワーカー的な動きをしなければならないことが多くなる。現在の勤務地萩児童相談所がまさにそうだ。業務課長を含め児童福祉司は2人、判定員は1人である。外に出かけなければ仕事は成り立たない。 

 また、この15年くらいの間に「待ちの姿勢」から「外に出かけない」と、児童相談所の評価がだんだん下がるという状況も生じてきた。それは一時保護所にいる子どもたちの数が極端に減ってきていることに端的に現れている。そして、行革の中で、職員定数が減らされてきているのが現状である。心理判定員とて例外ではない。15年前に比べても、業務量も圧倒的に増え、質も高いものが要求されているにも関わらずである。

 

○変わっていったきっかけ

 これは下関児童相談所時代の4年間(1985〜1988)が大きい。このとき変わっていくきっかけとなる出会いが2つあった。

一つ目は、「下関に療育センターをつくる会」という団体があり、その会長でもある、済生会下関総合病院の金原洋治小児科部長との出会いである。この会の活動を通じて、福祉という現場が地域のいろんな職業の人々とつながっているものであり、またその活動自体が真に創造的なものであることを学ばせてもらった。こちらがエネルギーをもらう活動であり、今も続けて参加している。この会自体は目標を達成し、今は「障害を持った人々が地域で暮らすこと」を創り出す運動へとステージアップしている。

 二つ目は、児童書専門店「こどもの広場」の社長横山真佐子さんとの出会いである。

 出会いのきっかけは、緘黙児の心理治療の経過の中で、現実場面で声を出す場面を広げていきたいという段階になったときに、「読みあう」ために絵本が良いのではと思いついたからだ。

訪ねると、棚にぎっしり詰まった本を除くと、人が3人も入れば、空間は3人の頭の上の天井までの空間だけというような狭いところで、店長とアルバイトの女性と2人で仕事をしていた。彼女と出会いは、根本から私自身の方向性を変えていくことになる。まず、中央指向、大企業指向(裏返しとしての地方劣等感コンプレックス)ということを徐々に変えていって貰ったことである。

 「こどもの広場」では、年1回の「子どもの広場シンポジウム」や「土曜飲みナー」と銘打った年数回の子どもの現状を語り合う活動などを行い、10年間手伝いを続けた。その中で、工藤直子さん神沢利子さんなど児童文学者はもちろんのこと加藤周一さん、鶴見俊輔さん、日高六郎さん、遠藤豊吉さん、北山修さんらと何度か出会うことになる。大人200人、子ども150人の参加者があるイベントを10人足らずのボランティアスタッフといっしょにやってきた。

 彼らに出会い、彼らの生きた言葉を聞けたことはもちろん有益であったが、その中で、私の中にある中央指向、有名人指向が徐々に消えていった。

 自分の言葉で考え、自分の生きた言葉を使うということの必要性を、繰り返し繰り返し講師の人々や参加者の人々から少しずつではあるが教わり続け、10年も経てば、そこそこ自分でも自覚できるくらいまで、変化していたということだ。

 

○なお変わらなかったもの

 一方、200人規模やもっと大きな規模のイベントのむなしさもだんだん感じるようになってきた。どこかに有名人指向、中央指向の臭いが残っていたことが主な原因であろう。

また、グループアプローチ研究会で出会うような交流を充分行えなかった。「生きた言葉による対話」というカウンセリングの基本となるような他者との関係性を持てたという実感も持てなかった。

 

○閉ざされたシステムは絶対的に危ない

 1989年から3年間、入所型児童施設の指導員を経験した。もちろんマイナスばかりではない。しかし、この3年間を一言で話せと言われたら、「どんなに優れた実践から始まったものであっても、閉鎖された集団というものは絶対的に腐敗していくという実感を持った」ということに尽きる。

 閉鎖された社会の中では、一人一人が熱心であっても、全体としてはその外の世界の要請にいつしか応えることができなくなる。(ということは援助対象者のニーズにも答えることができなくなるということだ)そして、そのことに気づかない(あるいは気づこうとしない)という状態が生まれる。

 密室の中だけで行われる自分自身の臨床心理の活動も決してこの法則からは逃れることはできないのではないかと肝に銘じた。易きに流れやすい私は特に危ないと感じた。

 

○開かれた世界との出会い

 1992年に8年ぶりで中央児童相談所にもどった。そこで、現県立大学福祉学部助教授で当時一時保護所の課長をしていた森法房さんと出会う。彼から教わったものも数多いが、その中の一つに、バングラディシュの農村を援助している「シャプラニール*」というNGOに出会うことになったことがある。このバングラディシュの農村援助活動団体の活動は、ショミティと言われる20人くらいの自立のためのグループ作りを大きな柱としている。この手法は、グループアプローチに類似していると言える。

 1993年、森さんらが1989年以来続けている、子どもたち(もちろん大人の参加も自分の意志で自由にできる)とともに行くバングラディシュのスタディツアーに参加した。このツアーでは、ショミティの集まりにも参加し、肌でシャプラニールの活動と村の人々が自立のために生き生きと目を輝かせて、字を憶え、計算をできるようになっていく姿をかいま見ることができた。また、田舎の村に4日くらい滞在する。このわずか4日間に多くの日本人の子どもたちの顔が変化するのである。こわばっていた筋肉がときほぐされ、表情が輝き出すのである。(私の顔も多少は変わっていたのであろうが、自分の顔は見えなかった) 私が参加したツアーでは高校生が1名であったが、やはり同じであった。この力は何なのか?それは疑似体験になりようがない、リアルな出会い(エンカウンターという言葉にふさわしい)による力ということに尽きると思う。こうした出会いが、最貧国と言われるバングラディシュのそれも最も貧しい農村の人々(ただし、これはシャプラニールの活動によって、自ら行動し変化し始めている人々と会うという条件付きではあるが)とほんの数日出会うことによって起こりうる。この事実もまた、日本のしかも地方都市で子どもたちに出会う私にとって、忘れることのできない体験の一つとなった。このスタディツアーは今も続いており、昨年は知的障害の青年も参加した。(直観的にはこれがまさにノーマライゼンションの名に値する活動であると感じている)

 

○もうひとつの開かれた世界との出会い

1995年、清水満さんの『フォルケホイスコーレの世界*』という本に出会い、デンマークの教育の豊かさを知り、フォルケホイスコーレ(民衆高等学校)活動に参加することになる。

 フォルケホイスコーレの考え方は、日本の学校教育に真っ向から対立するものではない。また、シュタイナー教育のように、特有の思想を学ばなければ教育ができないというものでもない。それは非常に当たり前の、自分自身の生きた言葉(表現)による対話(人間同士の交流)を実践しようとするものである。

 今の日本の学校でも、部分的には実践されていることであろうし、不登校児のためのフリースクール活動では、意識されているかどうかはともかく、この交流をしっかりと実践し、それによって不登校状態に陥った子どもたちが新しい自分の進路を見つけているのであり、取り立てて新しい考えということではない。

 では、なぜあえてこのフォルケホイスコーレ活動に参加するようになったかと言えば、それはすでにある良いものをしっかりと見つけることから始まる実践となり得るし(今の学校を全面否定することよりはより現実的である)、またシュタイナー教育のような優れた教育をもその中に含みうると直感したからである。現にデンマークではシュタイナー教育を実践するフォルケホイスコーレがあると聞く。

 

○ささやかな実践のスタート

 1996年からは、山口県の山陰の小さな町日置町に引っ越した。人口4700人あまりの第一次産業の町である。

「重い障害児を持って小さな田舎町には住めない」と言った重症心身障害児の母親に対する私なりの答えを出すためと、福祉による地域起こしをするなら、より小さな町の方が変化を起こしやすいだろうと思ったこと(そのもっともすばらしい実践を北海道剣淵町精神薄弱者授産施設北の杜舎の横井寿之さんらの活動に見ることができる)、その2点による。

 ちょうどその時小学1年になった長男の同級生は17人で、当然1クラスでのみである。日本に居ながらにして、北欧の小学校並の人数である。豊かな学校(になりうる可能性を大きく秘めている)と言ってよいだろう。このことは思いの他のよい出来事であった。

 昨年は職場に泊まり込むことや午前様(酔ってではなく)になることが普通であったため、思うようなものはできなかったが、その中で、「どんぐり文庫」と名付けて、自宅でストーリーテリングや、庭のパン焼きガマでさつまいもを焼いて、地域の子どもたちや大人と交流するなどの実践を行うことができた。日頃の文庫活動は圧倒的に妻の力に頼っているのだが、丸1年が過ぎた。

どんぐり文庫の紙芝居

 地域にとけ込むというにはまだまだ時間がかかるであろうが、ときどきではあるが、地域の人々(たまには県外からの参加者もある)との交流もでき始めた。

 今年もすでに、日本では数少ない読書療法家である村中李衣さんとの「読みあい*」を行った。大人、子どもを含めて30人くらいの参加で、楽しい一時であった。メインゲストの村中さんから「気持ちが解放されて楽しい時間が過ごせた」という一言も嬉しい。

こんな相方向の関係が成り立つ時空間をできるだけ多く持ちたいと思う。

 

○これからやろうとしていること その1

今、清水満さんたちと具体的に勧めているのは、基本形としてのフォルケホイスコーレを九州のある村に作ることである。文楽という伝統芸能を農家のおばちゃんたちがきちんと継承しているこの村は、私たちのフォルケホイスコーレにふさわしい地域のように思う。またこの村の畑の野菜を全部有機無農薬で作ることを目指しているのも嬉しい。2年後にはフォルケホイスコーレ(各種学校扱いか)としてオープンできればと、仲間とわいわいやりながら準備を進めている。

 この活動の中で新たな出会いがあった。中間技術*を持った理念のしっかりした中小企業と結びついて、村の農産物を売るという経済活動ができそうになってきたことである。いままで、福祉分野のボランティアをする人として、JC(青年会議所)の方々と交流することはあったが、経済活動というあちらの土俵にこちらがある程度参加するということも未知の体験であり、ワクワクしている。

 また、「フォルケホイスコーレ活動」を実践していく過程の中で、今の日本の学校の問題点を取りあげて批判するのではなく、よい点をしっかりと見つける作業を続けていきたいと思う。これはまさに虫眼鏡で探すことになる場合もあるであろうが、対抗するフリースクールがあちこちにできていくのと同じくらい、子どもたちが生きていく力を身につけていくために有効なものであろうと確信している。

 更に、独自の文化を持って地域で暮らす活動を、子どもたちとの関わり、また今まで病院や施設内での生活しか将来展望としてはなかったような自閉症や重症心身障害の人々との関わりの中で、創り出したいと思っている。これはまさに創造的という言葉に値する、ワクワクするような活動である。

 心理臨床の仲間からは、「八方に手を伸ばした、本当はなにがしたいのだ。もう少し地に足のついた心理臨床活動ができないのか。」という声も聞く。以下、自分の行動を正当化するための理屈作りをしておく。

 

○外に出ていくことを正当化するための屁理屈付け

 鶴見俊輔さんから「プラグマティズム*」の基本を学んだ。もちろん、プラグマティズムの基本的な考え方にもいろいろある(大きく分けて3つ)が、ここではパースが強調した「異者が対話を成立させる技法としてのプラグマティズム」を強調しておきたい。異者(ことばが通じない人、自分の今までの経験では計り知れない理解を超えた人)と対話(理解し、関わりを続けていくこと)するための技法と捉えたら、「共感、絶対傾聴」という言葉をを心理治療の中心においた、カール・がもう一度私の中で生き返ってきた。

 自分自信の活動として、狭い部屋を選ぶか、もっと広い場所(地域)を選ぶか、これは優劣をつけるような問題ではない。どちらも必要であるし、欠かせないものである。ようは、個人がそこでワクワクするような体験なり成長体験をしうるかが重要であるし、それが固有の文化活動(外から見てそう評価されうる)となるならば、どんな場所でも、より実りの多いものと実感できるものだ。

 しかし、バーチャルリアリティの世界がますます広がるこの日本だからこそ、その世界をより豊かに生き抜くためには、生きていくバランス感覚として、面接室よりもより生活の場に近い場所に「生きた言葉による対話が成立すること」が求められているように思う。

 そうだとすれば、臨床心理士が中間技術として持っている対人援助の技法は、今既に身につけているものだけで、社会をよりよいものに変えていく方法として充分通用する技術と言えよう。それを出し惜しみするのは、いかにももったいない気がする。

 

○おわりに

この原稿は、心理臨床(第10巻3号、1997.9.)という季刊誌に投稿したものを一部手直ししたものです。半年が過ぎて、日本グルントヴィ協会の活動としても、既に大きな変化が生じており、現状に合わなくなっている記述もありますが、そのままにしています。

頂上へ至る道はいくつもあります。情熱を持って、登り続けたいと思います。仲間がいれば、道草も楽しいものです。

(参考文献)

*『NGO〜シャプラニールの実践とソーシャルワークの技法に関する考察』 森法房 山口県立大学社会学部紀要 第3号 

*『フォルケホイスコーレの世界(現在は『生のための学校』)』 清水 満 新評論

*『絵本を読みあうということ』 村中李衣ぶどう社

*『スモールイズビューティフル』 F.F.シューマッハー 講談社学術文庫

*『アメリカ哲学』 鶴見俊輔 講談社学術文庫

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